筆跡と書

2025年5月13日

もう三十年ほど前のこと、私がハンブルクにいた時に、頼まれて日本から招かれていた書家の方のデモンストレーションの通訳をしました。

ある日曜日の朝に知り合いから電話がかかってきたのです。その日の夜に行われるデモンストレーションの通訳をしてほしいということでしたから準備をする時間はなくぶっつけ本番での通訳でした。

できればその方と自然に少しでも打ち合わせができればと思っていたのですが、その方が時間ギリギリに到着されたことで、それすらもができずに本番に向かったのです。

その方は初めに道具である、筆のこと、墨のこと、紙のことを説明されました。この三つを熟知して初めて書が生まれるという内容でした。花を聴きながらそれを通訳しているのですが、通訳の間に大変勉強になったのでした。いかに墨が筆に馴染むか、そしてそれがさらに紙の中に染み込んでゆくのかは、経験的に学ぶべきものなのだそうです。そのために練習を重ねるということでした。

しかし書として書く時点ではそれらは全て忘れられているのだそうです。それ以上に心の中に生まれている動きを感じることに専念するということでした。もう試遊時のレベルではないのだとその時思いながら通訳していました。

そしていざ筆を手にして、硯にたっぷりの墨を筆に含ませ、一気に紙に向かってゆきました。何かを書いているという印象ではなく、無心に動いているというもので、ほとんど一瞬のうちに一つ書き終えました。書いた後で「心の動きをそのまま紙に移しました」と言葉にされていました。直感とかイメージという言い方を連発されていたようでした。

参加されていた人は全員ドイツ人でしたから、初めて目にする書家の筆さばきは意外なものだったようで、いくつかの質問がすぐに出て、書家の方もそれに応えていました。ドイツの人の目には書が出来上がるのが早すぎるようでした。書家はそのことに対して、習字ではないし、ヨーロッパのカリグラフィーとも違うと強調していました。その方によるとカリグラフィーは形を描くけれど、書は動きが主体だということでした。

筆という筆記道具はペンで書くカリグラフィーとは別の可能性を持っていて、筆の持つしなやかさは心の動きを移すのにはとても適しているということでした。

私としては、ペンで書いていてもやはりそこには動きの形跡が残り、それが活字とは違う筆跡を作っていると考えていますから、結局文字を書くということの基本は動きだと言いたいのですが、その時私は通訳者でしたから、自分の感想を述べる立場になく、いろいろな人たちの質問と、それに答える書家の言葉を一生懸命通訳していました。書という特殊な状況で使われる言葉は通訳しにくく、結構苦戦していた記憶があります。書家の先生にとっては何でもない普通のことが、ドイツの人たちには全く前提されていないのが、通訳していて歯がゆいところでした。筆のうごきを溜めるとか、力を抜くというタイミングがなかなか共有できませんでした。力を抜くには緊張が必要などいうのはドイツ的には矛盾しているように聞こえるものなのです。

会が終わってみんなで食事に行ったと、通訳の役から一旦は下方されて、初めて自分で感じたことを書家に伝えられたので、先ほどのペンと筆のちがいと、筆跡のこと、形と動きのことを聞いてみましたが、焦点が合わず、私と書家の歯車が噛み合わない話になってしまいましたので、深入りするのはやめました。ただ書家が筆跡をどのように考えているかだけは聞いておきたかったといまにして悔やまれるのです。

筆跡は筆記体で書く時に一層はっきりしてくるのですが、最近のドイツの学校では活字体で書くことしか教えられていないので、筆記体で書ける人がいなくなっています。とても残念なことだと思っていますから、ことあることに筆記体をすすめています。しかし学校で教えられていないというのは致命的です。

筆跡は上手い下手という以上に味わいがあります。書いた人が彷彿としてきます。何が筆跡を作っているのかと考えるのですが、所謂無意識の産物なのかもしれません。字を書いている時というのは、ペンにしろ筆にしろ、ちょっとだけ書家になっているのではないかと思います。

 

誕生日を祝う習慣

2025年5月12日

昨日また一つ年をとりました。昭和二十四年に、満年齢で年を数えることが始まったそうです。それまでは数え年でしたから、みんな一斉に一月一日の元旦に年を重ねたものでした。

誕生日を祝うということにドイツで初めて出会った気がします。我が家では誕生日を祝う習慣がなかったので、ドイツで盛大に誕生日を祝っているのを目にして始めは少々違和感があったものです。

誕生日を祝うということは無かったにもかかわらず、不思議と誕生日にプレゼントをもらったことは覚えています。何だったのかは忘れましたが、まだ日本が高度成長に入る前でしたから、貧しい時代で、大したものでは無かったはずです。

 

