文章の力、文体はユーモアなり

2015年9月29日

若い頃に文章論という類の本を幾つか読んだ覚えがあります。文章について通じるようになりたかったのです。学校の現代国語の時間はなんとも苦痛な時間で、川端康成、三島由紀夫、谷崎潤一郎、丸谷才一といった人たちの文章についての考え方から文章の醍醐味を学んだ記憶があります。

ところが、文章が上手になるなんてことはありませんでした。では全くの徒労で、無意味なものだったのかというとそんなことはなく、世の中にはたくさんのことなった種類の文章があることを知りました。それがまず第一の収穫で、それ以降、本を読むときに文章を読むという習慣がついたことが第二の収穫だったと思っています。

文章というのは実は文体のことのようです。

文章にするのに単語が並べられるわけですが、その単語というのは、もっと正確に言えば単語の意味や使い方はその人の努力次第で他の人の文章を真似したりしながら学ぶことができるのですが、文体は違います。決して真似ができないもので、学校の宿題で読後感想文を書かされたときなど、本の後ろの解説者の言葉を自分の文章の中に引用して出したところ、私の文体とその解説者の文体の間の違いがあまりに大きくてすぐにばれてしまい怒られたことがありました。二つのことなった文体が水と油のような感じだったのでしよう。

 

ある言葉の意味を生半可の理解で使っているような文章を読んでいると、砂利道や泥んこ道を歩いているような感じで歩きづらくすぐに疲れてしまいます。しっかり理解して使われた言葉は熟練した職人が自分の道具を使いこなしているようで読んでいて気持ち良く、しかも説得力がありますからスラスラ先に進みます。言葉の意味を理解すること、それを正しく使うことは文章を書く上でとても大事です。

では文体はということになりますが、文体はそれ以上に大きな力を文章の中で発揮しているのです。

使われている言葉、単語は理解が深まれば誰が使ってもだいたい同じところにたどり着きますが、文体は別物です。個人差がはっきりしていますから絶対に真似ができないものです。ある作家の文体を真似しようと努力したものですが、文体は言葉、単語の意味と違って、どこを、どのように真似をしたらいいのかすらわからないまま終わってしまいました。好きな作家の文書を写すというのはいろいろな人が薦めていましたが、実際にはそれで文体の訓練になったかというと、そうでもなかったようです。

 

自分の文体を作るためにどんなことをしたらいいのか随分考えたものです。私のわずかな経験から言えることは、文章を暗記することが力になるようです。暗記するというのは時間のかかるものです。一つの文章を何度も何度も繰り返すのですから、現代風に解釈すると、そんな風に一つのものにこだわっていないで、「情報は力なり」なのだからその時間をもっとたくさんの文章に接するために使うべきではないのかということになりそうな気がします。そう言われると確かにもっともなような気がしてきますが、一つのものに長い時間をかけ、それを暗記するというのは、無駄なように見えて実は一番効率良い勉強の仕方ではないのでしょうか。よく言われることに外国語の勉強のときに参考書を数でこなすよりも同じ参考書を何回も繰り返し勉強したほうが効率がいいということに共通しているようです。文体も同じようなものです。いろいろな人の文体に接するだけではなく、ある優れた文章を暗記するほどに身につけることで文体を磨くことにつながるような気がするのです。

 

文体とは行間のようなもので、具体的な手応えなどはなく見えないものと言っていいと思います。この見えないものを理解するというのは、知的理解ということとは違う方法が必要なのです。見えないものを理解するためには繰り返しが一番です。声に出して暗記するのです。繰り返す中からぼんやりとしていたものが、だんだん感じられるようになるのです。

同じことを何度も何度も繰り返すことで何が鍛えられるのかというと「意志」です。意思ではなく意志です。文体の中には意志が生きています。文体は意志で理解するものだと思います。意志で理解するとは普段使わないですが、物事には意志でしか理解できないものがあるのです。文体はその一つです。単語や言葉の意味は知的に解釈されたもので、それは知的に理解すればいいのですが、文体は違います。単なる理解では済まないものなのです。繰り返し繰り返しそに接して初めて見えてくるるもの、それが文体だと思います。

昔と今を区別するものがあるとすれば、昔のほうが同じものを繰り返すことに多くの時間を費やしたことでしょう。今は情報の時代で、短い間にたくさんのことに手をつける時代と言っていいかもしれません。広く浅くということではないかと懸念します。

楽器の習得も繰り返しということでは同じです。同じこと繰り返しながら学んでゆく中で音楽が聞こえてくるのです。音楽は頭で理解するのではなく、意志で理解するものだと思っています。意志の働きと音楽は深い繋がりを持っているのでしよう。音楽に解釈を持ち込みすぎると知的解釈に振り回されることになってしまい、音楽にとっての基本である意志による理解が置き去りにされてしまいます。

知的理解を尊重する風潮が現代にはあります。単語の意味のように見えるところにこだわっている気がします。見えないものが文章の中にはあり、それが文章を生きたものにしているということを知れば、言葉ですごいことを言おうとする傾向が安易なものに見えてくるのではないかという気がするのです。意味で脅かすような文章が結構はびこっているような気がします。

プロパガンダには要注意です。政治的扇動のための道具にしか過ぎないもので、表情的に引きつっていて、息苦しくなるものですが、もしかするとそれだからこそ扇動にはもってこいなのかもしれません。それに振り回されているのが現代のような気がします。

文体のことを話してきましたが、文体はユーモアに通ずるものだと最近確信しました。ユーモアは余裕と言っていいと思います。先ほどのプロパガンダの正反対のものです。面白おかしいことは、広い意味ではユーモアから出てきていることなのでしょうが、ユーモアそのものではありません。ユーモア自体は絶対に自分の姿を現しませんから、見えない世界のもので、どうやら私がいう文体に瓜二つです。

現代社会に必要なものは文章読本ではなく、ユーモア読本のようなものがあったら心に余裕ができていいと思います。

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