外国の中の日本、視覚言語を操る日本人、マンガ・アニメ論

2019年1月9日

マンガ、アニメ、そしてスシ、ラーメン。これが外国人の中では今の日本なのかもしれません。

今日は、しかしながら食文化には遠慮していただきます。

 

マンガは単にブームという枠を超えて、世界で受け入れられている現代日本を代表する文化といえます。ヨーロッパでは大手の本屋さんのコーナーをびつしりと埋め尽くしていますから相当の読者がいることを物語っています。日本語をマンガで勉強したという人にもすでに何人も会いましたし、それ以上に日本の心をマンガから感じ取って日本を研究している人たちもいて、彼らと話すと、マンガが本当に好きなのに驚かされます。もちろん誇張した、歌舞伎の「見栄」のような誇張した表現が不自然だと嫌いな人もいますが、新しい世代は別の見方でマンガに接しているようです。同様のことはアニメにも言えて、日本のアニメ文化に惹かれ、その勉強に日本にゆく人もいて、漫画フィーバー、アニメフィーバーは私たち日本人が考えている以上に外国人の心の中に忍び込んでいるのです。

 

マンガの主役は絵です。ですから読者の視覚に飛び込んできます。読者は視覚的に印象を受け取り、目で見て、感じ、視覚的緊張を楽しみます。ストーリーがあるので言葉を使いますが、マンガの中の言葉は言語的というより絵の邪魔をしない伴奏音楽のようなものだ思って読んでいます。状況の説明の段になっても、大抵の場合絵が重要で、言葉は絵を捕捉しています。

 

普通の言葉を「言葉言語(ことばげんご)」というならば、絵によるものは絵言語、絵画言語、視覚言語です。この視覚言語は日本文化の中で、歴史的にも古くから日本人が心を表現するのに用いたもので、日本人の感性に合った、日本人が得意な表現分野です。世界が注目する源氏物語絵巻、版画もそこにルーツがあると言えます。

 

日本人がどのように言葉を受け取っているのかは研究によって明らかにされています。難しくいうと言語体験ですが、どうも欧米諸国の人たちとは違うようなのです。日本人だけが虫の声を雑音としては聞いていないという報告は非常に興味をそそります。私はそのことと私が考えている「日本人は言葉を視覚的に捉えている」こととは関係があると思っています。

また文字化された言葉、文章を理解する能力は十分あるのに、聴覚的に受け取るのは苦手で、聞き取り、読解、作文、文法のバランスを見ると聞き取りが著しく劣っているのも、視覚的に言葉を捉えているからなのです。

日本の漢字の読み方の複雑さも挙げておきたいと思います。

一つの漢字を幾く通りにも読ませます。「るび」は発音記号の時もあれば、使い手の創作した読み方の示唆として使われることもあります。こうした文字文化は他になく、日本語の特徴で、同じように漢字を使う中国系の人たちですら首をかしげるところです。これは今日のアルファーベート(アラビア文字、ヘブライ文字、サンスクリット文字などを含みます)を使う言語では見られないもので、あえて比較できるとしたら古代エジプトの絵文字ヒエログラフぐらいかもしれません。

つまり言葉というのは日本人の頭の中では常に文字化されているということです。音声で聞いている言葉も実は文字になり、絵として、視覚的に捉えられるているのです。アルファーベートを用いる言葉にしても文字はひとまず視覚で捉えられるのですが、すぐに聴覚に変換されますから聴覚的言語ということになります。一つの漢字が多い時には10種類を超える読み方を持っているなど信じ難いことで、日本語を勉強する人たちの中には、この珍現象を最悪と嘆く人たちがいるのは当然ですが、そこに混じってこれこそ日本語の醍醐味と楽しんでいる人もいます。

 

漫画、アニメの底辺にはこの視覚的言語人が流れていると私は考えています。日本人の伝達、理解は視覚を基礎としているのに対しヨーロッパでは聴覚からです。聖書の中で「はじめに言葉ありき」、という時の言葉は聴覚的な言葉のはずです。それはヨーロッパで音楽が発達した要因の一つとしてあげることができるように思うのです。ヨーロッパの音楽がヨーロッパと言うローカルなものから世界音楽へと移行するのは15世紀、つまりルネッサンスの以降のことです。中世まではヨーロッパの音楽はヨーロッパのものでした。音楽は今日のように独立したものではなく、踊りの伴奏だったり、軍隊の行進のためのものでした。

ルネッサンス以降、独り立ちした音楽の台頭はヨーロッパの表現世界を変えてしまいました。人間の感受性を知的なものにまとめあげてしまいます。聴覚人間の誕生と知的人間の誕生は平行して発達したと私は考えています。

ヨーロッパの中世の絵画には特別なものを感じています。そうした絵画にはおおらかさの中に深さを感じるのです。今日では深刻な表現が好まれる宗教画ですら、当時の絵にはユーモアのある明るさで表現されていま。そこには聴覚人間誕生以前のヨーロッパが垣間見られているはずです。知的でないヨーロッパもあったのです。

 

日本は、実を言うと、ほとんど例外的に、今でも絵画言語を保ち続けている民族なのです。漫画は日本というローカルな土壌の中で生まれ育ちましたが、今やローカル色をぬぐい世界のマンガになりました。世界中に日本のマンガの愛読者がいるのです。日本人のように彼らも絵画言語の理解者たちなのでしょうか。

明治になって西洋音楽が本格的に日本に入って来ます。日本人はその音楽を崇拝し、富国強兵ではないですが西洋音楽に追いつけ追い越せをやっていました。とはいえ日本人は西洋音楽が好きです。好きで好きでたまらないのですが、本当に西洋音楽に向いているかどうか、私は時々疑問に思うことがあります。というか、絵画的言語の持ち主にとって、西洋音楽は西洋人が聞くのとは違うものとして存在していると感じるのです。

西洋音楽に夢中になっている中で絵巻、版画、浮世絵といった日本の絵画芸術は低い評価しか与えられず、悲しいかな二束三文で欧米に叩き売りされていたのです。それは文化的自殺行為ではなかったのかと私はよく考えるのです。

 

最後に簡単にまとめてみたいと思います。

今日本人独特の言葉、絵画言語がマンガとして生まれ変わって世界に羽ばたこうとしているのかもしれません。

知的感性を育成した聴覚芸術に代って、視覚芸術が新しい文化を用意しているのかもしれません。

もしかすると 左脳文化から右脳文化への移行を意味しているのかもしれません。

聴覚文化、知性偏重を支えた左脳文化から、視覚文化、おおらかさを支える右脳文化へと。

 

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