考えると瞑想と、そして笑いと。

2021年3月18日

思考、つまり考えるのも瞑想するのも元は同じものでした。

私たちが物質的な世界と結びつきを深めると物質に拘束されるのは否めないことです。そこが瞑想との分岐点で、二つの異なった道を歩むことになります。

考えるのは「何かについて」「何かをめぐって」考えるということで、手で触ったり、見えたり、聞こえたり、臭ったり、味がするものを通して感じられるものの周囲をぐるぐると巡っているので、物そのものを直接考えているわけでは無いのです。考えるというのはうろちょろしている頼りないところがあるものなのです。そのために数字のようなものを道具として活用します。あるいは他の人の発言を引用することで後ろ盾にします。

瞑想は違います。しっかりと物事を直視しています。

瞑想的が昨今はスピリチュアルな流行で大いに取り入れられているようですが、案外思考の延長そのままのことが多いようです。スピリチュアルなことに思いを巡らせるのが流行っているので、基本は物質的な思考方法で、本来の瞑想を活用しているのでは無いようです。

ある物事に向かうとき、精神的に向かうと具体的です。直視します。瞑想的です。ところが物質的に向かうと説明できることが重要になりますから、もののの本質ではなく、実験結果とか統計的なデーターで物事を判断するようになりますから、具体的ではなくなり、ましてや直感的でもなく、説明的なのです。それでは物事の周りをぐるぐる回っているだけで、核心に迫ることはないのです。まさに虎穴に入らずんば虎子を得ずということになってしまいます。

瞑想は囚われから解放されています。前提がないので思考と比べると地に足がついていない不安定なものに見られがちですが、これが本当は逆で、思考は前提がある分いつも我田引水的なものだと言えるのです。ところが、表面的に実験とか統計から割り出される数字を武器にあたかも客観的であるかのような顔をしているので、現代人はこの数字にいいように振り回されています。

数字は客観的なものではなく、プロパガンダの道具だと知っておいて間違い無いと思います。歴史というのが嘘をつく時必ず大袈裟に数値で誇張します。数字は洗脳するのに一番手っ取り早い道具です。

 

瞑想ではなく思考が今日主流になってしまったのは、生活が専ら物質的な充足に振り回されたからです。さらに人間の知力が衰えている事も原因しています。一見教育が行き届き、文盲が減り知的な人間たちが増えているように見えますが、今日の教育では瞑想的能力は育成されないので、人間はますます精神的には、教条的になり、ある種の思考パターンの中でしか結論が出せなくなっています。あるいはみんなが同じ考え方をするようになって、似たような行動を取るようになっています。これではすぐに強力な権力に先導されて言いなりになってしまいます。相当危険な状態です。

私たちは教育を本気に変えることを考えないといけないところにいるのです。そこでの課題は思考的人間育成から瞑想的なものへの移行と言えるのかもしれません。今日の人間たちの思考は相当干からびていることも付け加えておきます。干からびているだけでなく融通が利かなくなり、しなやかさがなく、細かく曲がりくねったカーブをきる運転技術も無くなっていて、ただ直線をまっすぐ走るだけのものになっているのかもしれません。

 

私はそんなことを今日の人間たちの笑いがとても貧しくなっているところからも感じています。笑いはもっと豊かなもののはずで、テレビでひっきりなしに放映されているパターン化された笑いは、文化にとって有毒です。文化の貧困を生んでいるものだと思っています。

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