ライアーの音の秘密

2026年9月20日

ライアーの音はどのように聞かれているのだろうかと思ったりします。弾いているときは深い音を弾こうと必死ですが、演奏した後で思い出したりしているときに、あの音たちはどこに届いたのだろうかと思ったりするのです。開放弦の張られた中から生まれた伸びのある音は、きっと聞く人の心をほぐしてくれていると祈るだけです。

ライアーの弦は全部が会方言です。ヴァイオリン属の楽器やギター属とは違います。ピアノのように全部の弦が一本一本別個に張られています。ハープも同じです。しかしピアノにもハープにも消音するためのペダルが楽器に仕組まれているので、弾かれた弦がいつまでも鳴っているライアーとは大きな違いがあります。ピアノのペダルは弾いた音が次の音と被さらないように、特別の配慮がなされているのです。ライアーはそう言うものがなく鳴りっぱなしです。したがって前に弾いた音に被ってしまいます。ピアノに慣れた方からすると濁っているという印象を持たれるようです。
ライアーの場合は消音が絶対に無理かというとそうでもなく、指が空いていたりすれば弾いた音を消してから次の音を弾くことは可能ですが、それで演奏がいいものになるかと言うと、必ずしもそうではないのです。弾きっぱなし、というと言葉が悪いですが、残音もライアーの魅力の一つだと思うことの方が多く、私の場合はあまりに不自然な響きになってしまわない限り、向きになって音を消すことはしません。
夏にスイスにいたときに近くの酪農農家の牛の群れが近くで放し飼いになっていて、その牛がそれどれにカウベルを首から下げていました。草を食むときに動いたり、場所を移動したりするときには必ずそのカウベルが鳴っています。どの牛がどの音かは農家さんはちゃんと知っているわけで、その音が聞こえないと 見に行くこともあるのです。何頭かが同時に動いたりすると独特の響きが生まれます。それは、音楽的に言えば不協和音なのでしょうが、とても気持ちのいい自然の中で調和した響きです。
ライアーの残音にもよく似た、意図された和音とは違った独特のライアーだけの調和した響きを聞くことがあります。それを不協和音と見做すか、それともライアーに備わった特性とみるかの違いで、私は後者です。ただクラシックギターを弾いていて、その音作りに慣れていた初めの頃には、スチール弦の長く鳴っている音が気になった時期もありましたが、ライアーの良さがわかってくるにしたがって、ライアーの特性と感じるようになりました。

 

朝の目覚め

2026年9月18日

朝の目覚めのひと時は不思議な時間で、日本では「早起きは三文の徳」と言い、ドイツでは「朝のひと時は唇から黄金が溢れでる」と言われます。朝の目覚めはみずみずしいのです。お昼までの午前中を含めることもあります。ドイツの文豪ゲーテは晩年午前中だけ仕事をしていました。作曲家シューベルトも午前中だけ作曲をして、午後は友人とウィーンの森を散歩し、夕方からは飲み友と一杯ひっかけていたと言います。
朝に、なぜそのような力を感じるのでしょうか。

目覚めを観察してみると、自分の意志で起きたのではないことに気づきます。何かに起こされたかのようです。当たり前のように毎朝起きてきますが、この当たり前が不思議と言えば不思議です。目覚まし時計で起こされることもあります。いずれにしろ自分の意志や意識は全く関与していなかったのです。夜寝るときに「明日は6時に起きる」と言い聞かせるように寝た時に、目覚ましの鳴るすぐ前に目が覚めることがありますが、それでも自分の意志で起きてきたのではなく自然に目が開いたのです。やはり何かが私を起こしたのです。そこに普段私たちが私と言っているものは一切関わっていないのです。
こんな魅力的な朝のセレモニーのことが何故長いこと放置されたままだったのでしょうか。理由は簡単です。そこは無意識の世界と言っていいからです。私たちの意志、知性、意識が全く入り込めない無意識の領域だからです。

