心のこと  その七  他人の様な自分と結婚

2014年9月11日

「自分からの旅立ち」。若い時に駅のポスターでふと目にした言葉です。コピーライターの何気ない思いつきだったのでしょうが、それにしても当時の私にはとても深いところまで入って来たものです。丁度思春期からなんとか抜け出せそうなところでもがいていたからなのでしょう。

むしゃくしゃした重っ苦しい自分から抜け出したいと旅に出ても、自分は何処までもしつこく付いて来ていましたから、その言葉を目にした時は「自分から離れるにはどうしたらいいのだろう」と瞬時立ち止まって心の中で何度も繰り返したものです。

     今はどうかと言うと、自分という妄想に閉じ込められてしまっていると言っておきます。まるで蜘蛛の巣に閉じ込められた様な感じです。

 

眠れる森の美女というお話しがありますが、王子さまにキスをされて目覚めたお姫様は王子様と結婚します。子どものころに読んだ時、深い眠りから目覚めるって想像を絶するものでした。でも、そんなことが起こるんだと信じていました。自分にもそんなことが起こってほしいと思っていたのです。

     今はどうかと言うと、誰かに目覚めさせてほしいものだと願うところです。ところが「自分物語」、人生のことです、からすればその誰かは自分なのです。自分以外の誰も自 分を目覚めされることが出来ないのですから・・・。自分から上手く抜け出せないでいると、デンマークの哲学者、キルケゴール(実存主義者なんていわれてい ます)の様に「死に至る病」の様なものを書いて「あれかこれか」と悩みながら自殺に追い込まれてしまうかもしれません。でも自殺する初老は醜いです。

何故グリム童話には結婚の話しが多いのかと随分気にしたことがあります。結婚とはただ好きな人と結ばれるだけでなく、結婚を期に子どもができると人生が変わってしまいます。実存主義どころでなくなり、一生懸命に子育てをしなければならない時期が過ぎた後はもっぱら子どもに教えられています。二人のうち一人の息子は実存主義者の様でもあります。

これからは言葉で自分の子どもを作らないと、そんなことを考え始めました。

 

 ランボーの「地獄の季節」、「二十歳のエチュード」を書いた原口統三の言葉を十代の終わりから二十代の初めはまるで自分の言葉の様に生々しく読んだものです。

     今はどうかと言うと、いい加減な自分にいい加減に付き合いながらのんびりやっています。しかしそれでも自分からは抜け出せていない様で、私という癖丸出しの人生の中にどっぷりいます。勿論心の隅に、これでいいのかと思うこともありますが・・。

シュタイナーが、自分と出会う時のことを述べていて、自分というのはその時まるで他人の様だと言います。そしてその出会いのことを結婚と呼んでいるのです。霊的な世界では自分と結婚するんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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