2022年7月20日
もうほとんど見かけなくなってしまいましたが、普段着の着物姿は晴れ着などとは違った素朴な風情を感じさせる良いものでした。六十年以上前の山手線は今とずいぶん違った、普段着の着物姿の風物詩が生きていました。
それだけでなく、山手線の当時の車両は木の床で、メンテナンスに油を塗っていたので。その後は実に臭かったのです。当時はまだ戦前からの言い方がされていて省線って言う人の方が多かったようです。鉄道省、今の国土交通省の電車という意味です。いつの頃からか「やまのて線」と呼ばれるようになりましたが、昔は「ゆまて線」でした。車両は今より短かかったのに、今ほど混んでいませんでした。
そんな中で普段着の着物姿の人がちらほら見受けられたものでした。私の祖母も木綿の普段着の着物で「省線」を使っていました。木綿の絣の柄の普段着ですから、今日の着付け教室で習ったような堅苦しいものではなく、ましてやおしゃれを意識したものではなく肩の力を抜いた、体にピッタリ馴染んだゆったりした感じでした。
着物姿が消えていったのは高度成長とともに東京が首都として機能し始めた頃だと思います。男性はネクタイ姿で女性もタイトなスーツ姿でしか山手線には乗ってはいけないような空気が漂い始めます。普段着の着物姿以外に、夏などはステテコで「省線」を使う人もいました。つまりそれまでは東京の人も一地方出身の田舎っぺだったのです。東京生まれの田舎っぺにすぎなかったのです。
さて普段着の着物姿に戻りましょう。関しいかな今日ではほとんど見られなくなってしまいました。とても寂しいです。着慣れていると言うのか、着こなしているのです。体にピッタリと馴染んでいますから、少しくらい着崩れしていても気にならないのです。着ている方たちも着慣れているので押さえるところをしっかり押さえて着ているのです。こんな自然な感じは今は見られません。当時の着物を着慣れた人たちは着物を体で知っていたのだと思います。着崩れしてもだらしないというようなものは全然感じられないのです。
その点晴れ着姿は普段着物を着ない人たちが着ることが多いので同じ着物姿とはいえ別物です。着慣れない人が着ているので少し着崩れただけでも目立ちます。それに比べると普段着の着物のさりげない優雅さは格別です。この違いはとても興味深いものです。
着物文化が衰退したのは残念ですが、生活様式が変わってしまったので着物では不便を感じるので致し方ないのでしょう。着物では自転車には乗れませんから。
ということは洋服というのは機能性ということから定着したものということなのかも知れません。よくドイツで、「日本人が洋服を着るとなんだかつまらない」と言う人が多いです。結局洋服というのは、そのように外から押し付けられた衣類のせいなのでしょうか。とは言っても今の人に着物を着せても、とってつけたようなものでぎこちないだけです。服装文化として日本は、着物と洋服の間で、どっちつかずになって迷子になっているのかも知れません。
2022年7月19日
先日少々驚いたことがありました。歳のころ二十歳を少し過ぎた、幼稚園の先生になろうとしている女性が、長針と短針の時計が読めないことを発見したのです。
外を歩いている時、今では公の場所にすら時計があるなんて珍しいことなのですが、大きな丸い時計が折りよくあって、その時計を見ながら「五時まであと二十分だね」と言ったらキョトンとしているのです。
つまり彼女はデジタルの時計しか知らないので、携帯の時計をみて「そうですね」と答えるのです。数字で表された時間しか時間ではなく、秒針が動く、長身と短針の組み合わせで時間が表されることを知らないなんて、正直信じられないことでしたが、それが今の現実なのです。
台所で使う秤もいまはデジタル化されたものがほとんどです。一グラムまで正確に測れますから便利は便利です。しかしメモリを読みながら測る計量器はどんどんなくなっています。
天秤というのは片方に分銅を乗せ、それに見合った量をもう片方に乗せて測るのですが、両方が釣り合いの取れた状態になるまで、測られる方を微調節します。そこにはなんとなくスリルがあって、学校の理科の実験の時などは楽しみの一つでした。今はみんな数字で表されるので、分銅とのバランスなんて言っても、時計すらデジタル化された数字の時間しか知らない世代になので、通用しない話かもしれません。
測るというのは考えてみると広い意味を持っているものです。測る気になればなんでも測れるはずです。例えば相手と自分の関係なんていうのも測れます。何グラムでもなく、何センチメートルの距離とかいうものでもない、軽量単位は各人各様です。自分自身も「昨日に比べて今日はどのくらいの良好機嫌か」なんて測れます。一般的な単位はないので、各人で見つけなければなりません。
最近は統計学というのが非常に発達していて、データーを巧みに処理して、過去・現在・未来の動向を読み取るのです。占いとか預言者の言葉とかとは違い学問的にデーターを処理する技術が開発されているのです。これもある意味で測るという仕事に属するものではないかと思います。
