正真正銘の歌曲の王 シューベルト

2012年10月8日

「歌曲の夕べ」は主催者としては苦しいものがあるのだそうです。ドイツでも人集めが大変で、いまどき歌を聞きに来る人は、相当の物好きの部類に入るのだそうです。

でもシューベルトの時だけには人が入るのだそうです。ドイツ以外の国でもシューベルトの歌曲の夕べだけには人が集まるのですから、シューベルトの歌には何かがあるのです。

 

歌が心に響くからです。無条件に気キロに語りかけて来るのがシューベルトの歌です。

学問的にいいから、素晴らしいからというのでは人は足を運んではくれません。シューベルトの歌を聞きたい人が来るのです。こう言うことってシューベルトの歌以外にはあまり起こらないことだと思います。日本でもシューベルトの歌を口ずさむ人は沢山いると思います。みんな好きです。民謡とか童謡の様に口ずさんでいます。

 

ハイドンも、モーツァルトも、ベートーヴェンも、シューマンも、ブォルフも、シュトラウスも歌曲を書いています。それ等は芸術歌曲として高く評価されています。ですから高尚な音楽で、専門家が楽しむもので、本当に知る人ぞ知るの狭い世界の中での話しで終ってしまいます。シューベルトの歌曲の夕べの時のお客さんの層の厚さも印象的で、いろいろな人がこの歌を楽しんでいるのかよく解ります。

 

このシューベルトのもつ不思議に迫りたいと思っています。

メロディーの持つ何かが多くの人を引きつけるのです。

美しさだけではないと思います。美しさというのは抽象的ですから、なんとなくシューベルトの音楽には合わないです。

敢えていえば、よく言われる様に自然さです。

しかし自然というのは説明がしどろもどろになってしまいます。堂々めぐりもよく見かけます。何を持って自然というのか非常に難しいものですから、もう少し違う理由を探してみます。

心が素直に受け入れるメロディーなんです。しかも国境を超えて、言葉の壁も楽々越えて聞く人の心に入って行くのです。心はこう言うメロディーを聞きたがっているのです。

 

言葉は今地球上に何千とあります。旧約聖書にバベルの塔という話しがありますが、言葉はかつては一つのものでした。

きっとシューベルトの歌の中には、言葉が将来、またいつか、一つになるという予感が潜んでいるのかもしれません。

簡単なことではないはずですが、シューベルトはそこのところを予感していた様な気がしてならないのです。

心は一つの言葉を求めている、そう言ってもいいのかもしれません。

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