いまドイツで友人たちの誕生日に呼ばれると一番悩むのがプレゼントに何を持ってゆくかです。ものの溢れた時代ですからみんな大抵の物は持っているので、何か変わったものをと考えてもなかなか見つかりません。私だけでなく多くの人の悩みのようで、最近はプレゼントに選んだらいいものを商品にするお店が登場して、なかなか繁盛しているようなのです。そこで買って「はいプレゼントです」と持っていっても心がこもっていないようで、納得できずにいるのでお店の力を借りずに何かを探そうと努力していますが、案外難しいものです。

プレゼントというのはプレゼンテーションのようなもので、自分を表すことですから、プレゼントをあげて喜んでもらおうとしているのだと思います。これが政治的なものとして利用されると賄賂のようなものにつながるのでしょう。

昔のドイツではプレゼントには自分で作ったものを贈っていたものだと聞いたことがあります。ドイツはそもそももの作りのお国柄ですから、手仕事で作ったものを贈るのが一番心のこもったものと認識されていたのでしょう。それが今の消費文化のなかで買ったものをプレゼントするというのが定着してしまったようです。むしろそっちの方が商品価値が読めて好まれているようです。ちょっと有名なワインでも贈っておけば用が足りてしまうということのようです。

ものを作ることから離れると文化はますます個人という基本が失われ、一般化してゆき薄っぺらなものになってしまうような気がします。手間暇かける時間などないというのが現実なのでしょう。

 

音楽の未来

2025年5月11日

娘がシュトゥットガルトの放送局でオーケストラのマネージメントに携わっている関係で定期公演の年間チケットで毎月コンサートに足を運んでいるのですが、どうも最近は感動することが少ないように感じるのです。昨日もオーケストラの音楽を聴きながら、原因が私にあるのか、それともコンサートという形式にあるのか、それとも音楽そのものにあるのかを考えてしまいました。

特に昨日の演目はとても偏っていて、今も生きている現代作曲家のものが三つのあとにドビッシーの海でした。現代音楽に偏見を持っているわけではないと思うのですが、聞く度に「何を伝えたいと思っているのだろうか」ということが脳裏を掠めるのです。音楽はその時代を如実に反映している物だと思っているので、現代音楽は現代という事態を反映している物なので、現代という混沌とした時代そのものだと言って仕舞えば、全く時代を反映している音楽として評価すべきものと言えます。

しかしそれだけでは芸術というものの役割の半分しか果たしていないように思うのです。芸術は時代を反映していると同時に未来を指向するところにその存在意義があるので、その意味で言うと、現代音楽は今の混沌を反映しながら、そこに未来を暗示するものがあってほしいのです。こんな時代に未来なんかないと行って仕舞えば身も蓋もないのですが、それは一般論で、芸術家であると自負するならば、それでも未来が暗示できる人であってほしいのです。時代を反映しているだけであれば、自分に翻弄され漂っているだけなので、そんなのは目の前にあるのであらためて音楽で聴くこともないのです。

今回の演奏会を通して強く感じたのは、現代音楽というのはとても知的なものだと言うことでした。終始感じていたのは知性の産物だということでした。それは現代人の思考というものがもっぱら知性からのものに頼っているのと見事にシンクロしていたのです。そこに気づけたことが今回の音楽会の一番の贈り物です。

思考というのは、私の感じるところでは、知性を超えているものなのです。知性が思考を操ると、思考は知性が好む辻褄の合ったもの、論理的なもの、合理的なもの、証明できるものに陥ってしまいます。理屈にあっていることが思考の中心に居座ってしまうのです。思考はそんなつまらないものではなくて、もっと大きなところから力から力をもらって羽ばたいているものなので、辻褄が合わなくても良しと言えるものなのです。

思考は、想像力、直感、直覚から流れ込んでくるものから成り立っているものだと私は信じています。ですから辻褄というものや、証明という手続きに捉われないで、矛盾したものを含んでいて当然なのです。思考が辻褄合わせや証明することに囚われていたら、結果は明瞭です。窒息してしまいます。未来に向かって思考し始めるとそこには可能性というものの中でものが展開されてゆくことになります。未来は可能性ですから、未だわからない未知なるものであって、分かるということだけではなく、分からないこともそこには当然居場所があるのです。

今回、三っの現代音楽を聴いていて脳裏を掠めたのは次のようなイメージでした。もし大都会の全部の道路が行き止まりになってしまったら、というものでした。道路は次へ次へとつないでいるものなのに、どこかで行き止まりになってしまうと、向かう次が閉ざされてしまい立ち往生の状態になります。昨日聞いた音楽はまさに立ち往生状態でした。次に行く道が見つからないのです。ヒステリーになったり、落ち込んでしまったりの繰り返しで先が見えないのです。現代音楽が時代を反映しているものだとすれば、今思考が知性に振り回された結果、思考の道が行き止まりになっていることを警告しているのかもしれません。このままでは思考が危ない、窒息してしまう。思考を救わなければと身をもって音楽を通して言っているのかもしれません。ただ今は残念ながらまだ警告で終わっているようです。