ミヒャエル・エンデと歴史小説?

2015年4月18日

ミヒャエル・エンデが「わたしはシェークスピアの様に歴史ものが書けない」と言っていたのを思いだします。

(この先はエンデさんと言う言い方をさせていただきます。)

歴史ものが不向きといっているわけです。確かにエンデさんの作品群の中に歴史小説を見つけることはありません。

 

大体歴史認識と言われるものほど曖昧で、いい加減なものは無いわけです。世界の歴史と言われる物を見渡せば一目瞭然です。英語で言うhistoryはhis-storyのつまったもだそうですから、客観的な歴史と言うものは存在しないと言うべきなのかもしれません。ましてや歴史認識なるものは一人一人が勝手に作って持っている主観的な物とも言えるのです。

権力者は必ず前の権力者の存在を取り消す作業をします。エジプトの時代にアレキサンドリアに生まれた世界初の図書館は次の支配者によってことごとく、跡形もなく壊されます。焚書もいつの時代にも、どの権力交代の中にも存在する戦法です。現代にいたるまでまったくかわってはいません。

 

エンデさんは、歴史は解釈だと言いたかった様な気がします。ここは大事なところだと思います。

実際彼の書いたものはほとんど、一般にはファンタジーと呼ばれているもので、誤解しないでほしいのですが、直観に裏打ちされた思いつきの連続です。即興の味が必ずあります。書いている本人すら何処に話しが向かっているのか分かっていないのではないかと思いたくなるほどです。

始めて書いた「ジム・ボタン」に至ってはヒヤヒヤの連続です。言葉づかいもわざと不器用を装っていて、それが即興性を生みだしている様なところがあります。

しかし、多くの方が見抜かれていらっしゃるように、エンデさんは、言葉の達人です。子どもの時に、お父さんのアトリエをお母さんと一緒に掃除した時にゲーテやシラーの長い詩を暗唱していたお母さんが口ずさむ後を一緒に口ずさんでいたといっていましたから、ドイツ語のみずみずしい響きに子どもの時から浸っていたわけです。そこでドイツ語のセンスは十分といっていいほどに磨かれていたに違いありません。生きた言葉を自由に操る術を会得していたのでしょう。

 上手を装わない、いま生まれたばかりの様な言葉で語れるなんて、全くうらやましい限りです。

 

エンデさんが歴史を解釈することに興味を持たなっかった理由がわかります。

歴史認識にはどこかに本当の様な嘘があります。それはとても巧みな嘘です。

エンデさんは嘘八百の様なことを書きながら人間の普遍に一番近くにいた人だったんでしょう。

エンデさんには歴史の考証よりも、生まれ来るファンタジーに相応しい言葉の吟味の方がよっぽど似合っています。

 

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