善悪の判断に見せかけの知性は無力

2019年9月23日

優秀な人というのはいまだに知的な知性派と相場が決まっているようです。

しかし知性というのは思いの外実生活には役に立たないものだということはぜひ知っておいてもらいたいことです。特に善悪の判断に関してはほとんど無力なものなのです。

今年死刑が執行されたオーム真理教のサリン事件の実行犯のほとんどが世間的には優秀な学歴の持ち主だったことは当時も注目を集めました。「あんな優秀な人がどうしてあんなことになってしまったのか」と巷で口々に言い合ったものです。当時からああした行動に走ることと知性とは無関係だとは予感していましたが、学歴に弱い日本社会全体は「信じがたい」の一辺倒でした。

知性は善をパフォーマンスするのが上手です。もしかすると政治というものはここに話が落ちるのかもしれません。しかし知らないうちに忍び寄ってくる悪に対しは無力なものなのです。そこを考えてみたいと思います。

 

悪というのは実に巧妙な形で人間に忍び寄ってきます。悪ズラをしてやってくることはありません。絶対にないのです。ここが落とし穴です。むしろ善ズラを仮装しています。知性派は見栄っ張りなので善ズラに弱く、この善ズラをしたものの正体を見抜けないのです。ですからすぐに飛びついて善のパフォーマンスに取り掛かります。

知性派というものの中身に目を向けると、その実態は危なっかしいもので、知性的とみられようとすることがそもそも弱さを裏返した見栄だったり、パフォーマンスであったりするのですから、知性派の善行というのは二重の意味で「パフォーマンス人生」をやっていることになるわけです。彼らの行動は危険に満ちたものなのです。

知性には二た種類あると指摘したいと思います。本物の知性とパフォーマンスの知性があるという風に言えるのです。本物の知性は魂、心に根っこを張っていて、意外と思われるかもしれませんが感情的な一面を持っています。知性と感情が同居しているなんて純粋知性派(パフォーマンス型)には受け入れがたいものなのでしょうが、知性も魂、心の表れの一つの姿だとすれば、知性と感情が深いところで分かちがたいものだということは当然のこととなります。却って知性を心から切り離し上っ面な、無感情なものとする方が不自然なものです。それでは血の通っていない冷たい知性です。

猛勉強をしてテストで良い点を取りその延長でいい大学まで行くことだけで知性は本物にはならないのです。そうではなく、魂、心を育てることの延長に本物の知性が作られてゆくという風に考えて欲しいのです。勉強ができる、成績優秀というのは多くの場合、仮装をした知性で、本当は自分に自信のない知性で、その裏返しとして自己中心というエゴイストへと導かれます。ひいては自分は優秀という錯覚に惑わされ結局は自分音痴という悲しい結果になるのです。自分音痴は他人音痴でもあり、社会音痴でもあるのです。

 

さて本物の知性です。どのように育てるのかということですが、魂、心を育てることに尽きると思います。自分音痴、他人音痴、社会音痴の反対を考えれば、そのための道が見えてくるかもしれません。つまり自分に対し、他人に対し、社会に対して関心を持つことから始まるのです。

俳人松尾芭蕉が「松のことは松にならえ」といっていますが、見せかけの知性は松をコメントするところで終わってしまいますが、本物の知性は松と永遠に対話し続けているかもしれません。そうして初めて俳句に心が宿り、ひいては人生そのものを豊かにする知性が目覚めるのです。

物事を見たり、聞いたり、味わったりするときには感覚という通り道を通って入ってきます。それは例えて言えば心の窓で、その窓を先入観で曇らせないことで心は常に新しく生まれ変わって、心に安定をもたらし、それが知性の成長につながると私は考えています。

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