シューベルトは転機を司るようです

2021年3月10日

音楽の中で今一番衰退しているのは歌です。これについては私のブログでも触れたことがあります。

声を出して歌うだけでなく、楽器も歌うように弾けというのですから、歌が衰退している、歌がないというのは音楽的には致命的と言えるのです。

 

さて、ここからが私の言いたいことです。これは音楽として語られるだけではなく、人生に歌がないという言い方ができます。これではピンとこないので、人生に味かないと言い換えてみます。私たちは実は味気のない人生をやっているのだと言えるのかもしれません。

今、社会はセミナー漬けになっています。コロナ騒ぎ以前からの現象です。日本だけではないのですが、特に日本はどこをみてもセミナーで賑わっています。勉強好きな日本人ということなのですが、私にはそれだけではない、もっと別な要素を感じるのです。

 

歌のことに戻りますと、今も歌い手の登竜門として歌い手のコンテストがあり、私の知る限りでもずいぶんたくさんの若い人たちが挑戦しています。私の住んでいる町でも結構大きなコンテストがあり機会があれば若い歌い手たちの歌を聞きにゆきます。特に昨今は歌のコンサートというのはめっきり減ってしまい、ほとんど歌曲をライブで聴く機会がなくなっていますから、コンテストは私にとっては歌曲のゆうべの代わりになっているのです。

そこで一番残念だと思っているのは、歌い過ぎです。なんのことだかわからないと思うので補います。

基本的には過ぎたるは及ばざるが如しという諺で知られていることです。食べ過ぎはダメで、腹八分目が一番です。人間関係でも深入りし過ぎるとダメになります。友達、親友といえども深入りは禁物です。人付き合いは六分目と言った人がいます。

という具合に歌も歌いすぎると力みが表に出てきて聴いていて疲れます。セゴビアという前世紀を代表するクラシックギターの巨匠が、コンテストで優勝したテクニシャンでばりばり弾く若いギターリストに『弾き過ぎないように注意しなさい」と釘を刺すように忠告したと言います。芸術はここが命です。過ぎないことです。

私がセラピーの仕事をしているときにも、もう少しというところでやめるように先輩から口を酸っぱく言われました。やりすぎると患者さんは次から来なくなってしまいます。

 

歌のコンテストではよくシューベルトが歌われます。私はシューベルトの曲と他の作曲家の歌とをはっきり区別しています。シューベルトは唯一詩が音楽になって歌います。他の人は詩に曲をつけて歌います。詩が音楽の中から飛び出してくるような錯覚を受けることがあります。歌い手ではなく、詩が歌っているという感じです。このシューベルトを朗々と歌ってしまっては、シューベルトではなくなってしまいます。確かにシューベルトの歌にはハッタリが全くないので、歌い手がハッタリを付け足そうとするのでしょうが、それではシューベルトが死んでしまいます。コンテストでは死んだシューベルトがいかに多いことか。

シューベルトの歌は歌詞を歌い過ぎないのです。どうしてこれができたのか謎です。でもそれが経験がない歌い手には物足りないので、歌い過ぎてしまうのです。ところが経験のある歌い手でもシューベルトを控えめに歌うのは相当勇気のいることのようで、たいては歌い過ぎているのが現状です。

 

日本的性格のいいところは、もっと勉強してという向上心です。しかし足るを知るというのも大切なことです。これで十分なんて言うと怠け者のように捉えられてしまうのかもしれません。しかし精神性の基本とは、足るを知ることであり、過ぎたるは及ばざるが如しなのです。

今の世の中のセミナー流行(はやり)はどこかで精神性に反しているように思うのです。知識欲に突き動かされているのかもしれません。知識欲も欲です。このことはしっかり知っておくべきです。知識に振り回されて、知識が教えるところに従って生きるということなのです。確かにそうすることしか私たちは日本の教育の中で教わってこなかったので仕方がないのかもしれませんが、他にも生きる道はあるのだと言うことを考える時期に来ているように思うのです。

歌い過ぎは歌を壊してしまうと言うことです。セミナー漬けも人生を壊してしまうのではないかと懸念しています。

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