折り紙の中の幾何学的数学

2016年4月13日

最近建築関係の人たちと同席することが何度かありました。みんな日本の建築に興味があるようで、日本の現代建築、宮大工さんたちの驚くべき技術に関しては、相当深く研究されていて、何時間も話をしていられるほどでした。

建築技術のみならず、建築を支えている文化のことにも興味があるようで、話を聞きながら逆に学ばせてもらいました。

そんな中でふと折り紙のことが頭をよぎりました。

昔、施設で働いていた時に、そこの子どもたちと(12才から15才まで)折り紙をしたことがあって、その時のことが皆さんの話にオーバーラップされたのです。

ことの始まりは、鳥を紙で作ることでした。

私の担当していた子どもは知能的には問題がなく(問題がないどころか情緒の面で問題があるだけで知能指数は普通の子どもよりはるかに高い子どもたちでした)、コピー用紙を配るとすぐに鳥の絵を描き始めました。なんの鳥がいいかと話し合いながら鉛筆で輪郭を描き、その後で色を塗り、描き上がった鳥をハサミで正確に切り抜いたのです。出来上がったのは平面的な鳥でした。

私はその様子を横目で見ながら、彼らが思うように鳥がかけないと手を貸してあげながら、コピー用紙を正方形に切り取り折り鶴を折ったのです。

鳥らしいものは何も見えてこないで、折り目をひっくり返しては何度も何度も同じように折り込んでいるだけでしたので、子どもたちは私がまさか鳥をつくつているとは想像していませんでした。もちろん「鳥を作ろう」とは私が言出屁ですから、鳥を作っているのだろうとは感じていたと思います。しかし実際には何かをやっているので気になって仕方なく「何をやつているのか」と何度も聞いてきました。「鳥を作っているんだよ」と答えるのですが、子どもたちが目にするものは鳥とは全く違ったものでしたから「うそー」というだけで信じてはもらえませんでした。

折り紙は紙を折っているだけで、やったことのない人にしてみれば折あがって最後に左右に開くまではそれが鳥の形になるとは想像できません。しかも正方形にしたり三角にしたりと生き物とは全くかけ離れた、抽象的な行程です。

子どもたちが出来上がったものを私のところに持ってきた時、私のほうも鶴を折りあがっていましたから「鳥ができたよ」と言って、ひし形のものを差し出してもまだ信じてはもらえませんでした。最後に翼になるところを折り上げで子どもたちの目の前で左右に開いた時は拍手喝采でした。折り鶴を見て目を白黒させていました。「本当の鳥みたいだ」と子供たちは大はしゃぎでした。

 

折り紙には数学的な要素が生きています。数学そのものでしょう。折り紙を折る人にしてみれば決められた通りに三角にしたり四角に折ったりと当たり前のことですが、改めて考えてみるととても数学的要素の深く入り込んでいるなぞめいたもので、ここに日本的な思考の本質があるようにさえ思うのです。

例えば正方形の紙を対角線で折ると三角になります。その三角の端と端を重ねてもう一度折ると大きさが四分の一の三角になります。

正方形を半折りにすると長四角になり、それを半分に折ると、これもまた元の大きさの四分の一の正方形ができます。

ここからが不思議です。

各々の中には袋と呼ばれるものができています。その袋の部分を開くと摩訶不思議なことが起こります。

三角の袋を開くと四角になり、四角の袋を開くと三角になるのです。

これはまるで幾何学の法則に迫るほどのもので、三角と四角の内的な関係性についての問題を解いているようなものです。ギリシャ時代のプラトン幾何学の法則を思い出す人もいるかもしれません。

 

私が知り合った建築家の人たちは異口同音に、日本人のもつ独特な建築的な美的な能力という観点を強調していました。世界で一番とかいう言い方で順位をつけるのは憚って、特別で、独特なものと感じているようでした。話を聞きなが、それが日常生活の中にもいきてい、すでに子どもが楽しんでする折り紙の中にすら生きている抽象化する能力が大きな働きをしているように思えたのです。

日本庭園にしても、自然を抽象化することから生まれる美です。

折り紙を通してみる日本には抽象化する力が生きています。しかし折り紙だけでなくいたるところに見られるのです。禅とか弓道などもその一つだと私は考えています。とにかく抽象化する思考能力が旺盛なのかもしれません。

抽象化することはシンプル化することににも通じるものがあるように思います。

 

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