シューベルトとアルフレッド・デラー

2012年10月7日

歌の神様というのはミューズの神様でしょう。

イリアス・オデッセイという、古代ギリシャの大抒情詩はミューズの神様から降りてきたものです。

書くときにホメロスはミューズの神様に向かって祈りあげ、そしておもむろに詩を歌い始めたのです。だから三千年もの間、人々に読み継がれているのです。

 

詩の世界、当時はそれがそのまま音楽でもあったのですが、を歌いだす時には神様に祈るのが当たり前だったからです。

でもホメロスが最後の人かもしれません。

今はそんなことはしません。書きたい詩を書くと言うスタンスです。

 時代が違うからというのは大した動機付けではないと思います。

何かに祈る、こんなことは昔の人の迷信だと言うのが現代的というのでしょうが、なんとなく孤児の様な感じがします。

 

シューベルトは彼の美しいメロディーをすがすがしい朝の中で作曲します。みずみずしい太陽の光の中でです。

この午前中というのはなかなか曲者で、文豪ゲーテもファウストの第二部を書いたのはいつも午前中でした。午前中の汚れていない空気の中でしか書けなかったそうです。

 

シューベルトはお昼が来ると仕事を止めて友人と散歩に出て、そして夜は一杯飲みながら楽しく食事をしたり音楽をしたりして楽しんだ様です。

 

器楽曲を作曲するより歌を作る方が難しいと私は思っています。

歌のメロディーは特別でメロディーへの強い憧れがないと歌は平凡なものになってしまいます。

歌を聞けばその作曲家の腕が解ります。

 

シューベルトの歌をどの様に歌ったらいいのか、これは一番難しいところです。

シューベルトの友人たちの書き遺したものを読むと、どうやらシューベルトが自ら歌ったのが多くの人の心に響いたようです。

 

上手く歌うと言うのはご法度です。歌唱力で歌ったら、ごく薄のグラスを力いっぱい握る様なものですぐに壊れてしまいます。それに気付かずに歌っている人は随分いますが。勿論下手も困ります。一番困るのは上手そうに歌っている下手糞です。

 

私はデラーという今世紀にカウンターテナーを復活させた大天才の声のことを今考えています。彼の歌は、私は確信しているのですが、ミューズの神様に一番近いところにある歌です。そんなものが、歌唱力が歌になってしまった現代にも存在しているのです。これは一つの奇跡です。技術というものとは別の次元で聞ける歌、声があるのです。

 

彼の歌の様にシューベルトの歌をライアーで弾こうと今心に言い聞かせています。

シューベルトのメロディーはあまりに自然で、気が遠くなるほどの高みにあります。手が届かないところにある様な気がしています。それに加えてデラーという大天才の歌と声からインスピレーションをもらおうとしているのです。もし上手く行けば、きっとライアーの新しい発見につながるものだと思います。

 

デラーの歌はミューズの神様も笑顔で聞いている様なそんな歌です。

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