喋り声と歌声の違い。

2021年4月11日

歌は喋るように歌ってはダメなものなのです。喋る時の声と歌う時の声は全く違うからです。ここに歌が苦手ということを作る原因があるのだと思います。

ただ違うとは分かっていても何がどう違うのかとなると説明は案外難しいので、今日はこの辺から解き明かしてゆきたいと思っています。

私の周囲を見ていると歌う人と歌わない人がいます。歌う人種と歌わない人種があると言えるほど確固たる事実のようです。人種さべちのつもりは全くありません。

歌が大好きな人種はいつでもどこでも勝手に歌い出しますが、歌わない人種は頑なで絶対に口を開かないです。このくらい違うものです。学校の音楽の時間でも口はぱくぱくやっていても声にしないのがいました。原因はどうやら性格的なものももちろんあるのでしょうが、それ以上の何かがあると睨んでいます。呼吸です。息の使い方の違いです。

 

喋るとか歌うというのは基本的には何かを伝えようとしています。両方とも言葉の意味をめぐって喋り、歌います。しかし歌う時にはメロディーを歌わなければなりません。大昔は喋るときの言葉にもメロディーがあったことは知られていますが、現代人の喋りはメロディーから離れた、発音、アーティキュレーションだけの棒読みになってしまいました。歌はメロディーを処理しなければならないのに、喋るときは棒読みのような状態です。この違いが呼吸にするときに全く違う二つの世界を作るのです。

まず喋る時を見てみると、喋る時はほとんどの人が呼吸など意識しないで喋っています。ところが歌うときはしっかり意識しなければならないのです。深く、でも深すぎずに息を吸ってから歌い始めます。そうしないとメロディーに声が乗りません。呼吸を意識させられるということが、歌嫌いを作っているのです。

もう少し厳密にいうと、喋る時は息を前の方に出し、それを声にして言葉にします。歌う時呼吸は背中を流れます。仙骨を支えとして肩甲骨の間を流れる呼吸を声にして歌うのです。こうするとメロディーが声に乗りやすくなります。

毎日の生活では歌う時のように呼吸しないので、この息遣いは非日常的と言えます。この声は現実の雑多な社会生活とはあまり縁がなく切り離されていますから、会議や、討論会や、ブレゼンの時などは現実的な喋り言葉で喋らない状況では話が進みません。歌声はシビアな現実生活とは縁遠いものです。あえて言えば歌う時の息遣いは考えるとかコミュニケーションを取るとかいうよりメディテーションに近いものです。内面的なものと言えます。

ところが19世紀初頭に、歌声に異変が起きて、歌声が喋る声のように前に出てくる声になってしまったのです。しまいには張り上げるようになってしまったのです。この誕生は1830年頃のイタリアで起こりました。男らしさを強調した声の誕生です。ナポレオンの威厳を讃えるために生み出された声だったという人もいます。張り上げて朗々と歌うので、若き英雄の誇らしげな声というわけです。今日の男性歌手のほとんどがこの声です。

 

技術的なところを最後に少しだけ述べてみましょう。

高い音域をどのように歌うかということです。これは素人だけでなくプロも悩むところです。苦肉の策は声を張り上げるというものですが、張り上げると肉体的な力が加わってしまい声は荒くなります。これはこの時以来の声の世界に登場した一つの病気です。最近では訓練されたプロの歌い手たちにもこの声なのですが、この張り上げた声ほど、本来の歌声から遠いいものはないのです。高い音域は体の力を抜いた時が一番出しやすく、その時は前に出すというよりも体の力を楽にして引くようにすると綺麗な高い声になります。

ということで、本来の歌声というものは今日ではほとんど聞かれなくなってしまったといっていいのです。

そこで私はいつもアルフレッド・デラーとレオ・スレーザークにこだわるのです。

 

 

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