もし記憶力がなかったら

2011年4月30日

記憶は生きものだというお話しです。

今はコンピュータの時代ですから、記憶はそちらに任せておけばいいと思っている人がいるかもしれません。

コンピューターの記憶と人間の記憶には雲泥の差があります。

コンピューターの記憶は死んだ記憶です。

私たち人間の記憶は生きものです。

 

記憶が私たちにとって大切なものだというのは、記憶喪失を考えただけでもすぐに解ります。

あるいはアルツハイマーでもいいです。

記憶が無くなったら、生きていることそのものが変わってしまいます。

「そんなことは言った覚えがありません」を繰り返していては人間関係に破綻が生じますから社会性ができません。

「あなたはどなたでしたか」では客商売は成立しません。

 

記憶は器に溜まります。大きなボールの様なものの中にです。

その中に印象に残ったものが溜まります。

それが覚えたことです。

それは取り出すこともできます。

思いだすということです。

もし印象に残ったものがその場限りのことで終わってしまえば、覚えているものは何もなく、その場その場で周囲に反応しているだけです。

感応人間です。

 

この器はコンピューターの死んだ記憶の仕組みとは違い、生きものです。

仕組み違います。

生きている器、それが人間の記憶です。

この器、譬えて言えば、飛躍が大きすぎるかもしれませんが、背骨の様なものといえます。

背骨は人間の体を支えています。

背骨は強靭ですが、一本の棒ではなく、三十幾つかの骨が集まっててきていて、さまざまな動きに耐えられるものです。

重量挙げの選手も、柔道の選手も、陸上の選手も、サッカーの選手も皆この動く背骨があるからできるのです。

勿論泳ぐこともできます。

棒のような背骨ではそれは不可能です。

記憶という器も、もし金属でできている器、がらの器、木の器という様なものだったら、私たちの記憶はコンピューターの様なものになってしまいます。

器は細胞を持った生きものです。覚えたり、思いだしたり、忘れたりというのは記憶の生きている姿です。

器は生きものですから栄養補給が大事です。

感覚的に感じている印象がこの器の栄養です。

私たちが何も感じなくなってしまったら、器は栄養失調になり、干からびてしまいます。

そうなれば記憶は死んでしまいます。

 

記憶喪失とかアルツハイマーのことをここに持ってきます。

この器は繊細なものですから、大きなショックを受けるとすぐに固まってしまいます。

金属とか、ガラスとか石とかの様な固いものでできている器と同じ、死んだ器になってしまいます。

すると印象を取り入れることも、それを取り出すこともできなくなってしまいます。

実はこう言うことは器が生きていれば自分でやっているのです。

器が生きものであればそれができるのですが、固くなって、つまり死んでしまえばそれはできなくなってしまいます。

記憶喪失というのは、只脳神経が切断されたということだけでなく、ショックで記憶という器が固まって、死んでしまったときにも起こるのです。

 

記憶のことが間違って扱われると記憶は繊細な生きものですから、すぐに壊れてしまいます。

自分というもの、自分がここに居る、自分が生きているという証は、何を隠そう、ここでお話しした記憶と関係があります。

そもそもの自分、仏教でいう大我とか真我が、記憶の器に映っているのです。

私たちは大我、真我そのものを感じるためには、相当の修行をしなければなりません。

普通は、記憶の器の中に薄い箔ができてそれが鏡の様なものになり、そこに映っているものを自分と感じているのです。

その映ったものを自分と呼んでいるのです。

記憶がないということは、大我、真我がそこに映らないので、自分という意識が生まれません。

 

記憶を生きもとの見ずに、子どもにどんどん覚えさせたとします。

器は一方的な負担にさらされてしまいます。

そもそも器にとっての栄養は感覚的な印象でした。知識は栄養にならないのです。

干からびしまいます。

鏡も曇ってしまいます。

そしてそこに大我も真我もはっきり映らないですから、自分の希薄な人間になってしまいます。

 

記憶のことはまたいつか続きのお話しをします。

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