昔聞いた偽札造りの名人の人の話です。この人は何年もの間手書きで偽札を造って生計を立てていました。一週間に一枚十万円札を造って銀行の窓口で一万円札十枚に替えるのです。何年もの間お縄にかからずにいました。
彼が同業者の話をした際、「みんなコンピューターで色の配合を測っている」と指摘し「でもそれは人間の目には見破られてしまう」と付け加えていました。だから彼らはすぐにお縄にかかってしまうのだそうです。どんなに精巧なコンピューターとコピー機ができても、「そのようにして作られた偽札はすぐにバレる」と名人は言っていました。
名人は全部手書きで作ります。色鉛筆で色を混ぜるのだそうです。自分の目が同じ色と認めるまで色を混ぜると「一人の訓練された目が同じ色と認めた色は、他の人にも同じ色に見えるものです」というのです。
人間には機械には及びのつかない正確な色測定器が備わっていると言うことなのでしょう。色だけでなく「形も手書きはバレません」と言います。
なぜその名人が最後はお縄にかかったのかは、残念ながら忘れてしまいましたが、銀行の窓口で見つかって警察に引き渡されたなんてみっともない最後でなかったことだけは確かです。
私は一つだけ測ることで自慢できる特技?があります。
旅行のスーツケースの重量は、手に持っただけで二百グラムぐらいの誤差で測れるのです。
日本からドイツに向かう飛行場でチェックインのために並んでいると、列の前の家族連れの旦那さんが「まずった。スーツケースを測ってこなかった」というのです。「二十キロまでよ」と奥さんが言うと、「わかってるよ」と旦那さんが不安そうに答えます。「オーバーしたらどうするのかしら」と不安は募るばかりの家族連れでしたから、そこに割って入って「測ってみましょう」と二つのスーツケースを手に取り「こちらは17キロもないです。そして、こちらの方も19キロ台かな」というと、少し安心したようでした。案内の人に呼ばれ、いざスーツケースが軽量計の上に乗るとすぐさま私の方を振り向いて「ピッタリでした」とニコニコしながらおじきをされてしまいました。
2022年7月15日
ムラのことが気になるのでもう一度書きます。
唐突ですが、今年三十六になる長男が結婚をすることになりました。すでにパートナーとは五年前から一緒に生活しているし、四つになる女の子と一才になった男の子がいます。以前は正式に結婚はしないと言っていたのですが、やはり結婚することに決めたようです。
式そのものは外の会場でやって、最後のトリは我が家の庭でするというので、何か飾りになるものを作ってみたいと、紙でくす玉でも作ろうかと思い立ちネットで調べてみました。折り紙で三十二のパートを組み合わせればできそうです。動画を見ていると「角と角をきっちりと合わせます」と何度も繰り返されているのがとても印象的で、「そうか、折り紙にはムラは禁物なんだ」とブツブツ言いながら見ていました。
ムラが禁物なのは音楽も似ています。リズムの取り方についていうと、メトロノームのような機械的正確さと、インテンポと言って主観的に変形した自由リズムがあります。古い録音を聞いていると(たかだか百年前です)、意外とインテンポのものが多いのに驚かされます。ここ三十年ほどの演奏にはほとんど見られません。それどころかインテンポは禁じられているようです。最近の音楽は、折り紙のように、きっちりと演奏しなければならないという考え方に支配されているようです。
前にムラについて書いた時に、「日本人はきっちりし過ぎているのでムラが苦手」というようなことを書きました。今でもずっとそう思っています。音楽でいうと、日本の方の演奏はきっちりし過ぎていると感じていたことに通じます。
「きっちりと」というのは説明しやすいものですが、「ムラ」がどうゆうもので、どのように生まれるのかを説明するのは難しいです。ムラは油断すると出鱈目にも通じてしまいます。とすると間違いということでもあるわけで、音楽で言えばミスタッチですから下手くその典型です。
以前、理科系・文科系という文章を書いている時にもムラのことが脳裏を掠めていましたが、そこではうまく処理できなかったので素通りしましたが、今日は挑戦してみます。
理科系はいつもきちんとしなければ成立しないものですが、文化系にはムラが必要だという考え方です。理科系から見たら文科系はいい加減な人間たちでしょう。しかしこのいい加減がなくなったらどうなるか、人類は擦り切れてしまうに決まっています。IQ、知能指数は理科系指数、つまり理科系能力を測定するだけのものですから、文化系を測定するシステムは今のところ存在しません。文科系的「ムラ」は測れないからないというのは理科系の発想にすぎないと言えます。理科系人間から見れば文科系は存在意義がないといういうことになってしまうのでしょうがグロテスクなロジックです。
人間の考え方を支配している善と悪、正しいと間違いというのも「ムラ」から捉え直してみたら、味のあるものが見えてくるかもしれません。例えば人間というのは善と悪の斑(マダラ)だというようにです。