泉鏡花 - 失われた日本語を求めて

2013年4月29日

明治以降の文学者で泉鏡花ほど興味を惹く作家はいないので、彼のことを書きたいと以前から思っていましたがとても歯が立たず見送って来ました。

今日も別に歯が立つと思って書いているわけではありません。実家に、その昔、日本を出る前に揃えた全集があるので、久しぶりに読んで、改めてこの作家の文章の力に感心したので、その辺りを一度はブログに書いておきたいと思ったまでのことです。ですから泉鏡花論などと言うものとは全く別のものです。

 昔、彼のような文章を書けたらと思ったことがあります。何度も書き写したりしました。ところが絶対に彼の様には書けません。まねすることすら出来ません。外国語をマスターするのと鏡花の言葉をマスターするのと、どちらが難しいだろうか、と比べてしまうほど鏡花の言葉は、普段私たちが使っている文章とか、言葉遣いとかけ離れています。

私たちに取ってなじみのある文章が、実は西洋の言葉を翻訳しながら作られてきた新しい日本語だと言うのを、泉鏡花の文章に接してみて初めて体得し、日本語にはこんな資質があったのかと泉鏡花から教えられた記憶があります。彼の言葉遣いから見ると私たちの言葉である日本語は論理的な文法の制約を受けた翻訳からうまれた新日本語と言ってもいいのかもしれません。

日本語はそもそも西洋の言葉の様に文法によって整理される言葉ではありません。鏡花の言葉の故郷でもあるお能の言葉も、文法に沿った文章としては整理できません。日本語には別の言葉の法則が生きているのでしょう。それが何かはこれからの仕事です。インドゲルマン語以外の語学的研究はまだまだ未開発状態ですから、今後の研究の成果によっては、新しい言語体系が浮き彫りになる可能性があります。

鏡花の文章は外国語に訳すのは難しいと思います。日本文学研究家で、日本語を深く知っている、震災後に日本に帰化されたドナルドキーン氏は、泉鏡花を読むのは日本語の醍醐味だといいます。

泉鏡花を知らない人に泉鏡花のことをお話ししようとすると、言葉に詰まってしまいます。とにかく読んでみて下さいと言って突き放すことも出来ません。たぶん、そういわれた人は読むために、買い求めたり、図書館で借りて来るでしょう。ところが本を手にしても、鏡花の言葉は「読んでみて下さい」では話しにならないのです。読みにくいというレベルではなく、あまりにも今の日本語とかけ離れ過ぎていて、今の人たちは文章について行けないのです。

私自身、昔読んだことのあるものでも、始めの出だしは何度も繰り返し読みました。そうしないと入って行けないほど異質の言葉です。何度も躓きながら何とか話しの中に入ってゆけました。何かが違うのです。口語体の文章とも言えますが、それだけでなく、日本語の中だけにある独特のバネ、飛躍、暗示力、流れの作り方で語られます。非論理的な文章なのに、鮮明に具体的なイメージが生み出されるのですから、確かに日本語の醍醐味なのでしょうが、ついて行くのが大変です。

古い人かと思うとそんなことはなく、1873年(明治6年)生まれで、亡くなったのは1939年(昭和14年)ですから夏目漱石よりも七つ若いひとです。環境的には近代日本の流れの中にいる人ですが、その文章は日本の伝統文化を、お能、浄瑠璃、連歌と言った日本語文化をしっかり受け継いでいるもので、西洋文化を取り入れ、翻訳を消化しながら発展してゆく日本文学の流れとは違うところで文学生活をした人です。特に自然主義の文学からは軽蔑と言えるほどの扱いを受けています。

鏡花の小説は読んで「ためになった」と言うことはない、純粋に遊びの世界です。彼の小説を読むと必ず全く別の世界に運ばれます。それがどこの世界なのかはうまく言葉に出来ませんが、優れた芸術が必ず私たちを別の世界にもって行ってくれるように、泉鏡花の小説も私たちを別の世界に連れて行ってくれます。これは確約できます。ですからに何でもいいですから、一度読んで見て下さい。

多くの作家から尊敬された人です。芥川が自殺をしたとき、枕許には聖書と泉鏡花の本があったそうです。三島由紀夫は絶賛し、谷崎潤一郎も天才と言う言い方で泉鏡花を評価します。賞賛する文学者は枚挙にいとががありません。

私は、 鏡花の世界は、特に文章は、新たに日本語のあこがれとして、きっと日本文学の中に再登場するとみています。失われた日本語を求めて、日本語がそもそももっていたものが、新しい感性によって再生する時が来て欲しいものです。

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