2022年11月20日
シューベルトの音楽をよく聞くのですが、そのうち半分以上が歌です。そしてその歌の歌詞を趣味で訳したりしていると、決して近道とはいえませんが結構ドイツ語の勉強になるのです。シューベルトの歌が特別だと思うのは、歌詞と曲のマッチングが絶妙なところで、私には詩の内容を理解するのにとても役に立ちました。
私は日本人ですから、日本語を書き、話し、読む人間です。ということは外国語としてシューベルトの詩を読んでいるわけです。外国語で詩を読むのは容易なことではありません。小説もものによっては手強いですが、詩はそれ以上に、特別です。一見難しそうな新聞や論文といったものは少し勉強すれば読めるようになるものなのです。
詩の言葉は意味の味わいが求められるものですから、機械の説明書のような機能的説明以上のものです。語学力と言うよりも、もしかしたら語学力以上の言葉のセンスが必要です。
日本語で詩を読んでいるときにも難しさを感じてはいましたが、外国語で詩を読んでいると、単語の意味はわかっても、何を言いたいのかが全くわからないことがよくあります。詩の言葉は文化に深く根ざしていて、騒がしい日常会話の言葉とも違います。詩特有の、その文化特有の言い回しの様なものもありますし、ときには詩のリズム、語調を優先させるので、語順などを入れ替えたり、文法にも従わなかったりして、外国人泣かせなものばかりなのです。
シューベルトの歌曲のおかげで沢山の詩に接して、それを読み、征服しながら、詩の味わいを感じられる様になったことに感謝しています。シューベルトの音楽を通して詩に触れることがなければ、到底乗り越えられなかった言葉の壁が絶妙なメロディー、それ以上に詩が音楽に変容した生々しい力を借りて感じ取れるのです。
今日的感性からすると学問と詩なんて関係ないものです。ところが時代を遡るととても近いものだった様なのです。インドの古代天文学を勉強された方から伺ったのですが、古代の学問は今とは違っていて、新しい事実を発見したときには、詩の形式でその事実を伝えなければ評価されなかったのだということです。今は散文です。散文のほうが具体的に説明しているということになっているからです。ところが当時は散文で書いていたのでは誰も読んでくれなかったのだそうです。個人の思いつきとい次元ではなく、詩という文化に根ざしたものの力を借りなければならなかったのでしょう。
言葉は何歳になっても磨けるものです。先日色々な場所で同時通訳者として活躍されている有名な通訳の方と友人の誕生パーティーで同席したのですが、それはそれは楽しい話を聞くことができて至福の時でした。特に印象的だったのが、ある程度外国語が自由になると、通訳者の実力は自分の言葉をどのくらい正しく、しかも美しく話せせるかという課題と直面するということでした。その通訳者は六十歳を少し超えているのですが、今でも彼の言葉であるドイツ語を磨くことに努めているということでした。私が間髪を入れず「何をされているのですか」と聞くと、「幾つもあるし、人によっても違うと思うが」と言いながら「いい詩をたくさん読むいうもその一つだ」と言っていました。
広島では度々、瀬戸内海汽船の持つユニークな星ビルでお仕事をさせていただきました。そこで私の係を務めてくださった吉田直子さんが、星ビルの仁田オーナーの言葉をよく引用されていました。星ビルにいらっしゃるお客様は個性的な人が多くその方達の接待について仁田氏は職員の方にいつも「いい詩を沢山読みなさい」と言っていたそうです。そうすることでマニュアルではない、型にはまらない、臨機応変なしなやかな対応ができる様になるからということでした。
2022年11月10日
ちゃんとした音楽の話はその後興味深い反響があって、再度「ちゃんと」に登場してもらうことにしました。
あのブログを書いた後に思い出したことがあります。もう三十年も前のことですが、私が日本で講演を始めた頃に「仲さんもちゃんとシュタイナー勉強すればいいのに」とドイツでシュタイナーを勉強して帰ってこられ、日本で精力的に活動されていた方から言われたことです。私はドイツでの教育会議で講演する時には、一般の人を相手にした講演をさせられていましたから、シュタイナーの専門用語はご法度だったので、シュタイナーが言いたいことを普通の言葉で言えるように訓練した結果、シュタイナー用語というのを使わないで講演できるようになったのです。エーテル体だとか、アストラル体とかいう言葉はそこではタブーでしたから、その方は私の講演を聞かれて物足りなかったのだと思います。
