水は水、石にならず。

2022年11月8日

池の静かな水面に石を投げると、石が落ちたところを中心に輪が広がります。石の大きさで波の形は異なりますが、波となって動きは静かに伝播して輪はますます大きくなります。今度は同時に二つの石を投げると二つの水の輪ができま、二つの中心点からそれぞれに波が広がります。そしてある程度の大きさになつた時に二つの輪がぶつかるのですが、私たちが普段馴染んでいるぶつかるというイメージとは違って、お互いの輪の原型を崩さずに格子模様の美しい形で重なり合います。これは感動ものでこれが水です。

水の動きは示唆に富んでいます。そもそも動きとは水に源があるからかもしれません。常に動いていて止まってしまえば腐って濁り、悪臭を放ちます。水の動きは単調ではなく、特に川の流れにはリズムがあるものです。そして何よりも水には浄化の力があり、古くはシャーマンの世界、そしてキリスト教もこの水の力を活用して洗礼を施してきました。

物理を勉強する人たちの合言葉になっているのは「水には手を出すな」だと聞いたことがあります。です。水は物質でありながら物質を超えた何かを持っているからです。

石は「動かない」が原則です。これが石の自然な姿で、石がしっかり重いほどどっしりとして動かないものです。動かなくても腐ることはありません。悪臭も放ちません。「あいつは石頭だ」の様に頑固です。石と石とがぶつかるというのは衝突です。何方かが壊れまるか時には両方とも壊れます。水の様な調和の法則はここには見られません。

 

前回のブログで書いた「ちゃんとした音楽」のことを思い出してください。その関連で言うと、地面には線がちゃんと引けるのに、水の上では無理です。図形などはもっての外です。描いてもすぐにグジャグジャになります。水の上の線は引いた瞬間だけはあるかの様に見え、次の瞬間には消えて無くなっています。なぜ水の上に線や図形がかけないのでしょう。こんなの不思議でも何でもなく当たり前に見えることには何かが隠されています。

シューベルトの音楽は「ちゃんとしていないと言われることもある」で述べたことを思い出してください。

おそらく「ちゃんとした音楽」というのは、物差しと三角定規と分度器とコンパスで図を書く様なもので、シューベルトの音楽は水の上に引いた線のようなものなのでしょう。線がちゃんと引けないだけでなく形もはっきりしません。ちゃんとした図形が書けないのです。

ヨーロッパの音楽の歴史はバロックから古典にかけては物差し、三角定規の世界です。時代が進むとどんどん複雑になり、込み入った図形が描ける様になります。物差しもミリメートルどころかミクロンまで測れる精密なものになりますます正確な図形になります。正確至上主義の世界です。

西洋音楽の流れを汲む現代音楽も実は物差し音楽です。このジャンルの騎手シェーンベルクの十二音階の技法が筆頭に挙げられますが、基本的にはこれも物差し系の計算された音楽に変わりないのです。三角定規も分度器もコンパスも使っていますからモダンどころから旧態依然の復古調です。ヨーロッパは余程のことがないとこの枠から出てゆけないと証明している様なものです。余談ですが絵画にまで物差し、三角定規、コンパスは浸透しました。セザンヌに端を発する抽象画の誕生がそれにあたるかもしれません。そしてそれはピカソ、ブラックのキュビズムへと変化して行きます。

 

現代社会は物差し文化がそろそろ頂点に達した鑑があります。物差し文化は限界です。そろそろ物差しでは測れない「ちゃんとしていないもの」が認められる時代が来るのかもしれません。シューベルトはなかなか先見の明があったということなのでしょうか。

センス

2022年11月5日

個人的には、センスが大事だということはモラル、倫理のことをああでもない、こうでもないと考えている時に確信しました。

倫理というのは善と悪の間を行き来しているものだと閃いたのです。その時見えない物差しが見えてきたのです。

善と悪は今までは、規制の物差しで測るのが普通でした。ところが物差しで測るというのは、その物差しを作った「力」に追随するだけのことで、実際には何にもならないわけです。善と悪の間を動いているものというのは手に取ることはできないものですが、はっきりと存在している見えない何かだと気付いたのです。

つまり善でもあり悪でもありということです。昔はこれを矛盾と言っていましたが、今風にいうと割り切れないもの、アンヴィヴァレンツということで、受け入れるしかないものなのです。善と悪の両方に言い分があるということで、どちらにも味方しないでいられるわけです。

 

今回この「センスのこと」がどこまで話せるか、正直自分でも予測不能でした。

講演というのは不思議なもので、聴衆が内容を引き出してくれるものなのです。それは聴衆を会場で目の前にしている時には実にリアルに実感できていたのですが、今回は電波の向こうの聴衆からも力をいただけました。

 

このセンスですが、はっきり言いますが第六感のことです。つまり超感覚的なものです。

私たちの心を支えているのはこの第六感なのです。理解は心を育ててくれます。自分のことを語らない様にして物事の理解に努めるのが一番です。あまり因果関係にこだわらないことです。自意識が肥大化します。現実を語らずに受け入れる姿勢を作ることです。西洋の人たちはこれが難しく、現代の日本人も随分洗脳されていますが、彼らの何でも説明しなければ気が済まないという気性は拭いきれない様です。そのため理屈を捏ね回して説明できたと信じ込んでいます。しかしそれは空想仮想の物語かもしれないのです。思い込みのこともあります。

理解というのは自分の勝手で説明しようとすると、どんどん離れていってしまいます。理解というのは自分という枠を超えたところのものです。理解は、理解しようと力んでいては得られません。その力みこそが物差しだからです。物差しを捨てなければならないのです。その時初めて理解の領域に入れるのです。

