音楽は聴くもの

2022年7月8日

音楽について語るというのは、痒いところに手が届かないようなものだと、最近YouTubeで音楽について話されているものを聞きながら感じていました。

音楽の専門家から素人の音楽好きまで色々な人が音楽について説明した動画を作っているようで、確かに聞くと色々説明してくれるので、何か音楽について分ったような気になってしまうのです。

ある作品について語るとします。流動的な音楽を固定化して型に嵌めてしまうわけですから、水の中を泳いでいる魚を突然水から掬い出して剥製にして展示するような感じです。つまり「音楽における死」だということです。音楽は聞かれる時が一番イキイキしています。しかしその時、聞き手である私たちは、不思議にも何もわからずに聞いているものなのです。

テスト勉強に陥った音楽は、音楽とは無縁のもので、知的好奇心から目覚めた知識が増えることに喜びを感じるに過ぎないのです。そこで話されていることを丸暗記すると学校の音楽のテストで百点が取れそうです。そこでコメントに投稿されたものを読んでいると、勉強になった、音楽家のことがよく分かったというのが多く、お勉強好きな日本人はいまだに健在という感があります。

知識をかき集めることで音楽を聴く力が付くかというと、そんなことはないのです。音楽についての知識は膨らみます。インターネットの世界からどんどん知識を取り入れれば、知識欲は満たされても、音楽からは逆に遠ざかってしまったのではないかとさえ思うのですが、どんなものでしょうか。

 

音楽は無心で聴くことです。高校生の時に買ってもらった小さなトランジスターのラジオで布団の中で聞いた音楽は本当に新鮮でした。成人して買ったHiFiの優秀な装置から流れる音楽よりも、たくさん本を読んで知った知識を武器に聞く音楽よりずっと純粋だったようです。

 

今は逆に、無駄な抵抗かもしれませんが、音楽を聴くことで無心である自分を作ろうとしているようなところもあります。

自分の人生に関わってこないような音は聞かなくてもいいのだと言いたいです。時間の無駄です。

音楽を聴く力をつけることに尽きます。音楽を感じることが何よりも大事だと思っています。作曲家の伝記を丸暗記してもその音楽の作品を聴く力には無ならないということをしっかりと肝に銘じてほしいと思います。逆に知識が純粋に聴くことを妨げてしまうことがあります。

 

百メートルを九秒台で走るには何が必要かとスポーツ評論家が熱心に説明しているのを聞いても百メートルは九秒台で走れるようにはなりません。知的に整理されたことを何度聞いても百メートルを早く走れるようにはならないように、音楽の成立にまつわる逸話を聞いても、音楽家についての生い立ちを知っても、音楽家の運命的な出会いに触れても、その音楽家の音楽を聴く力にはならないのです。ここが音楽という芸術のとても不思議なところです。

 

無心で音楽が聴けるようになれる訓練があればそれが1番の訓練だと言えるのでしょうか、今のところ無心で聴く訓練のエキササイズがどういうものか知りません。私の想像ですが、おそらくそんなものはできないでしょう。

ただ音楽は直感的に聴く時だけ生き物で、知識で聞いた時は試験問題ですから、知識の世界の音楽からできるだけ離れ、ひたすら音楽を聴いていただきたいと思います。

 

笑う門には福来たる。あるいは微笑みについて。

2022年6月27日

大好きな諺です。正真正銘の座右の銘です。

ファイナンシャルのコンサルタントのような人に、「笑ってそれで福がきて何になるのですか」と言われれば、確かにその通りです。ところが、もし笑わなかったら、と立ち止まってみてください。人間様どうなってしまうのでしょう。ファイナンシャリストたちに機会があれば聞いてみたいのですが、お金があれば福は来るのでしょうか。

自説ですが、人間は笑わなかったら大変なことになってしまいます。笑い喪失症候群という病気による枯渇、硬化のために、自分を支えていた軸が、歯車が合わなくなった時計のようにずれしてしまいます。心身は狂ってしまい、精神的な破壊が生じ、最悪の場合は死んでしまうでしょう。

笑わない、笑えないというのは「死に至る病」にかかっているのです。逆に、笑うことは生命力増加のために欠かせない妙薬なのです。

 

現代はどこの国を見ても「グローバル」という合言葉に導かれ国際色豊かになりました。ドイツも御多分に洩れずいろいろな国からの人が生きてます。

笑いという観点から見てみると、例えば日本人が集まったときには日本独特の笑い方があると感じます。笑いながら一体感を醸し出します。これは日本にいる時には、周りが日本人ばかりだったので気付かなかったことです。

もちろんドイツ人の笑い方もドイツ的です、イギリス人の笑い方(イギリスを一派一絡げにしては怒られます、イングランド的、スコットランド的、ウェルズ的、北アイルランド的で、それぞれに違うのです)、フランス人の笑い方といろいろです。

