2022年9月11日
伝言ゲームは子どもが大好きな遊びです。「新幹線は早い」と発信されたものが「私もロープウェーに乗りたい」なんてとんでもないことになったりします。十人から十五人ぐらいが結果の意外性が大きく面白いです。少なすぎると面白さが中途半端で、多すぎると途中で一番面白いところがすぎで、かえって面白さが半減してしまうものです。
伝言ゲームはとんでもない結末を純粋に楽し目ばいいのですが、反面、言葉を音声で伝えて行くのがどれほど危険なことかも教えてくれています。
公の正式な記録の場合、言葉は文字として残すのが常識になっています。視覚的にということです。そのために文字で、文書として記録するわけです。百聞は一見に如かずという諺もそのことを言っているのでしょう。
しかし聴くことが命の音楽の世界ではこうした事実と矛盾する事実が確認されているので、そこに焦点を合わせてみます。
簡単にいうと、残された楽譜がどのような扱いを受けるのかということです。。
そもそも楽譜がいつ出来たのかは楽譜をどのようなものと捉えるかによって違ってきます。今のような五線紙の楽譜となるとほんの二百年・三百年というスタンスで見れば十分ですが、ギリシャ時代にも、五線紙ではなく文字による楽譜があったということ、ヘブライ語は文字が即音符の役割を果たしていたということを踏まえると、楽譜というのは二三千年のスタンスで捉えないといけないものになります。
さてこの楽譜ですが、どのくらい正確に伝えているのかというと、楽譜で伝えられるものには限界があるということがわかっています。音の高さや長さは何年経っても同じものでしょうが、音楽というのは文章でいう行間、楽譜が伝える以外のものからなっているもので、そこは楽譜では伝えられない微妙なものが生きているのです。
かえって、例えば日本の雅楽のように千年前のものが口伝というのか、マンツーマンで伝えられたときには、当時の音楽が長い時を経てもかなり正確に伝えられていると考えられています。マンツーマンなら千年は大丈夫と言われるほどです。正確には当時の音楽が録音されていないので、証明はできませんが、幾つかの実験で、マンツーマンで伝えられたものの方が、楽譜よりも正確に再現しているところまでは証明されています。
楽譜があることはとてもありがいたことですが、客観的ではなく、いつも演奏者の解釈がつきまとってきます。同じ曲を別の演奏家で聴くと同じ曲とは思えないほど違うことも皆さんが経験されていることだと思います。
では楽譜をもっと正確なものに、つまり表情記号を正確に書き込んでおけば大丈夫ではないかと思いきや、表情記号は大して役に立たないものだということも知られています。「ここはこのように演奏しろ」と作曲家が指示するようになるのはベートーヴェン以降のことですが、演奏家はにもかかわらず自分のイメージで演奏するようです。音楽というのは楽譜という一般化して仲介するものと、実際の演奏という、同じ根っこを持つ二つの世界が混ざり合ったものだということです。こうした「ムラ」も人生の楽しみのような気がしています。
もし伝言ゲームを、一方通行で流してゆくのではなく、聞いた人がちゃんと確認するというシステムにしたら、初めと最後は同じものになるのでしょうが、ゲームとしては全くつまらないものになってしまいます。
この曖昧さ、いい加減さはなかなかな人生を楽しいものにしている要因でもあるということのようです。
結論の出ない話で申し訳ないのですが、音楽の場合は言葉のように表記されたものの信頼度は高くなく、マンツーマンが一番という話でした。
絵画の世界も模写が大切だといいます。文章の世界も好きな作家の文章を模写したりします。一般論化した教授法では伝わらないものが芸術にはあると見て良いようです。
音楽の本質もここにあるのかもしれません。
好きな演奏家の演奏を、できれば生で、たくさん聴くことです。
2022年9月7日
子どもの頃から「よく噛んで食べなさい」と言われていました。私はなんでも先へさきへと急いでいた子どもでしたから噛むのがめんどくさくて、数回噛んだだけでごくんと飲み込んでしまうのですが、母は見てみないふりをしながらもしつかりその辺りを心得ていて、小さな声で「よく噛むのよ」と諭したものでした。
噛めば噛むほど味に変化が生まれます。一般には甘くなります。そこではただ噛むという行為だけでなく、噛むことで出てくる唾液という魔法の液体、神秘の液体の働きあります。