眠りから覚め、朝食を済ませ日常生活に引き摺り込まれてゆくと、私たちは「考える人、知性の人、意識を持った人」に変わって行きます。寝ている間私たちは考えていなかったのです。意志も働いていませんでした。それなのに起きてこられたのです。と言うことは、考えずにやっていることの中には、なまじ考えてやっていることより偉大なことが含まれているのかもしれません。デカルトは「我思う、故に我あり」と言いましたが、今見たような観察からすると言い換える必要がありそうです。「思わずにいても、我あり」と。デカルトは知性が最高と思われた主知主義の時代の考え方だったのです。起きるという現象を前に、現代に至っても科学は手をこまねいているだけで、なす術もないのです。こんなシンプルなところで科学は立ち往生しているのです。
寝ていた時のことはどうもがいても思い出せませんが、起きている時のことは何年経っても思い出せます。寝ている時は記憶も関わっていないのです。こんなことに人生の三分の一ほどの時間を費やしているのです。かつてアメリカで寝ている時間がもったいないと考えた心理学を専門にしている人たちがいて、人間を何とかして寝ないで済む生き物にしようと研究したようなのですが、成功しませんでした。人間は寝ないでいると寝不足になるどころか狂ってしまうのです。疲労が溜まるといった簡単なことではなく、生死に関わる問題だったのです。

観点を少しずらしてみます。夜寝て昼は起きていと思っていますが、その区別はそれほど簡単なものではなく、起きているときにも寝ていることがあるのです。昼寝のことではありません。講演会で講師の話を聞いているとします。一時間の間ずっと同じ緊張感を維持することはできないのです。実はその一時間の間に他のことを考えていたりしているのです。それを一種の寝ている状態と死むのは考えていました。寝ていると外からはわからないほどの微かな眠りです。しかしその人の意識はそのとき講師の話に向いていないのです。
私の講演会を企画した人たちが講演録を作るために録音をしようとしたのてすが、マイクが私の声を取っていなかったため、後日関係者が集まって、各自がノートしたものを寄せ集めて講演録の下敷きを作ろうとした時のことです、輪になって座り順番にまとめたものを発表したのですが、驚いたことが起こったのです。例えばAさんが発表すると必ず何人かから「仲さんいつそんなことを話されたのですか」という人があらわるのです。Bさんの時もCさんの時もDさんの時も同じパターンで、一時間の話の中で聞いていなかったところが随所にあったことにみんなが気づいたのです。聞いていなかったのは他のことを考えていたこともあるのでしょうが、意識が講師の話から外れてしまっていたのです。それをシュタイナーは寝ていたと捉えていたのです。人間はずっと起き続けてなんかいられないのだそうです。起きている間でも、寝たり起きたりしているのだそうです。
長い時間瞑想をしている時も、寝ているような状態になります。脳波は寝ている時とよく似ているのです。そして瞑想から離れ、日常に戻ってくる時は、朝の目覚めとよく似た状態になります。ただ瞑想から戻ってくる時は人間の意志で決定して戻ってくるので、全く同じではありませんし、それで目覚めの不思議が解けたわけではありません。
しかし瞑想から戻ってきたときに目にする日常の現実はキラキラ輝いているものです。

何故目覚めるのかについては、シュタイナーの興味深い考察がありますが、非常に繊細なもので、それはいずれ独立したブログで後日紹介したいと思います。

外国語習得の道、AIの言語能力

2026年9月15日

成人してから新しい言葉を学んだことのある人はみんなそれがどれだけ大変かを知っています。その大変さがどんなものなのか、それはAIを機能させるために大量の電力を消費するのに似ているように思えるのです。
AIに外国語を学ばせるにはまず大量の辞書を覚えさせます。そして言葉の意味だけでなく使い方を教え込みます。もちろん大量の文法も例文も覚えさせますから、その言葉の専門家が歯が立たないほどの語彙数と例文を知っている、言語的天才のようになります。
そんな怪物のようなAIの言語力を持ってしても、叶わぬことがあります。母国語という次元の言語体験は持っていないのです。AIの言語はどこまで行っても悲しかな外国語なのです。

