2026年5月5日
久しぶりに日本の歌に伴奏をつけた楽譜集「ライアーで歌いましょう」のIとIIを開いて弾いてみました。旋律と伴奏に分かれているので、本来ならば二人以上て弾くものなのですが、旋律の方は自分で歌い伴奏の方をライアーで弾きながら楽しみました。
もちろんそれぞれの楽譜に添えて書かれている文章も読み返しました。二十年前のことなのですが、読んだり、弾いたりしてみると今でも新鮮で、自画自賛になってしまいますが、感慨深いものがありました。最初に出来上がった「海」の伴奏は何度弾いてもイメージのある伴奏でした。
一つ一つの楽譜にそのための文章を添えるというアイデアはライアーゼーレの社長の小沼喜嗣氏のアイデアでした。楽譜を見ているだけでは感じられないところまで言葉が導いてくれたと、楽譜集を手にされた方達から感謝のお手紙を何通も受け取りました。ライアーのための編曲というのは珍しいことでしたから、ヒントをもらうために色々な音楽を聞きました。そうしている時にさまどまな思いがよぎったのでした。その時のことなどを思い出しながら無我夢中で文章にしたものでしたが、出版してみると、とても好評で、寝る前に読んでいますなどという心温まる感想をいただいたこともあります。筑波でライアーの会をしたときに、絵を描く女性の方が「故郷」の伴奏からもらったインスピレーションで一枚の絵を描き上げられ、それを絵葉書にされたものをいただいたこともあります。「故郷」の伴奏でもう一つ嬉しい話があります。ある声楽家の歌曲の夕べで、アンコールに故郷が歌われたのですが、その時の伴奏の方が私のシューベルトの歌曲のゆうべのときに伴奏をしてくださった方で、そのアンコールに私の伴奏にピアノのために少し音を足して歌っていただいたということでした。とても歌いやすかったという後日談を聞かされました。最近いただいたお便りの中で嬉しかったのは、「月の砂漠」の伴奏に深く共感された方からのものです。私も大胆な伴奏だと思っていますが、その方は「ここまで奇抜な伴奏には今まで出会ったことがなかった」と私の伴奏の奇抜さをことのほか褒めてくださったのです。いつか綺麗に伴奏してみたいということでしたから、きっと今日も練習をされているのだと思います。
ピアノやオーケストラの伴奏からでは生まれない、寄り添うような伴奏をと考えて作ったものですから、ライアー人口が増えてゆけば、将来この伴奏の面白さを見つけてくれる人が出てくるのではないかと期待しています。
ライアーの音は人間の声に近いところがあります。弦が震えるところです。そのためライアーは伴奏楽器としても魅力のあるものだと思っています。この恵まれた条件がありながら、伴奏の時の音が小さすぎて歌い手の方にまで届かないというのがライアーのかかえる欠点です。音が聞こえる様にするために何人かで伴奏するというのも解決の方法ですが、複数のライアーの音合わせのところで労力を使い切ってしまいかねません。それと独創の時に聞かれる弦の震えが合奏になると別のものになってしまいました。個人的には伴奏は一人でする方が歌う人と呼吸を合わせやすいと思っています。ライアーで伴奏をする人たちが、しっかりと芯のある音を出せるようにすれば、音が小さくても聞こえるものなのです。今後のライアー演奏の課題の一つがここにもある様です。
2026年5月5日
シューベルトの舞曲について綴った後で、他の作曲家の舞曲も調べてみました。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、ドヴォルザーク、ブラームスといった人たちも舞曲を作曲しています。それぞれの特徴が出ていて短い素朴な曲ですが楽しめます。
ショパンが愛した舞曲はマズルカでした、ボーランドの民族舞踏としてポーランドの人たちによって大切にされているものです。ポロネーズやバラードなどもありますが、リズムの形態がそれらしく聞こえるもののすでに立派に器楽曲として確立された作品という印象です。マズルカはボーランド特有の哀愁が色濃く反映されているもので、後ろ髪を引かれるような物悲しい雰囲気を持つものが多くショパンの音楽全体を集約した様なところがあり、五年に一度開かれるショパンコンクールでは第一予選でみんなが弾かなければならない課題曲になっているということです。六十曲ほどのマズルカから一曲を選んで弾くのです。
