新しい遠近法、金色からのヒント

2013年5月8日

金色に近づきたいと思ってイメージしていると、色を全部合わせたら金色になるような感じがしてきました。

しかし実際に水採の絵の具の色を使って描いているときに使った筆を水で洗ったりしていると、水の入った瓶は濁った色になって、色が薄ければ灰色のような感じですが、色が濃いと水はどんどん黒に近づいてきます。色がまざると金色ではなく黒になります。金色には程遠いい色です。仕切り直しです。

色が全部合わさって金色になるというのはどういうことなのか、更にいろいろと考えてみたのですが、どうやら物質的には成立しないことのようです。

イメージ的にというのは物質的ではないのでしょう。友人の檜山さんは無重力ということを言ってくれました。

太陽光線はふつう白色ですが、それは金色が限りなく薄まった色なのかもしれないそんな風な感じがしてきました。光の三原色が集まるところは白になります。

白が薄まった金色だと言うのはもちろん何の根拠もない話です。

 

中世の肖像画の背景は金色で、ルネッサンス以降そこに風景が登場してきます。モナリザを思い出してください。それはヨーロッパだけのことではなく日本でも同じような傾向があります。中世が金色を求めたのは何かの理由があると考えたいのです。

 

以前のブログで死を扱ったときにdes todes sterbenという、「人間は運命で死ぬ」という死にたいする考え方が中世にあったことを言いました。もう少し突っ込むと、当時人間の行為というのは何かの目的のためにするということではなかったのです。現代人の意識では「何かをする」ということが主流です。何かを食べる、何かを忘れる、何かを考えるという目的が行動の後についてきます。目的が行動を規制しているともいえます。

今の人がタイムマシンで中世に戻って、そこで生活を始めたらと想像すると、まず考えられるのが、今の人はすぐ気が狂ってしまうということです。たとえば食べるときの意識が全く違いますし、考えるとは言っても何かを考える人などいないからです。もちろん食べているのですが、そこでの意識が違うということです。たべるというのは、あえていえば「いただきます、頂戴いたしますという感じです。考えるにしてももっぱら「おかげさまで」一辺倒で、自分が何かを考えてそれで結論を出すなんてことはしないのです。できないのです。

それは文法的にいうと二格を目的語にとるということなのですが、二格が目的語というのは無理があります。二格というのは目の前にあるのではなく、後ろに控えているからです。後ろに目的が控えているのです。後ろから人生を見ているものがあるのです。それが二格によって表現されたのです。

目的格というのは単に文法的な説明で済むものではなく、そこには精神文化の背景があって、そこを見逃しては語ったのでは単なる機械的な文法の説明で終わってしまいます。

目的格には重大な意味が隠されているのです。

本当の意味で目的格と言えるのは「何々を」という四格です。三格は間接的な目的語ですから、目の前にあるのではなく、横にあるものです。そして二格は後ろです。

人間の生きている空間とそこで働いている意識の問題、それが目的格の正体です。

 

中世という時代的背景を考慮すると、金色はこの二格に相当しています。金色が肖像画の背景になっているというのは、人間を後ろからみている存在があるということです。その存在が金色を使ってあらわしたということです。金色が背景と言うのは何者かが肖像画を後ろから見守っているということなのでしょう。

中世には全く違った遠近法があったのです。それは絵の背後から生まれる遠近法です。それを遠近法といっていいのかどうか躊躇してしまいますが、少なくとも絵を見ている者から作られる、現代の遠近法ではないということです。

 

中世から近代、現代にかけての変化は遠近法の視点の変革、つまりコペルニクス的です。現代から次の世代にかけて起こる変化はなんと呼ばれるのでしょうか。

もう始まっているので早く名前を付けてやらないといけないような気がします。

 

 

 

 

 

 

コメントをどうぞ