唾液と混ざって食べたものがだんだん自分のものになって行くのです。
ところが最近は硬いものよく噛まないと食べられないようなものはどんどん減って、食べ物は平均域には柔らかくなっているようです。噛まないで済むようにという配慮なんでしょうが、誰の配慮なんでしょうか。
医学的には噛むことは既に消化活動とみなされていますから、よく噛んで食べることを医者は勧めます。
キリスト教文化ではイエス・キリストの33歳の生涯に託けて、33回噛むといいという人がいます。私の子どもの頃は五・六回しか噛んでいませんでしたから、キリスト教的には落第です。
噛むという言葉は、口の中の食べ物にだけいうのではなく「噛み砕いて話をしなさい」などと言います。食べ物は歯で噛みますが、話を噛み砕くのはなんなのでしょうか。相手が利害しやすいように難しい言葉とか言い方を避けて平易な表現で説明するということですから、自分でまずちゃんと理解するということのようです。噛み砕くというのは物事の理解にとって、話し手に課せられた課題なのです。
頭のいい人の話が分かりにくいと思っているのは私だけでしょうか。彼らの悪い癖は難しく話すことにあるように思えてならないのです。自分はこんなにことも知っていると講師ような知識を見せびらかすような話もあります。噛み砕くとは全く正反対です。このように話す人は本当はその難しい知識を本人も十分理解していないのではないか、そんなふうに勘ぐってしまいます。
誰が聴いてもわかるように話せるようになりたいものです。
2022年9月6日
しばらく止められていた音楽界が最近また復活してきて、何度か足を運びました。コロナ禍の元でお休みしていたのは音楽だけでなく、美術館などもおんなじで、芸術全般の活動が停止した状態でしたから、潤いをもたらしてくれるものの復活を心から喜んで足を運びました。
でも満足のゆく音楽会には今の所出会えていません。
一番物足りなく感じているのは顔がないということです。音楽に顔がないのです。のっべらぼうとまでは言いませんが、見せ所聞かせどころをふんだんに盛り込んで表情付けのようなものはあって楽しませてくれるのですが、肝心の顔がないのです。面構えに満足できないのです。
現代人は顔を持たないということを示唆してくれたのは、シュタイナーの普遍人間学でした。当時、1910年代の話ですが、産業革命以降社会を覆い尽くしてしまった生産工場からででくる人たちの顔がみんな同じだとシュタイナーは言うのです。
個人的な体験をお話しすると、私がドイツの家族を連れて山形の温泉宿に泊まった時のことです。そこに東京の銀行の社員旅行の人たちが泊まっていて、その人たちと宿の廊下ですれ違った時に顔を見ると、なんだかみんな同じに見えたのです。子どもも「おじさんたちみんなおんなじ」と言っていました。最近の歌を歌う女の子のグループのメンバーの顔も同じに見えて仕方がないのです。Kポップは人気があるそうですが、彼らの顔も区別がつかないのです。みんな同じ顔をしているのです。
クラシック音楽の世界にまでこの傾向が波及していると思っています。
別の言葉で言えば平均化しているということかもしれません。クラシック音楽を演奏するのに必要なテクニックは小さい時から特訓されますから磨かれているのですが、それはただ音符を正確に弾く技術に過ぎないものですから音楽の本質ではないのです。
では音楽の本質は何かというと、「顔」です。面構えです。
顔のない音楽は派手に表情をつけても厚化粧のようなものですから、本質から離れていてすぐに飽きてしまいます。音楽らしくは聞こえますが、それ以上ではないのです。「らしく」なんていうのは基本的には媚です。顔と言っているのは全然「らしく」無いのです。
顔と言っているのは味かもしれません。いずれにしても、本当によかった、また聴いてみたいという気がしないのです。食べ物の味も同じです。また食べたいものには味に面構えがあります。
また会いたい人にもやはり面構えがあります。いい顔しているのです。決して今どきのイケメンではありません。
顔を繕っても、顔にはなりません。もちろん整形なんてもって他です。かえっていやらしいものになってしまいますから、グロテスクで醜いものです。顔は作れないのです。ところが昔から40になったら自分の顔を持てと言われていますから、作れるものなのかもしれません。
今は死ぬまで自分の顔を持たない人が多すぎるように思います。
。