そしてよくよくそれらの笑いを見てみると、笑いは人と人とを結びつけるつからがあるものだということです。孤立した現代人に一番欠けているもの、それが笑いなのかもしれません。

政治的に分けられた国家という単位は、笑いを研究するには何の役にも立た無いものです。国家単位よりも、国家以前から存在している集団、民族の方が、笑いを観察するには手応えがあり面白いです。もちろん国家と民族が同一の時は別です。

さらに細分化すると、日本の中も関東・関西と分けられますし、南国の人、北国の人と分けられますし、太平洋側と日本海側の人にも分けれられるかもしれません。それぞれに少しずつ違った笑いがああるようです。

大阪の友人の年頃のお嬢さんに、「東京の人との結婚は考えられますか」と聞いたら、即答で「それはないでしょうね」と返ってきました。理由を聞くと「笑うところが違います」でした。生涯の伴侶を選ぶときにはいろいろな動機があります。一番の動機は好きになってしまったことでしょうが、それだけでなく家柄、経済力、容姿などがそれに続きます。でも笑いが登場するとはその時まで考えたことがなかったので、友人のお嬢さんの言葉は新鮮でした。と同時に大阪の人の中には笑いが根強く生きているのだと知りました。

 

最近聞かなくなったのは、「オリエンタルな微笑み」という言い方です。「神秘な微笑み」です。

中近東から東、アジアに連なって行く地域は、湯ヨーロッパから見てオリエンタルとよぱれ、東方ということです、人々の生活の中に微笑みがあると信じられていたのです。今日の情報社会ではなく、フェイクは至る所に溢れていました。そんな中で微笑みはとても神秘的なものだったのです。

気が付けば日本でも微笑みはほとんど死語になっています。日本だけでなく、世界中が微笑まなくなって真面目ヅラ、仏頂面というのか、顔が引きつって、微笑みなんかが生まれないのです。

 

四月の復活祭の時に、久しぶりにグリューネヴァルトが描いた復活するキリストを目にすることがありました。それはフランスのアルザスにある癩病患者の礼拝堂に飾られているえです。毎週一度日曜日にだけ開帳される絵で、昇天し復活したキリストの顔が描かれているものです。透明な平安を久しぶりに感じ、たくさん元気をいただきました。

その時、ふと、仏像が見たくなりました。昇天するキリストの顔が東洋的な安らぎに通じていたからです。家にかるとすぐに私の好きな仏像の写真をいくつか取り出して貪るように見ていました。

そこで気づいたのは、それらの顔は共通して微笑みを浮かべているということでした。興福寺の仏頭のおおらかな眼差し、葛井寺の千手観音の全てを見通した慈悲の安らぎ、長谷の大仏のゆったりした微笑んでいるかのような優しい顔、全ては格別でした。どの顔も今の世情からは程遠く、今日的な雑多な考え方に染まってしまった私たちからは生まれようの無い無垢な顔でした。ところがそれらはどれひとつとして笑ってるとは言えないのです。彼らの笑みは、笑う前の微笑みの源泉なのかもしれません。その源泉に触れると、心は自ずと緩み、顔が自然とほくそ笑んでくるのです。

 

人間の深い安らぎから微笑みは生まれていたのです。オリエントの微笑みは、遠くオリエントにはあるのかもしれないと信じていた西洋人たちの憧れだったのかもしれません。

 

俳句は理系かもしれない

2022年6月21日

今回の文章はまだ未完成だと感じながら公開しました。そうしないとこの文章のいいところが壊れてしまうからです。よろしくお付き合いください。

 

理系と文系と分けることを不思議に思う人はいないと思います。それくらい当然で、人間のタイプ、能力、適応性を理系・文系と分けるのはほとんど常識的なこととなっています。

橋下徹氏が大阪知事の時に、大阪の大学の文系の学科を縮小、あるいは全廃すると公言し物議を醸し出したことがありました。理系、工業系の大学だけが社会に意味のある存在だと言わんばかりで、文系は存続が危ぶまれ、おおあらわでした。小説家の藤本義一氏が直接知事と会って話をしたというニュースをテレビで見た覚えがあります。

ところが一方で生物学者の福島伸一さんが、そもそも生物学は理系に属するものなのに、自らを文系と位置付けてていらっしゃるのを知り狐につままれたような思いをしたことがあります。福島さん独特のバランス感覚のなせる技なのでしょうが、捉え方次第では、理系・文系の区別は流動的と考える方が理に適っているのかもしれません。

 

芸術の世界に目を転じると、そこには理系・文系と分ける習慣は見られません。それを超えているのか、それ以下なのかは読者の判断に任せます。

クラブ活動では運動系と文化系と分けますが、これも体を使うか頭を使うかと簡単に区別できるものではないようです。もちろんそこには理系・文系と分ける根拠はありません。また知能指数という測定技術からも理系・文系の決め手は見つけられません。

