生きること、そして、生かされていること

2011年9月23日

この二週間は何も手につかずいましたから、何も書かずにすごしました。

その間にも頭はいろいろと動いていて、いろいろ考えました(ここも止めたかったのですが、私の力ではできませんでした。そのうち何とかなるでししょう)。

生きるというは何かに支えられているということを改めて確認しました。

その何かというのは人によって違うと思いますが・・。

つまり生かされているということです。

生かされているという感触は相当大きな支える力になります。

操り人形、マリオネットの様な感じです。

が、自分を操っている存在、それを動かすための糸に全宅してしまうのですから、これほどの安心な支えはないともいえます。

見方によってはなんと無責任な、ということになります。

悪いことをした時には誰が責任を取るのだ、あんたが全宅しているそのなんとかという存在者かね、と啖呵が切って押されるでしょう。

そこは考えないといけないと思いますが、自己責任と全宅とはすこし話しがずれる様な気がします。

そして支えられているという事実と、それを意識できる、確認できるというのは違うということです。

本当は支えられているのに、そこに気が付かずにいる場合が多いものです。

そうなると支えが見えないので、自分が納得できる支えを考えだします。

人によっては無神論といういい方もするようです。

その納得できる支えは今日の言葉で言うと、保障とか保険かもしれません。

保険に入っていれば安心という考え方は随分普及しています。

ところが保険をかけ過ぎているという、本末転倒も起こります。

安心の洪水です。

保険の背景はお金です。

お金が生きていることを守るのです。

お金は大切です。

しかしお金を保険の道具と扱うのはお金に失礼です。

植物学者が動物の研究をするようなものですから、勿論専門外のことに口出しをしてもかまわないのですが・・、畑違いということでもあります。

お金は本来はそんなものではなく、生きることを活性化するものです。

お金が保険になるというのは、生きていること自体に問題があります。

生きるということがそれでは守り体制になってしまいます。

生きるというのはもしかすると失敗をすることかもしれません。

そこには損という考えもあるのす。

得をしたいとつい思ってしまいます。

安ければいいというのも時代的趨勢です。

これも、我ながら随分飛躍していると思いますが、守り体制的生き方の様な気がするのです。

損をする、失敗をするという勇気が生きることを活性化してくれるのではないかという気がします。

もしかすると「正しい」という考え方も、結構守り体制的思考の産物かな・・

正しいことばかりしていると行き詰まってしまいます。

正しいことをしている人の顔はひきつっています。

やっぱり間違ったこともできないと、顔がほぐれませんし、生きていることがしなびてしまうのです。

無駄もよく似ています。

私にしては難しいことを言います。

もしかすると矛盾しているかもしれません。

間違ったことをしている、無駄なことをしているというかすかな意識はひつようなんです。

それが生かされているという自信の中にある様な気がします。

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