水曜版 7 見方を変えれば薬は毒、毒は薬   

2014年5月15日

健康、健康と言い過ぎて健康に良いといわれているものに振り回されると、健康に良いはずのものが逆転してしまうことがあります。この原理は善悪についても言えて、善にこだわることで善から逸脱してしまうこともありうるということです。悪が純粋に悪だというのはよっぽどの状況です。たいていの、というか、ほどほどの悪には善を強める働きがあるものです。

善と悪のバランスという言い方もできると思いますが、私はそれ以上に善と悪とはお互いに影響し合っていると見ています。善人ぶるなんてもう悪の世界に染まっています。意固地、思い込みも悪の始まりです。悪は凝り固まりやすく、悪の味を覚えるとそこが居心地が良くなって抜け出せなくなってしまいます。依存症も悪の道です。悪ぶるのも悪の道です。

悪から抜け出した善は全く反対で、さりげないものです。極めて当たり前のものですから人目には付かないものです。ところが使命を持った善と言いたくなるようなものがあって、その全ったき善を天命と感じている人たちはとてつもない力を持っているものです。偉大な宗教家といわれた人たちはこの筋金入りの善の感覚を持っていてそれで彼らの人生を貫きます。その人たちに会ってみたかったとよく思います。でも、結構毒気の強い人もいたと思いますから、その毒にあたらないような力ができたらということにします。

善の初心者が一番善らしいことにこだわります。こだわっている間、悪から抜け出していないということです。地震、津波、台風、竜巻などで被害のあったところに援助隊が出かけて行きます。さりげなくやっている人たちの働いている姿は気持ちがいいですが、さも救助に来ましたと言わんばかりの人たちの行動は鼻につきます。救助、支援という言葉にはいつも背後に後味の悪いものが付いて回るようです。かといって何もしないのも悪ですから、ころ合い、いい加減は難しいものです。

 

私が施設で働いていたときに若い実習生が来てお手伝いをしてくれました。よく見ていると彼らが一番いわゆる教育的なことをやるのです。子ども良くないことをしたとき、すぐに叱るのです。子どもを叱らなければならないときもありますから、その時には思いっきり叱るべきですが、のべつ幕なしに叱っていても子どもは良くならないもので、経験を積んでくるとその辺のコツがつかめて来て、怒らないでいいところは怒らないで放っておけるようになるのです。それは実習生には合点がいかないようで、実習生はいつも教育者らしくふるまっていました。

 

善の初心者は善っぽいものに憧れ、善っぽいことをやりたがります。まるで自分に言い聞かせるように善行に励みます。そんな人を見ていると心の奥に何か後ろめたいことでもあるのではないかと疑ってしまいます。善い事をして何が悪いのですか、と食いつかれそうですが、悪の裏返しの善は脆弱です。栄養が足りないのです。筋金入りの善いことは栄養が行き渡っています。善のためにしっかり栄養を取らないといけないということです。

何が栄養かということですが、これは相当深い話になりますから、後日ゆっくりお話したいと思います。

 

現代の自然科学から生まれた医療の薬は、薬らしい薬です。すぐに治るという宣伝文句で使われます。もしかすると副作用があるかもしれませんという薬もありますが、これは愚かな勇み足です。そもそも毒ですと堂々と胸を張って薬を売る人はそこにはいません。ですからそんな薬、本当は何も治していないのかもしれないのです。

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