潜在意識と直感

2021年2月5日

意識というのは脳生理学的には説明できないのだそうです。脳生理学だけでなく、意識は瞬間にしか存在しな瞬間性のものだと思うので、説明はそのための手段ではないと思います。さらに潜在意識となればもっと遠いい所に行ってしまいそうです。意識の彼方ですから、意識でつまづいていては潜在意識のことなど口にできません。ただ意識も潜在意識は現実のものなので、現実の生活にも影響しているので、その実態を説明したくなるのでしょう。

量子物理学が意識の存在証明に一役買っています。物質の動きに人間の意識が関わっているということが実験で証明されるようなのです。そもそも私たちの物質的存在は量子からなるということになると、私たちに、私たちの意識が働きかけることで、変化させることができる、ということになります。働き、影響ということに関していえば、論理的に説明がついたような感じです。

 

潜在意識は20世紀初頭のユングの心理学から関心がたまり今に至っています。最近は潜在意識の開発が一つの流行現象のようになっています。潜在意識を使って人生を向上させるのいうセミナーも随分見受けます(受講料は大抵破格のお値段です)。実際にそれで成功した例があることは耳にします。大基本は「思えば叶う」ということのようです。私たちが常日頃思っていることをただ思っているというレベルから一つアップして目標を具体的にするのだそうです。潜在意識は現実ですからそこから力をもらうことができるようになるわけです。

 

そこで気になるのは、潜在意識を利益の目的のために使おうとしていることです。非常に合理的なやり方と言えるかもしれません。しかしビジネスで成功するための秘訣を潜在と結びつけるのですから、潜在意識も随分迷惑しているのではないかというふうな気がしてならないのです。潜在意識はもっと大きな私たちを包み頃ような力を送ってくれているように思えてならないのです。

そもそも顕在意識と潜在意識とは仏教で言われていたものですが、東洋の潜在意識は分からないままにしておいたのではないかという感じがします。分からないということも理解だからという観点でしょうか。それと、顕在意識の中には潜在意識は含まれていると考えたのではないかと思います。例えば私たちの今生は、前世からの集まりですから、今生をみる目を持てば前世といテーマは必要ないかもしれないというのに似ているかもしれません。過去に拘るから前世が気になるのでしょう。未来、将来、来生と言ったものを考えたらどうかと思います。

 

野球のイチロー選手が若い時に、毎日200球ボールを投げる練習風景を見たことがあります。そこで言っていたのは、ムキになってなげないこと、なんとなく、何も考えずにぼんやりとということでした。その時の方が体全体で投げているということでした。インタヴューの人に、「こうして人と話をしながら投げるのなんか悪くないですよ」と言っていました。一番いけないのは「練習だ、一生懸命投げなきゃ」と頑張ることのようです。イチロー選手によれば、ムキになれば肩を壊してしまうのだとか。

 

私は潜在意識の活用は別として、潜在意識とコミュニケーションをとることは有意義だと思います。研究よりもお話をするのです。知的に整理するのではなく話しかけるのです。私たちの意志が活性化するからです。私たちの心の中の意志と言っているものは、別の言葉で潜在意識なのかもしれません。

意志に働きかけると心も体も暖かくなります。暖かくなればしなやかになります。しなやかな中で直感が冴えてきます。潜在意識と直感は元は一つの二つの現れのような気がします。

言語化すること。ハマーショルドのこと。

2021年2月4日

私の孫たちは(一歳半から二歳十ヶ月)このところ言葉に夢中で、教えられたりしているわけではないのに言葉がどんどんできるようになってゆきます。そのスピードたるや驚くべもので、一週間も会わないと言葉の数はどんどん膨らんでいて、それに比例するかのように顔つきまで変わっているのでまるで別人のようです。途方もないエネルギーが働いているようです。想像を絶する量のエネルギーが費やされる、一生の中でも類のない大事業です。この自然に湧いてくるエネルギーのお陰で、孫たちはこの大事業を楽々とこなしています。

このエネルギーは言葉だけでなく、小さな子どもたちの体を柔軟でしなやかなものにする側から気もあります。あのプチプチした弾力のある肌はこのエネルギーから作られているのです。だからこそあの子たちは周囲で起こっていることを無限に吸収して、それを言葉に変えて行けるのです。

成人した人間はもうこのエネルギーが自然に湧いてくることはありません。今孫たちの中で起こっていることの半分も真似ができないと思います。いやそれ以下でしょう。しかしできないことはないのですが、エネルギーを精神力で補給しなければなりません。時々そういう人を見かけることがあります。そのための精神力は並大抵のものではないですから恐るべきこだわりを一つのことに集中している人か、相当な修行を積んだに違いありません。成人してから小さな子どもが持っているエネルギーを得るには精神を鍛えてエネルギーを補給するしかないのです。この精神力を生来持っている人が稀にですがいて、彼らを天才と呼びます。天才たちは小さな子どもたちの成長を支えているのと同じエネルギーを生涯持ち続けた人たちです。本来は小さな子どもの成長の段階に備わっているものですから、成人してそのエネルギーを持ち続けるとバランスを崩してしまいます。天才たちはそのエネルギーで創作活動などができるのですが、日常生活を送るのが難しいことは歴史上の天才たちをみると容易に察するることができます。

