光のデジャブとレオ・スレーザークのシューベルト

2013年11月29日

 

レオ・スレーザークはかつて一度ブログでも取り上げていますが、知る人ぞ知る戦前のテノール歌手です。戦後は彼の様に歌うことが、悪い歌い方の手本?の様に言われたこともあり、スレーザークのことを知っている人はほとんどいなくなってしまいました。

 

彼は自伝の中で「シューベルトの歌はいつもミサをあげる様に(祈る様に)歌った」と書いています。

スレーザークが歌う「夜と夢」と「リタナイ」は圧巻です。寄ると夢は、スレーザークの歌が夢の空間と時間の中を漂っているのです。とても軽く聞こえます。しかし存在感があり、温かさと、光に満ちています。もうこれ以上軽くなったら地上から消えてなくなってしまう、そんな感じがします。リタナイは祈る時の心のテンポで歌っています。ゆっくりと歌われるリタナイの中にはおどくほどの光があふれています。

ライアーの音も夢の中をさまよっている様なところがあります。その夢心地にいざなってくれる音を持っていることがライアーの最大の魅力です。ライアーは現実離れしている楽器、しっかりした音楽に向いていない楽器かもしれません。しかし、それだからこそ切り詰められた現実に疲かれている人たちに聞いてほしい音なのです。スレーザークが悪い歌い方の手本になってしまったのは、音程がずれる、楽譜通りに歌わない、と言うことなのですが、実はライアーにも多少当てはまります。

スレーザークの歌を聞いていると、現代的な歌い方は却って楽譜の奴隷になっているだけではないのかと言う気がしてきます。

楽譜はそもそも音楽の便宜上のものだった筈です。それが今は権威になってしまっています。楽譜通りに弾くことがいい音楽です。本末転倒とはこのことです。法律が、人間生活の便宜のためにあったのに、いまでは法律に縛られた世の中になってしまった様なものでしょうか。

 

楽しい出会いがありましたので、そのことを書いてみます。

音楽をこよなく愛している男性の話しです。

奥さんがライアーを弾く方で、彼女は友達と集まってよく合奏をしたりしていました。ご主人は性格的には辛口で、口が悪いところがあるので、奥さん連中の練習の様子を見ては(聞いては)いつも、「ライアーはどこか間違っている」と言い続けていました。私は奥さんからそのことは聞かされていたのですが、彼が何を考えてそう言っているのか詳しくは知らずにいましたので、わが家に寄ってくれて、夜が更けるまで音楽の話した際に直接聞いたところ、「無理をしている、できないことをやろうとしている」と言うことでした。

彼に、録音したばかりの一枚目のCD「光の波紋」をプレゼントすると、私がどの様に弾いているのかを見たいと言うので、ヘンデルのサラバンドを弾きました。

聞き終わった彼は、「そうか、ライアーってそう弾くのか」と納得してくれて、それ以来奥さんたちの練習を聞いても「下手だとは言っても、ライアーは間違っている」とは言わなくなったそうです。

 

 

 

 

 

 

スレーザークの歌の無重力、これはシューベルトの歌を弾く時とても励みになります。無重力状態とは言っても、音が貧弱と言うことでもなく、曖昧な弾き方をするというのではないのです。しっかりとした音が宙を舞う、そんな感じです。

 

 

 

 

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