古代ギリシャでは「ロゴス」が包括していました。ロゴスには今日いうところの文系と理系の両方が含まれます。つまりロゴスというのは言葉と数学、論理性を併せ持っているものなのです。

今日的な意味で理系・文系を区別しようとするとき、この「言葉と数学」が手かがりになりそうな気がするのですが、古代ギリシャのあり方を見ると言葉と数学は基本的なところ、つまり根っこは同じとみなされていたで、理系・文系を分けるには相応しくないようです。当時は理系・文系と二つに分ける考え方は存在しま線でした。そもそも人間を総合的に捉えていたということなのかもしれません。

理系・文系というのは習慣的に分けていますが、よくよく考えるとそれほど当たり前のことではないことがわかります。

 

さて今日はとんでもないところに話を持ってゆこうと思います。

俳句というのは理系ではないかと考えたのです。

俳句は詩歌で、文学というジャンルに属していますから、普通は文系ということになると思います。

ところが生物学者の福島伸一の考え方の応用編として、さらに物理学者の寺田寅彦の書いた俳句論を思い浮かべながら、俳句は理系であると提唱してみたいのです。

俳句は今世界中から注目を集めています。このような言い方をすると、世界の俳句作りたちはあまり良い顔をしません。「日本人は外国の人に俳句はわからないだろうという先入観をお持ちなのでしょうが、私たちはもうすっかり俳句を理解し、自分のものと考えるほどです。そして日本人には作れない素晴らしい句をたくさん詠んでいます」と反論してきます。

俳句は世界に羽ばたいたのに、同じような和歌は日本というローカルな世界にとどまっています。十七文字と三十一文字ほどの違いしかないのに、しかも和歌にしても結構短い方なので、同じくらい日本を超えて世界に広がっても良いのではないかと思うのですが、和歌はローカル色豊かで日本にとどまり、世界はもっぱら俳句に注目しているのです。

俳句は十七文字から一つの世界を構築します。世界が注目するのは短さだけでなく、俳句という表現方法が宇宙へと広がる可能性を持っているからです。しかも、ここが大事なところなのですが、俳句には、言葉の壁を超えて挑戦できる何かがあるのです。俳句はそれによって世界中の人が取り組み始め、魅了してきました。私はそれが俳句が理系だからだと考えているのです。もっというと俳句は数学に限りなく近いものなのかもしれないということです。

十七文字では心の様子などを隈なく説明できるわけがないのです。そのためにはあまりに短すぎます。確かにこの点を強調するならば、西洋的な心理学好き、説明好きからは短いというのは短所として指摘されるだけです。ところがこの短所、見かけによらず強靭なのです。もし俳句が短いが故に未熟なものだったら、今、世界で注目を集めることなどなかったはずです。

俳句は短くても完璧なのです。俳句は描写し、説明するのではなく、感性的法則を直感的に提示します。

俳句は短い中で、簡略的に高い水準に到達します。それは情緒的表現にも通じるものですが、むしろ宇宙的表現にふさわしいものです。俳句は途轍もない能力を有しているということです。

どこからくるのかというと、日本語という音として使われる「シルべ言語」の持つ宇宙性です。西洋語の言葉は単語として意味を持ち、意味に翻弄され、概念とされます。この「単語言語」「説明言語」「概念言語」と比べると曖昧であることが強調される日本語ですが、本来は非常に直感に富んだ言語のはずです。ヨーロッパの論理的に「説明する言語」とは対極にある「説明を超えたもの」です。西洋の言語はこの仕事をポエジーの中ではなく、文法という理屈で捉え展開したのでした。

俳句の中に凝縮する美的センスは、音、シルべとしての言葉である日本語の凝縮したものです。日本語の中から雫として滴り落ちたものに、論理性、宇宙性を表現できる力が与えられたのです。もしかすると日本語は古代ギリシャのように、理系・文系の両方の能力を持っていたのかもしれません。そう考えると日本語という言語の持つ驚くべき直感的論理性、瞬時的理解から俳句が可能になったことがよくわかります。

俳句は合理性と曖昧性の融合です。日本が工業的に美的なセンスを凝縮しながら工業化を推し進められたのは、日本語が二つの能力を持っていたからだと考えてはどうでしょうか。ここには日本の過去の業績だけでく、世界の未来を感じるのです。

俳句は世界で愛されていますが、そもそもは日本語という特殊な能力、融合した能力からしか産まれ得なかったはずです。俳句に至るプロセスの中で、日本語が数学化したとも言えそうです。日本語という融合したものの中から産まれた奇跡、それが俳句なのかもしれません。

この奇跡、数学に支えられているが故えに世界がいま自分の言葉でも俳句を楽しめるのです。