音楽と品性、音楽と宇宙

2021年4月26日

音楽と品性とは食い合わせのような関係かもしれないと思っています。

さて、品性からです。

そもそも品性とか上品とはなんで、それはどこから来るものなのでしょう。

味覚の世界では「上品な味」というと、基本の四味と言われている味の要素が強く主張しないで控えめに調和した味、つまり旨味ということだと理解しています。薄味ならいいのかと言うとそれは違います。味というのは舌の上を心地よく通過してゆく存在感が必要です。そうでないと味がボケてしまいます。存在感があっても主張がない調和した味が品のある味です。

人間の場合は社会的に重要なポストにあるとか、能力的に優れているとか、お金持ちだというだけでは品格は生まれません。人格とともにあるものです。謙虚というのがここで登場します。社会的に偉くても謙虚で、特別な能力があっても控えめということが基本になります。謙ると言う姿勢です。

こうしてみると味覚の場合も人間の場合もよく似ているような感じがします。

 

では音楽はどうでしょう。上品な演奏というのはあるのでしょうか。謙虚で控えめな演奏が上品な演奏と言えるとして、音楽で上品さは求められているのかどうかが疑問です。そのためでしょうか今まで上品な演奏ということはあまり考えたことがありませんでした。

西洋のクラシック音楽の本流は表現という主張です。何も表現していない音楽は芸術とは言えないと西洋では考えていると思います。控えめに主張できたらいいのでしょうが、表現しないで表現するというのは矛盾です。ということは控えめ、謙りはこのジャンルの音楽には禁物だと言えるのかもしれません。

以前にも音楽で大事なこととして述べた「弾きすぎない」は多くの音楽家が認めている音楽の基本です。しかし控えめまで行くと主張が聞こえなくなってしまいますから、控えめは禁物です。と言うことで、音楽にあってはどこに上品さを探したらいいのでしょう。

私がライアーを弾く時は、いつも全力で弾いています。それは主張とは別です。とにかく力一杯弦を弾きます。大きな音の時はもちろんですが小さな音も全力で弾いています。全力で弾かないと音がうるさくなってしまいます。おかしな言い方をすると思われるかもしれませんが、音というのは音量でうるさいかどうかが決まるのではなく、そこに込められた気持ち、イメージによるので、全力で気持ちをこめると、大きな音でも聞き手には静かな音として捉えられるのです。主張しない表現もまんざら不可能ではないのかもしれません。

とはいえ演奏を表現として生かすので、ライアーと言えども表現からは離れられません。ここがいつも私が悩んでいるところです。表現しないで表現するなんて技がまだ私にはないからです。

 

西洋のクラシック音楽から表現を取ったらどうなるでしょう。残念ながらクラシック音楽の本質が消えてしまうのではないかと思います。

しかし伝統的なクラシック音楽からいわゆる現代音楽と呼ばれる音楽に移行したときに、ここでいう表現という課題が浮き彫りになりました。表現にこだわることから離れて行ったと言えるかもしれません。主張でない表現と言えるかもしれません

響の集まりのようなものも音楽として認められるようになったのです。それまでは雑音扱いされていました。

最近は瞑想音楽もよく聞かれます。無重力な、表現も主張もない音楽と言ってもいいかもしれません。思考を停止させる力があるようです。

さらに音のヘルツが大切だと言うことで、特別のヘルツで音楽をするようになってきました。音楽が宇宙の響きとして捉えられるようになり、今までの人格的な音楽から宇宙格的と言ったらいいものに移行しているのかもしれません。音楽は品性を問われることなく、宇宙に飛び出してしまったような感があります。

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