三十年経っても未だ「ちゃんとしたシュタイナーの話」はできてないです。
それにしてもちゃんとというのは奥が深いものだと頂いたメールやコメントから感じていました。ある先生は子どもには「ちゃんと」を禁句にしているということでした。ちゃんと座って食べなさいとか、ちゃんと人の話を聞きなさいとか、ちゃんと歩きなさいなどです。これらは、何を伝えたいのかが曖昧だということから禁句なのだそうです。私は先生の「上から目線」を感じます。
英語では決め手になるような言い回しがなく、ケースバイケースで色々と工夫しなければなりません。ではドイツ語ではどういうふうにいうのだろうかと調べていたら、よく似た言い方があるのにびっくりしました。Wie es sich gehört、「本来あるべ姿で」という感じです。「ちゃんと部屋を掃除しなさい」というのは「本来部屋があるべく整理整頓された状態」にしろということです。「ちゃんと聞きなさい」というのは砕いていうと「本来聞くという行為が果たすべ姿で」ということでしょうか。よくよく見ると横柄な押し付けです。気持ち悪いほどに上から目線です。「ちゃんと・・・しなさい」と聞くと背筋が不必要にピンと伸び緊張します。なるほどバッハ、ベートーヴェン、ブラームスを産んだドイツ好みです。
ではちゃんとの反対は何だろうというと、「水面に書いた図形」のようなものです。四角い部屋を丸く掃くのも似たり寄ったりです。私は個人的に鴨長明の方上記のくだり「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」を連想します。川の水に「ちゃんと流れろ」と言ってもしょうがないです。でも大工さんや、指物師の人にはちゃんと作ってもらいたいものです。
ちゃんと生きる様に見える人からお食事に誘われてもきっと断るでしょう。ちゃんと食べないと怒られそうですから。
2022年11月9日
シュタイナーが目について言っているところでとても興味深く読んだのは、視神経が一番集まっているところが一番見えそうなものですが、現実には盲点と言って、そここそが何も見えないところだと言う不思議な指摘でした。
器用貧乏とか、八方美人とか言う言い方は、何でもそつなくできる様にと頑張ると、却ってそれが仇となって落とし穴の様なものに陥るという例えですからよく似ています。
学校というシステムの中で子どもを育てようとすると、案外陥りやすいところです。一番顕著なのは給食指導です。給食では何でも食べられる子どもにしようと学校側が、時には体罰と言われても仕方がないほどにエスカレートしてしまうほど頑張るわけですが、却ってそれによって不幸な子どもを育てしまっているのです。何でも美味しく食べましょうなんて馬鹿馬鹿しくて笑い話にもならないくらいです。しかし現実にはまかり通っているのです。
これらは真空地帯、ヴァキュームです。宇宙に存在すると言われるているブラックホールを思い起こさせるものです。銀河系の中心にもブラックホールがあるようで、何のためにあるのか、どの様にしてできたのかは未だに謎めいているものですが、あることだけは最近写真撮影が成功したようで確かです。
人間生活にもこのヴァキューム、真空地帯があります。何のためにあるのかは分かりません。どの様にできるのかも分かりませんが、真空地帯は存在している様です。シュタイナーが、見えることと視神経の働きについて言っているように、一番役に立ちそうなものが集まると却って真空地帯ができてしまうのかもしれません。良いことというのか先行してしまう教育という現場が一番陥りやすいものです。人間とはそんなに良いことばかりしようと頑張らなくてもいいのだという教訓かもしれません。
ミツバチや、蟻の社会には怠け者が存在して、社会のバランスをとっていることが知られていますが、人間にも当てはまることの様です。何の役にも立たないことをするというのは、善人ほどできないことです。いや本当の善人ではなく善人ぶっている人にはできないことと言ったほうがいいのかもしれません。善、つまり良いことというのはそんなに沢山しなくてもいいのです。
余談になりますが、これは報道の世界でも言えることで、まともしやかに言われているものほど一度疑ってかかったほうがいいものです。そこには必ず盲点が、真空地帯が、ブラックホールがあるからです。