心はジャム - 料理は心そのもの

2013年5月21日

自分の心は、自分なのに自分の手に負えない、そんな経験はみんな持っていると思います。

哲学が誕生した古代ギリシャから心の探究が始まったのですが、それ以来、心は私たちを不思議がらせ、悩ませ続けています。

心は知れば知るほど手ごわい相手だと解るだけで、老子が「知る者は言わず言う者は知らず」と言ったように、知ったかぶりで話すと迷路に迷い込んでしまいます。心理学が進んでも世界的な鬱症候群、鬱の人たちの数は増えるばかりです。

 

心は使う人によって色々な言い方がされます。魂とも感情とも言われていますが、それぞれが同じものかというと、混乱した使い分けがあり、全く違うものを指している場合もあります。

魂と言うときは精神世界と感覚的-物質的世界を結ぶものであり、その場所のことを指しています。宗教的にはこちらの方が多く使われています。心理学では宗教性をさけて、学問的であろうとすることから、魂という言い方はさけられて、心、感情と言う方が好まれます。感情のときは理性と衝動いう二つの絡みあいからうまれるものです。いずれにしても心には二つの要素が必要で、その二つがどの様に関係し合うかが問われています。

 

突飛な言い方ですが心は実はジャムです。

ジャムというのは、イチゴジャムのことを先ずは思い浮かべますが、本来はごちゃごちゃな、混乱した、渋滞してるなどを意味します。交通渋滞は英語ではtraficjam交通機関がジャムになったといいます。

心がジャムと言うのは、心は交通渋滞に似ていると言うことです。そして交通整理に信号が設置されるように、心には心理学が用意されたと考えてはどうでしょう。

余談ですが、イギリス人はジャムとマーマレードをはっきり分けますが、これはイギリスの食文化の中でしか意味を持たないものです。もともとは同じようなものだからです。マーマレードのレードはチョコレートのレートと同じで、どろどろした状態にあるもののことです。チョコレートムース、脂のラードも同じです。ジャムは果物をぐつぐつ煮たもの、マーマレードはオレンジを煮たものですから、イギリス的には違いはあるもののマーマレードのオレンジも元はマルメロを煮たものですからマルメロラーデでしたからジャムでいいわけです。

ぐつぐつ煮たものがジャムだとすればジャムは料理の基本ではないか、そんな気がしてきます。ジャムだけでなく料理するというのは混沌とした状態から形あるものにしたいという本能があるからに違いないと睨んでいます。料理と心、根っこは同じものでしょう。

 

料理をする、料理を食べると言うのは単に栄養学が説明するもの以上に、心の文化、心の生活、心の成長と深く関わっているものです。グルメブームでずが、個人的には最近は料理が貧しくなってきていると感じています。私の持論ですが、料理が貧しくなると、グルメが栄えるのです。グルメはおしゃれのようなものです。刺激的で、イヴェント的です。余技であり、飾りです。豊かさとは違うものです。料理の豊かさは家庭陵にあるのです。中国料理は宮廷料理と家庭料理とに分けられるそうですが、宮廷料理の起源もおおかたは家庭料理です。家庭料理はすべての民族の料理の根元を成しているものです。

 

家庭料理はジャムそのものです。主婦が過ごす夕飯の前の一時間は、交通渋滞の様なものです。渋滞になったら信号も役に立たないものです。気の利いたレシピも夕ご飯の前には役に立ちません。渋滞で詰まっている車からクラクションが煩いように、おなかをすかせた子どもはまだかまだかと煩くします。

この混沌とした毎日の中で作られる混沌とした家庭料理(美味しいかどうかのレベルではない家庭料理のことはすでにお話ししています)。子どもはその環境の中で、その料理の中で鍛えられ、育っているのではないか、そんな気がします。真の味覚はその混沌とした中で作られるものです。整理整頓されて食卓にグルメのような食事が奇麗に並んで、それをレストランで食事するように堅苦しく食べても子どもの心は鍛えられるものではない、そんな風に言って見たいのです。

 

心はジャム、このことをもっと提唱したいです。

親子、特に母親と子どもがぐちゃぐちゃに絡み合いながら、心をまぜこぜにしながら育てているものがあるのです。心は常に二つのものの混ざりで作られます。親と子もその二つです。

母親たちの最終学歴が高くなるにつれて子どもの様子がおかしくなって来たんです、とある幼稚園の園長先生がお話しして下さったことを思い出します。

心がジャムと知って見ると、心にすることが見えて来る様な気がします。

 

 

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