金曜版 6 啓蒙と、芸術の美と 

2014年5月10日

私たちは啓蒙された世界の中で生きているということになっています。本当かな、と思っています。どんどん解らない世界に呑み込まれている様な気がするのは私だけでしょうか。

啓蒙は英語かフランス語からの訳語ですから、英語を見てみるとThe enlightmentで、闇を光で照らす、知らないことを知らしめる、未知の扉を開いて見せることという意味です。

ヨーロッパの歴史に民衆啓蒙というのがあります。民衆を啓蒙するということは、今見た意味からして社会に対して無知文盲に置かれていた民衆に本当の社会の在り方を知らしめることということです。

これを延長してみると、啓蒙すれば人間は何でも知ることができるという風になって、理性的に頭で考えれば何でも解るという主知主義ともなります。人間は知る権利はあります。しかし知性と理性で何でもかんでも知ることができる、何でも解るのだというのはどうでしょう。驕りに過ぎないのではないか、そんな気がします。

 

この驕った姿が露骨なものに見えるのです。アメリカに旅行して来てた人が、アメリカについて知ったかぶりで得意げに話すのを聞いても楽しく聞けるものではありません。聞くに堪えないだけでなく、こちらが恥ずかしくなる様な場面だってあります。

ここでいう驕りは克服されなければならないものです。本当に知ることができるのたろうか、本当に解ったのだろうかという内的な声によるバランスが取れない限りとても醜くくグロテスクです。知る権利はどんどん開かれていくべきだと思いますが、啓蒙されたからといって何でも解るのだというところには、行きつかないものです。哲学の開祖ソクラテスのいう様に「解らないことが解った」という姿勢が本来の思考力を強め、それによって自らの力で自らを啓蒙します。

 

芸術は見えないものを見える様にすると考えているパウル・クレーの様な人もいます。一方で、今、見えていることが一等不思議だと言ったオスカー・ワイルドの様な人もいます。画家と文筆家の違いで表現の仕方が違っているだけで、ワイルドは言葉で今、見えていることを手掛かりにその奥にある見えない世界を描くのですが、クレーは見えない世界を絵という方法で見える様にしようとしているのです。

芸術は啓蒙と見ていいと思います。美という感性の働き場が芸術ですが、それで私たちが生きている世界、私たちを取り巻いている世界を見たいと願っているのです。美は直観と感動が純粋に混ざったものです。直観の無い所に美はないですし、感動を呼び起こさない美も考えられません。しかも純粋な心のないところにも美は存在しないものです。

芸術の中に生きている「美」は人間の中に潜んでいる「自由」への憧れと共に私たちに生きる勇気を与えてくれるのです。啓蒙というのは啓(ひら)かれることで生きる力につながるものでないと、ありふれた知識、情報としてしばらくするとゴミ箱に放り捨てられてしまうものにすぎないのです。

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