初めにコトバ(信仰心)ありき

2014年3月20日

父が亡くなって、お悔やみの言葉を沢山いただきました。ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

いただいたお言葉の中にはいつも「心から」という一言があり、「心から」と聞くたびに、皆さんが私に、「おまえと一緒に居るよ」とお気持ちを伝えてくださっていることが伝わってきて、こちらも「心から」皆さんのお気持ちが嬉しく、私の中に温かいものが流れているのを感じていました。

「心から」に一番励まされました。

親を失ったことからの悲しみは比べようがないほど高貴なものでした。悲しみは悲しいから悲しみではなく驚くほど自然な感謝に満たさたものでした。失って始めて見えてきた、いつも一緒に居てくれたことへの感謝でした。「一緒にいてくれたことがこんなに素晴らしいことだったんだ」、ここに気付かされました。親に向かって改めて「生まれた時から一緒にいてくれて」というのはおかしいですが、それでも私の誕生からずっと一緒に居てくれた人など親兄弟の他にはいませんから、今回の父の死を通して始めて一緒にいてくれたことの有難さをかみしめることになりました。

 

新約聖書、ヨハネ福音書の冒頭で使われる「コトバ」は神の光の世界からのしずくのことです。コトバは神のもとにあったとヨハネは締めくくります。コトバですから言葉と理解しても間違いではないのですが、私たちの普段使っている言葉とは遠くかけ離れています。しかし、私たちの言葉が光に満たされたものになればその言葉はヨハネが私たちに伝えたかった「コトバ」と同じです。今回私が浴びた「心から」という言葉は光のシャワーとなって父亡き後の自分を支えてくれました。

 

父は信仰の篤い人でした。「今日は亡くなった先祖の誰々の命日だ」と言っては御経をよんでいる姿は、子どもの目には不可解でした。さらに不可解だったのは父があまりにも自然にすることでしたが父の信仰心からすれば当たり前のことだった様です。

今にして思うのは、読経は命日に当たる先祖の霊に向けてされていたものですが、実は父自身に向かっての読経だったのではないのだろうかということです。読経することが信仰心だとは言いませんが、信仰心がなければ読経しないのも事実です。父は読経の中に生きていた信仰心によって支えられていたようです。冷たい親戚の姿を何度も目の当たりにしながら、それに文句も言わずにいられたのは、父が信仰心にささえられていたからです。その信仰心からの読経だったのではないか、そんな気がするのです。経文を声にすることで父の心の中にわだかまったものは浄化されていった様です。

 

ヨハネ福音書の冒頭の「初めにコトバ言葉ありき」を、私は「初めに信仰心ありき」という風に書き換えてみたくなります。一般にはコトバと訳されていますが、そもそもはロゴスです。知的なことの代表のロジック、論理的な、はこのロゴスから来ていて、知的なものの先祖と看做されていますがロゴスは本来は包容力がある言葉で、私がここで信仰心と訳しても揺るぐことはない程の言葉です。信仰心が人間の本源だという意味になるかと思います。

信仰心というと、今日インテリ層からは幼稚な人間のすること、神様を信じるか信じないかの様な低俗な話しになってしまいますが、信仰心をそのレベルの話しにしてしまうのはインテリ層の人たちの心の貧しさの現れです。

信じるのとも違います。仰ぎ見るのです。驕りのある「信じてやる」という高い視線から物事を見ているのとは違います。仰ぎ見るのです。信仰心とは驕りとは対極の高貴で敬虔なもので、インテリたちは笑うでしょうが心の唯一の糧なのです。

 

信仰といえばすぐに宗教です。しかしよく観察してみると信仰によく似たものが横行しています。何も宗教だけでなく無神論すらも篤く信仰されているのです。無神論だって信仰の対象だというのは意外でしょうが無神論も立派な宗教だということです。ただ無神論者には見上げるという心の姿勢がないですから、本物の信仰とは区別したいと思います。

学問的、科学的に実証されているから正しいというのも実は信仰です。この信仰は仰ぎ見るという心の敬虔さが伴いませんから、正しい様で実は思い込み、独善に満ちたエセ信仰といえるもので、危険で危ないものです。

最近はインターネットの登場で変化していますがメディアもジャーナリズムもかつては宗教の様なものになっていて、エセ信仰の対象でした。

 

人間が動物から新しい種になったということは、動物を守っている本能から、信仰心によって守られる新しい領域に入って行ったということです。精神的存在としての人間性は、信仰心を持つことによって自立出来たのです。まだ神様の存在を信じていた時には、信仰心は神様に向けられました。

今は、違います。

神は死んだ、宗教はアヘンだという二つの柱に支えられた無神論、唯物論が主流です。そのため信仰の対象はその時から変わりましたが、時代がどうであれ、人間が人間である限り信仰はなくならないのです。だとすると一体現代人は何を信仰しているのでしょうか。何を支えに生きているのでしょうか。

人間は人間性を持った存在として、かつては自分を守ってくれるものを信仰してきました。そこに生きていることの充実を感じて生きて来ました。人間性のために植えつけられた信仰という能力は今もしっかりと存在しています。それなくして人間生きて行きけないからです。

悲しいかな今はこの信仰、もっぱら権力とお金に向けられているようです。人間はそれによって守られていると感じている様です。

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