物事を理解するのも人間を理解するのも同じです。センスからしか理解には至らないのです。理解は超感覚的な世界にあるのです。

物差し文化を捨てでセンスを磨くことに切磋琢磨するのです。これが将来の教育の一番の課題になるものだと思っています。五感を鍛えるのがセンスに至る近道ですから、物作りということに通じるものです。

シュタイナーを勉強したり、シュタイナー教育の中にいると、このセンスが自然に身につくように勘違いしている人が多いですが、大抵の場合はシュタイナーの物差しを振り回しているに過ぎないのです。これも立派な物差しですから、実はシュタイナーでコウティングされただけの唯物的なものなのです。

センスは近くにありそうでまだまだ遠いい所にある様です。力んではダメで、力を抜いて努力しないと手に入れることのできないものです。

 

 

人生を軽くするセラピー、音楽そして宗教

2022年11月4日

まず好きなシューベルトの話から始めます。

私の印象ではシューベルトという作曲家はクラシック音楽の中で特殊だと思っています。これは私の個人的な印象だとは言えない、案外自明のことです。

若かった頃に音楽の集まりなどでは、「シューベルトが好きだ」とは言えなかったものです。「もっとチャンとした音楽を聞かなければダメだ」と仲間達から言われるのです。もちろん「どんな音楽がちゃんとした音楽ですか」と聞き返すのですが、返ってくる返事は決まって、「バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ショパン」の音楽ということでした。もちろん私は「それらのどこがちゃんとしているのですか」と聞き返しましたが、ちゃんとした返事はいただけませんでした。

私は未だにそのちゃんとしていないシューベルトが好きです。そして未だになぜシューベルトがちゃんとしていないのか、ちゃんと答えてもらっていないのです。

 

私が尊敬してやまないチェリスト、エマヌエル・フォイアマンはシューベルトのアルペジオーネソナタの素晴らしい録音を残しています。この作品は元々はアルペジオーネという楽器のために作られたものですが、その楽器が消滅してしまった後はもっぱらチェロで演奏されます。彼がベルリンの音楽大学の教授であった時の逸話がありますので紹介しますと、ある日、学生に「明日のコンサートではシューベルトのアルペジオーネソナタを演奏します」といったら、学生たちは不思議な顔をして、「先生はなんであんなつまらない曲を弾くですか」と不服そうに聞いてきたそうです。その時フォイアマンは「アルぺジオーネソナタはつまらない、退屈な音楽などではありません」とだけ言ったとそうです。

シューベルトがちゃんとしていない音楽家という評価は今に始まったことではない様です。

私はハイドンも同じくらい好きです。しかしこのハイドンも評価という点ではシューベルトと似たり寄ったりです。パパハイドンというあだ名は、お人好しのおっちゃん程度の意味ですから、ちゃんとした音楽家としては認められてはいないということです。

 

アルペジオーネソナタのことに戻ります。

この作品の不思議さは、一言で言えば「音楽による主張のなさ」だと思います。何かを誇らしげに主張することはなく淡々と、水が流れるようです。あるいは一筆書きかもしれません。滞ることがなくて、流れの中を無心に進んでゆきます。とてもしなやかな伸び伸びとした音楽です。このしなやかさはシューベルトの音楽に共通しているものですがアルペジオーネソナタではひときわこの特徴が秀いてでいます。しなやかさのほかにもう一つ特徴があります。私にはこの曲に「無重力」の様なものを感じるのです。

実はこの無邪気さ、無心さ、無重力というのがヨーロッパの伝統的なクラシック音楽では評価されない所なのです。重々しいこと、難しい顰めっ面をしていることという、シューベルトの音楽とは反対のことが評価の対象になっているのです。きっとそれが「ちゃんとした」という意味だと思っています。

深刻な顔をして、眉間に皺を寄せて聞く音楽がちゃんとした音楽というのは、人間が重たく、苦しくなってしまったということなのかもしれません。同種療法、ホメオパシーの原理です。ちゃんとした音楽が苦手な私の様な人間は、深刻に人生を考えていないと見られてみ仕方がないのかもしれません。

 

さて、私たちは何故音楽を聞くのかということを考えてみたいのです。ここが今日の本題です。

私は、音楽には重力というのか、重みを軽減する力があるからだと思っています。音楽というのはそもそも「軽み」を実現するためのものなのです。それぞれの音楽にそれぞれの軽みがあります。

音楽とはそもそも何かを軽くするものなのです。重っ苦しい人生を音楽は軽くします。鼻歌が出ている時の自分を観察すると、軽くなっています。鼻歌で軽くなっているのか、軽くなったので鼻歌が出たのかは、鶏と卵の様な関係で判然とはしませんが、お互いに強い結びつきのあるものです。

今日はセラピーというものが至る所に見られます。セラピーも人生を軽くするものと見てはどうでしょうか。私は占いもセラピーだと思っていますから、占ってもらった人たちは占い師の言葉で軽くなっているはずです。まだまだたくさん軽くするものがあるはずです。

人生を、患者さんを軽くするためには、真剣に取り組まなければダメで、中途半端で良い加減な姿勢では患者さんを軽くすることなんかできないのです。

宗教も人生を軽くしてくれるものなのです。宗教家の人たちには怒られるかもしれません。というのは宗教は「真実」を以って人間を「救っている」からです。しかしいくつもの宗教があるということはいくつもの真実があるので、実はややこしい問題なのです。が、宗教は宗派に囚われずにいうなら、いずれにしても人生を軽くしているのです。