2022年9月3日
渡辺さんは私がクラシックギターに夢中になっている頃、NHKのギター教室で教えていた方です。1975年です。
パリの国際ギターコンクールで、全員一致で、日本人で初めて優勝という偉業を成し遂げて帰られた方ということで、彼の演奏が聞けるので毎回欠かさず見ていました。
渡辺さんのギターの音はそれまでに聞いたことのない音でした。目から鱗とは言いますが、耳はなんと言えばいいのでしょう。一度聴いたらその音の虜になってしまうこと請け負います。ギターという楽器を演奏しているのですが、今聴いているのは音楽で、ギターの音楽というジャンルの話ではないと言いたいのです。
その音が聞けるのが楽しみで仕方ありませんでした。ほとんど中毒症状でした。なんでこんな音が出るのか不思議で、渡辺さんのギターを抱える姿、弦を弾く手の位置、指の角度、ありとあらゆる動き全てを真似してみたものです。
渡辺さんのギターの音は渡辺さんという人間に裏打ちされていて、聞こえてくる音は渡辺さん自身なのです。そこまで音と人間とは一つになれるものなのだと打ちのめされていました。
深く、温かく、透明で一度聴いたら、本当に忘れられない音です。
その後ドイツに治療教育の勉強のために行くことになって、そこでライアーに出会うわけですが、この楽器を弾くようになっても、いつも私の心の中に、指の中に渡辺さんのあの音は居て、烏滸がましい言い方ですが一緒に弾いてくれていました。
ライアーの弦はスチールですからナイロン弦のクラシックギターの音に馴染んでいた私の耳に最初は違和感のあるものでした。最初に手にしたのがソプラノライアーたったこともあるのでしょう、馴染めないで悩んでいた時にアルトライアーと出会います。それを弾いたとき初めて納得できるものを感じ、少しずつ弾くようになり、慣れるに従って溜飲が下がった思いがしたものです。それからはライアーを喜んで弾くようになるわけですが、そこにはいつも渡辺さんのあの音から離れたことは一度もなく、あの深々とした音はいつも一緒に居たのです。
こんな綺麗なギターの音は他では聞けません。
こんな深い音も、心の籠った音も、正確な音も他では聞くことができないのです。
しかし、こんな程度の褒め言葉では渡辺さんの音楽を誉めるには全然足りません。
ギターの世界に渡辺さんがいたということが、ギター界の誇りだと思っています。
今でも録音という形で彼の演奏に触れることができるということは、ギターを愛するものにとってはかけがえのない贈り物だと思っています。
もっともっと知られてほしい音楽家の一人です。
ぜひ聴いてみてください。
渡辺範彦と検索すると色々な演奏が聞けます。
追伸です
渡辺さんが使った楽器は、簡単にいうと、音の出にくい楽器です。楽器の材質、弦とフレームの間の異常な距離。その楽器は普通に弾いただけでは、音にならないほどで、渡辺さんはその楽器を弾きこなすため練習に励んだと言われています。
最近のすぐに大きな音が出るギターは、渡辺流の考えからすれば、良質の音を作るには楽器は音が出にくいほどいい音を作れるのだというものですから全くの邪道だということになります。
ライアーも同じで、楽器がよく響くようになるのは、ライアーにとってもマイナスな面が多くなります。響きすぎる音は深みがなく、演奏者の心の透明感ではない、楽器の特性による透明感ですから、説得力に欠けます。軽い響きですから温かみも感じられません。弾きにくい楽器を弾きこなすには、まず指がしっかりと弦を捉えなければなりません。だからと言って力ずくで弾けば音は割れてしまいますから、それはご法度です。
渡辺さんは何人もの人にクラシックギターの巨匠、アンドレ・セゴビアの再来と言われ、優勝した翌年特別ゲストとしてパリに招かれ、その後ヨーロッパで演奏会を開き各地で高い評価を受けたそうです。
さもありなん。
2022年8月25日
手品師の技にまんまと引っ掛かるのは楽しいものです。ズブの素人ですが、あの技の影には大変な量の努力があることぐらいは想像がつきます。しかしよくまんまと引っ掛かるものです。
人によってはどうやっているのか知りたくてしょうがないと聞きます。そのために種明かしをするお馬鹿さんたちが後を立たないのは残念です。私はそんなことは絶対にしたくありません。騙された時のあの幸福感はなかなかない体験です。
今日の何でも知りたがるという性向によって人間は賢くなるのでしょうか。
たとえ賢くなっても権力欲という火種が残っている限り幸せになることはないと思います。
みんながみんなを支配したがっているのです。これでは駄目ですね。
YouTubeという媒体の出現で、好き勝手なことがある程度は言える時代になったことで、昨今は政治の裏を暴露するという話で持ちきりです。みんなが「自分は正しいことを言っている」つもりでいるわけです。
まるで政治には裏があるというのが今に始まったものかのような感じですが、政治というのは鳴門の渦潮のような途轍もない現象です。二千年前のシーザー(カエサル)の「ブルータスお前もか」という台詞通りに裏切りが絶え間なく続いているものでもあります。
こうした政治の種明かしをしたいと考えた人は枚挙にいとまがないと思います。よく見られる暗殺というのは、どのような暗殺も、所詮は種明かしをされまいとするときに、政治的手品師の手によって行われるものです。不慮の事故も同様です。