私はドイツで何人か母国語体験のない人に出会ったことがあります。その一人は父親が航空会社に勤めていて、しかも特殊なポストについていたため、二年か三年かには必ず引っ越しがあり、住む国が変わって、その度に新しく言葉を学んだという人です。その人は七カ国後を流暢に話すことができるのですが、本人曰く「私には母国語がない」という現実に苦しんでいるのです。七つのうち三つはネイティブの人と同じに話せると言っていましたが、残りは自分でも外国語をしゃべっているという意識があると言っていました。三つのネイティブレベルの言葉にしても、みんなが母国語と言っているものとは違うようだと言っていました。読み書きになるとその三つにしても、しどろもどろで、どの言葉も難しい文章になると読めなくて、そのために猛勉強をしたと言っていました。今は英語とドイツ語が話して読めて書ける言葉だと言っていましたが、その言葉を代表する古典的な文学は歯が立たないことがあるそうです。
母国語を持たない人がいるという現実感覚は日本では語られることのないテーマです。まずそんな人がほとんどないからです。そして日本人ならみんな日本語を喋るからです。日本語しか喋れなくてもなんら問題がないのです。日本人がアジア、アフリカ諸国の中でダントツにノーベル受賞者が多いのは、日本人は専門の勉強ができる最高学府まで日本語で、つまり母国語で勉強ができるからだと言われています。他の国は自国に留まっていては専門の勉強ができないため英語に堪能になるしかその道に進むことができないのです。しかしそこには外国語という壁が立ちはだかっています。一般に想像力と言われる、イマジネーション、インスピレーションの降りてくる絶対量が違うのだそうです。

母国語を定義したいのですがどのように定義したらいいのでしょうか。この文章を読み進める前に一度立ち止まって考えてみてください。
考えましたか。
私は母国語というのは「考えることなく話せる言葉」と定義したいと思います。
私は縁があってドイツ語と日本語で講演をしてきました。量的には日本語での講演が百倍くらいになりますが、それでもドイツ語で百回はしました。1番最初にした講演がドイツ語ででしたから、講演というのはある程度準備してからしか話せないと思っていところ、日本から招聘を受けて日本語で講演をするようになったとき、そこで初めてドイツ語の時のように準備しなくても話すことができることに気づいたのです。さらに、考えることをしなくても、その場でインスピレーションのようなものが働いて、私の中からというより向こうから話すことが降りてくるのです。私は母国語の偉大さをそこではっきりと認識したのです。
女性たちが話している輪の中に入ってみて気付くのは、女性というのは母国語を信じ切っているということです。男性と話をしていると思考され、選ばれた言葉が並ぶものなのですが、女性というのは、あれよあれよという間に、あっちに行ったりこっちに来たりと話が展開して、しかもトドメもなく話すことができ、あっという間に何時間も経過してしまうのです。まさに母国語の典型で、そこは思考が入り込まなくても成立する魔法の空間なのです。

母国語というのは魚と水のような関係で、生まれてからずっと水の中で生きてきた魚にとって泳ぐことは自然のことなのです。水と一緒になって戯れているだけで成立してしまう、当の本人にしてみれば簡単なことなのです。ところが成人してから泳ぎを覚えるというのは別で、それはそれは大変な苦労がいるものなのです。金槌という例えがあるように、浮かぶことすらできないのです。ところが水の中で育った魚を水から取り出してしまうと今度は大変です。魚は全身で飛び跳ね掬いを求めます。その姿はいろいろなところで目にします。私たちも日本語から放り出されて別の言葉の世界に入れられたら、あの水揚げされた魚と同じような状態にいるのです。
しかし人間には外から入ってくる異質物を同化する能力が備わっています。それによって新しい言葉を、母国語で培った言語のセンスで、苦労は伴いますが学び取ってゆくのです。こうして学んだ新しい言葉を外国語と言います。外国語は母国語とはおりにレベルに並べることができない全く別のものなのです。私個人の経験でいうと、外国語がどんなにできるようになっても、外国語は外国語だということです。間違っても母国語と並ぶものにはならないのです。ただヨーロッパの言語のように一つの幹から派生した親戚言語の間では、その人の持つ才能によっては母国語のようになることもあるようです。しかしそのように外国語をマスターした人でも、数を数えるときには一つの言葉で数えるのです。アルベルト・シュヴァイツァーというアフリカ医療で有名なフランスのアルザス地方の生まれの人はドイツ語とフランス語が戦争の度に入れ替わった地域で育ったため、両方の言葉が同じくらいできるのですが、本人は「母国語というところには一つの言葉しか入れない」と言うのです。彼は自分の母国語はドイツ語だと言っています。そして数を数えること、日常で使う道具は必ず一つの言葉、母国語になってしまうというのです。
AIの言語能力は日に日に進化しています。しかしやはり外国語を学ぶようにというところからは逸脱することはないと思います。母国語を持つのは人間だけの特権だと思っています。もしAIの危機というものが訪れるとしたら、AIが母国語を持った時かもしれません。