脱皮する自分

2021年2月15日

「自分」は私たちにとって一生のテーマですが、同時に二千五百年以上前の古代ギリシャに始まる人類の長きに渡るテーマでもあります。長きに渡る中でいつも同じであったのではなく、当然変化は見られます。

「汝自身を知れ」ということが発端でした。現在どの様なところにあるのかというと、私の個人的な感想ですが、自分に疲れてしまっている様なので、「自分」はこの先どの様に変化しながら私たちのテーマであり続けるのでしょうか。

科学技術などでは単なる変化ではなく、発展とか進化としてみられるところですが精神的な分野となると必ずしもそうではない様です。二千五百年をかいつまんで振り返ると、デカルト(1596-1650)の「我思うゆえに我あり」は自分探しの最後の足掻きの様に見えます。神という支えが薄れてゆく中、どこかで「それでも自分がある」と言わなければならないところまで追い込まれて、思考する自分の姿を自分と決めたのは、思考している時の自分が一番手応えがあったのかもしれません。しかしその後自分は手応えが薄くなってしまいます。ニーチェの「神は死んだ」で神の庇護のない時代が始まります。そこで自分をストーリ化する道が生まれます。とは言ってもストーリーですから結局は虚構で、そこで「自分」はどんなに探しても見つからないだけでなく、二十世紀になると無意識という、考えている自分の奥に謎めいた何かが登場してきます。この頃から自分というよりも意識という言い方の方が主流になり、意識できる奥を無意識と名付けることに成功しますが、無意識は真っ暗闇の中の自分ですから当然そこに光を当てるのは容易ではありません。今では意識の90%以上が無意識だとして、自分探しはひとまず終止符が打たれた感があります。だからと言って自分がなくなったわけではないのですから「自分」というテーマは引き続き未来に持ち越されています。

自分探しは今日「私という枠」を壊すことと見られることもあります。私たちが気づいたのは「自分」というのは私たちを規定しているということです。私たちは私たち自身で「私という枠」を設けてその中に安住したがるものなのですが、その中に居座っていられなくなる時もあります。外から自分を変革せざるを得なくなることも、自分の中から半ば衝動的に沸き起こることもあります。その時は、乱暴な言い方かもしれませんが、勇気を以ってその枠を壊すしかないのです。壊すことができず、「私という枠」の中に閉じ込められ身動きが取れなくなってしまうこともあります。その一つの現象が、今日蔓延している「うつ病」かもしれません。

 

私たちも脱皮していたのです。これが「自分」というものの一つの真実です。自分が規定されていると感じた時、そこで規定しているものを脱ぎ捨てることで、解放された無限の自分を感じ生きるのです。未来の自分は枠を作らない自分探しと言えるかもしれません。

とはいえ私たちは未だ西洋二千五百年の余韻の中にいるので、癖が抜けないので移行が苦しいですが、世代が変わるたびにだんだん移行してゆく様です。それは進化、発展という物質的な見方からは見えない変化です。ゆっくりとスパイラルな道を登ったり降りたりするのでしょう。時々立ち止まって周囲を見ると、今までの景色に似ているのに違う景色が目の前に広がっているかもしれません。

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