 

幼児にとって言葉の習得は成長と深く結びついたものです。彼らは言語することで成長力を刺激しているともいえます。以前に十一世紀にドイツの王様が孤児の子どもたちを集め、彼らに言葉を教えなかった話をしました。子どもたちはほとんどが3歳になる前に死んでしまったのです。言葉によって生命力が活性化されなかったからです。

成人した大人にもこれに似たことが起こっています。成人してそれなりの経験を積んだ時点で自分のしてきたことを言語化すると、その人は若返ります。生命力が活性化するからです。しかし整理するために言語化すると本末転倒になってしまいます。整理することが生命力を刺激するのではなく、言語化することが大事なのです。

 

最後に六十年代に国連の事務総長を務めたハマーショルドの話をします。彼は東西の鉄のカーテンの緊張の中を、国連の事務総長と言う過酷な役職に就いて生きた人でした。多くの人から大変に尊敬された人物でした。そんな中不慮の飛行機事故で亡くなります(よくある話です)。秘書に「私が死んだら開けていい」と言いつけた金庫がありました。ハマーショルドが死んだ知らせを受けた秘書は言われた通りに秘密の金庫を開けました。世界中はそこにハマーショルドしか知らない東西社会の政治的秘密が記されていると期待したのは当然です。ところが金庫から出てきたのは彼が生前書き続けた俳句でした。彼は大変な緊張の中で「私の十七文字よ飛んでおくれ」と俳句を綴り続けたのでした。一触即発の思っ苦しい社会状況の中で見つけた軽みでした。そうすることで心の平安を得ていたのです。

 

 

 

成長と発展

2021年2月4日

成長と発展はよく似ている言葉なので混同していることがあります。

経済的には成長も発展も、少し意味合いが異なりますが、両方言えます。

発展途上国はいいですが成長途上国では意味が通じません。

成長障害と発展障害とは全然違う方向を向いています。

人類は今日ある姿に発展してきたので、今日ある姿に成長したのではないのです。

こうしてみると成長というのは精神性を含んだ変化で、発展というのは数値で表記される変化だということになりそうです。

 

成長と発展とに共通しているのは状態の変化です。ところが成長による変化には以前の状態、今の状態、以降の状態という流れがあってもそれぞれの状態は等価値ですが、発展は以前より良くなった、悪くなったと比較することで優劣をつけます。

私たちが成長について語っているところに発展的な考え方が混同しててくることがあります。つまり成長を数値で表す時成長を語っているのではなく発展のことが頭にあるのです。

私が治療教育の現場にいる時に、経済的にバックアップしてくれている団体に毎年報告書を書いていました。そこで重要なのは数字です。例えば歩行障害を持っているお子さんの場合、どんなセラピーを何時間受けたことで歩行能力がどれほど改善されたかということを、具体的に、全て数字で示さなければならないのです。書いている時に、これは子どもの成長について書いているのではなく、何かの機械の説明をしているように錯覚したことがあります。

発展思想は唯物的な観点から生まれています。社会は昔原始社会で、だんだんと発展して、資本主義社会になり、最後は社会主義になってゆくというふうに、極めて合理的に説明がつくのです。これですっかり説明できたと思い込んでしまう傾向は、頭でものを考えて整理するのが好きな人にとても多いのには驚きます。現実から乖離して、理念というか机上の空論で物事を片付けるわけですから、現実は改善されないということになります。原始社会と今日の社会ではどちらが住みやすいのかという問いに対して簡単に答えられるのは発展思想です。

 

人間は幼児期、学童期、思春期と変化してゆきます。成長しているので、発展しているのではないということです。

人間の体には五臓六腑があります。それぞれの臓器に臓腑にそれぞれの働きがあるので、肺の方が肝臓より大事だとか、脾臓は腸に比べれば大した臓器では無いなどというのはおかしいのです。心臓が停止すれば死んでしまいますが、肺が動かなくなったって死んでしまいます。長が詰まってしまっても死んでしまいます。

幼児期は思春期に比べたら大したことのない成長段階だという人がいたら、成長を履き違えている人です。成人して、だんだん歳をとってゆくと、社会的な貢献度は減ってゆきます。だから価値がないのだというのは発展思想、唯物的な考えから来る、人間無視の考えです。人間というのはそれぞれの成長段階にいる時それぞれに大切な時期を生きているのです。