政治がそういうものだというのは人間の業のようなものだと考えます。政治というよりも自惚と権力欲です。その力が政治そのものなのですが、今はそこにお金という、これまた魔法が加わって巨大な権力を得て人間生活を振り回しているわけです。実に腹立たしいです。腹が立ちます。
しかし政治というのはそうした暴露が炎上し、種明かしされたところで巨大な渦が衰えることはないものです。このメカニズムは誰よって作られたのでしょう。知っている人がいたら教えていただきたいです。確かなのは、一つの渦が消えれば別の渦が正義を名乗って登場し自らを正当化し、新しい歴史を書きます。Histoty(歴史)=His story(さる方の作り話)ということです。
手品師はいつも何らかの形で嘘をついて、聴衆を騙しています。それは正直な人間であればあるほど、魂の負担になっているものだと聞きました。魂のレベルだけでなく肉体的にも負担がかかっているものですから、デドックスが必要なのです。不思議な職業病です。そのために手品師たちは休みをとってメンテナンスをしなけばならないのだそうです。どのような形が好ましいのかは個人差があるようです。何も考えずに美味しいものを食べ、清々しい空気を吸って、いい景色で目の保養をすることなのかもしれません。
音響の仕事をされている方から聞いた話です。都会での生活の中にいると、体が消化しきれない音が体に溜まるのだそうです。学問的に証明できるものではないので、個人的な印象です。そのため、一年に一回は、しばらくの間森の中でただただ自然音だけを聴いてデドックスするいうことでした。
お酒の利き酒をお仕事にしている方は、普段の生活から摂取するものは体が消化しきれないものがあると感じ、やはり一年にある期間、山にこもってほとんど繊維質の強い山菜のようなものだけを食べる時間を作ると言っていました。そうしてデドックスした後は味覚が冴えているのだそうです。
政治の世界にもデドックスの必要を感じます。
いや人類はしばらく休憩してもいいのではないかと、単なる想像から考えています。
2022年8月23日
悪口を言ったり貶しながら生きるよりも、何かにつけて褒めながら生きるほうが明るい人生が送れそうな気がします。
ところが先日ふと考えてみたのは、褒めるとは言っても案外勘違いしている向きがあるのではないかということでした。やたらになんでも簡単に褒める人は、同じくらいのレベルで貶したりしているのではないかという気がしたのです。
ポジティブ、ネガティブというのと結びつけてみたいのです。この二元論は何を基準にしているのだろうかというと、大基本はイエスとノーだろうという気がするのです。曖昧はダメではっきりイエスかノーというのが西洋的です。西洋ではグレーゾーンはご法度です。
しかし客観的なイエス・ノーなんてないのだということは考えておく必要があります。そうしないと全体主義のような画一的な文化が生まれてしまいます。ということで実は主観的なイエスとのーの基準に振り回されているだけなのです。
何かにつけてぶつぶつと文句ばかりを言っている人に時々出会いますが、こういう人とは一緒にいるだけで疲れるし、こちらの方の気も滅入ってしまいます。出来るだけそういう人と同席することは避けるようにしています。
一方なんでも「ポジティブに」と、物事を肯定的に見ていると信じ込んでいる人というのも、別の感触で一緒にいると疲れるものです。
一番いいのは簡単に褒めたり貶したりしないことで、まずは何も判断しないで放っておくことと言っていいかもしれません。関心がないわけではなく、逆にそのものとしっかり出会っていればいいのです。
なんでもすぐに判断できるというのは、判断力があるから出来ることと思われていますがそうではないのです。全く逆で、判断力が乏しいので、その場の雰囲気に飲み込まれて褒めたり貶したりして自分をコーテイングしているだけの場合があります。つまり実際には判断力が弱いということになります。私はそこに自我というものの側からきを感じています。
意外と思われるかもしれませんが判断力がある人は簡単に即断をしないものです。
ただある状況ですぐに判断を下さなければならない時には別です。その時は、直感という力で判断を下します。その直感ですが、思いつきとは次元の違うもので、判断力を鍛えた人が持つものだと私は考えています。雰囲気に呑まれた思いつきと、直感からの判断とは一味も二味も違い、直感は冴え冴えとしていて的確なものです。
小さな子どもを育てるときに「駄目」とか「いけません」と頭ごなしに言うことは避けるべだとは思いますが、あまりに神経質にならないことです。例えば「禁句」扱いして悪者にすると、却って神経質になってとんがってしまい窮屈になり不自然なものですから、子どもに向かって言うとき「あることをしては駄目です」と言う代わりに、別のことを示唆して、「これをしたらどう」と方向転換をしてはいかがでしょうか。
逆に子どもの前で「この花綺麗ね」とか「あの景色は最高だ」なんて簡単に褒めるのも、褒めすぎるのも子どもには迷惑なものだと思っています。先ほども言いましたが、褒めると言うのはそんなに褒めたものではないのです。特に小さな子どもの前では。
あるものを褒めるよりも、そのものを大切にしている姿を子どもに感じてもらう方が、子どもの人生に大きく働きかけているように思うのですが、どんなものでしょうか。