ハイドンやモーツァルトやベートーヴェンにも舞曲はあります。
もし「神は細部に宿る」という諺をここで引用して良いのならな、神は舞曲に宿ると言いたくなります。最も簡単な曲想で語る舞曲を聞いてみると、その作曲家の一番力を抜いた、自然体で音楽に向かっている姿が窺えます。難易度から言えば初級から中級程度ですから、しばらくピアノを練習すれば誰にでも弾ける様になるのだと思いきや、その簡単そうに見えるるところに落とし穴が大きな口を開けています。易しいものを弾く時ほど演奏家の深い音楽性が露骨に見えてしまうものなのです。
ドイツのピアニスト、ギーゼキングはお客さんを招くのが好きでした。そんな席でお客さんにピアノを弾いてほしいと頼まれると必ずモーツァルトの一番易しいピアノ曲を弾いたのだそうです。それがいらっしゃった方みんなの心に等しく溶け込んで、場を和ませたということでした。
舞曲というのは簡単そうに見える短い曲ですが、作曲家は手を抜いていないので、そこには湧き出ずる泉の様な透明感があります。
幼い子どもたちが見せる音楽体験は実に新鮮です。音楽鑑賞ではなく、体での反応です。歌うことより前に体を動かし踊ります。子どもの踊りですから型はなく、思いのままの気ままな動きです。しかし音楽をしっかり呼吸していて、素朴とはいえ音楽と一糸乱れることのない調和があります。
そんな舞曲のいくつかをライアーのために編曲して弾いてみると、ライアーって本当に子どものような楽器なんだとつくづく思うのです。シンプルであればあるほど嬉しそうに素直に響く楽器です。
2026年5月4日
あまりにも立派なこと、意味がありそうなものは眉唾ですから、少し疑ってかかったほうがいいと思っています。
意味ありげ、というのは意味がありそうな雰囲気を醸し出しているということです。意味があるように見せ振る舞っているわけで、本物ならばそのまま放っておけばいいわけで、見せびらかしたり、ショウ的なことはしないで済むものなのです。
プロパガンダがうまく機能する心理構造は、意味ありげの方が本物よりも食いつきやすい民衆の心理をついているからで、巧みな味付けの方が興味をそそるからで、基本的にはフェイクという嘘と根っこを同じくしたものだと感じています。嘘というのは丸々嘘というのはなく少しは本当が混ざっているというところが曲者です。全くの悪人というのがいないのと同じです。私たちはそれを見分けなければならないというわけです。
なぜ今日こんなことをいうのかというと、最近YouTubeの動画配信をみていると、本当を感じることがないからなのです。どこかに誇張を感じる、意味ありげなものが多いのです。
昔からニュースや新聞で得たニュースはすぐに信じない様にしていました。知り合いに新聞記者がいたりしたので、新聞の世界に近くにいたためか新聞が書いている記事をどう読むのかを、小さい頃から教えられていたのかもしれません。記事がテーマにしていることより、そのテーマをどういう道筋で報告しているかを読める様にならないと、新聞を読んだことにはならないということだと、大人になってからわかったのでした。
テレビのニュースなどでも、しゃべっている人の声、使っている言葉、その時の表情の方が判断の基準としてはよっぽど正確なのです。その基準はそのままYouTubeの動画配信にも当てはまります。最近すっかり増えたAI音声は信憑性を裏付ける力がないので聞きません。声の中に息遣いがないものは信じるに値しないと思っています。特に大事なのはその口調にリスペクトがあるかどうかです。人をベタ褒めにしていたり、あるいは貶めるような言い方をしているニュースはほとんどが正しい観点から言葉を発していない証です。嘘と言ってしまうと言い過ぎかもしれませんが、ある程度は嘘です。怖いのはその嘘がニュースとして世の中に広まってしまうことです。メディアというのはしっかりした倫理観を持つものに飲み許された本当は高貴なもので、嘘をばら撒く様になれば政治的、社会的な洗脳の道具に成り下がってしまいかねません。
これから情報が複雑になって行く中、情報を選択す能力を磨かなければなりません。他人が教えてくれものではなく自分で磨く以外に方法がないのです。骨董をお仕事にしている人が、「いつも本物をみていれば偽物を見抜く力がそこで養えているものだ」という言い方が参考になると思います。本物にたくさん出会う機会を作ることです。嘘を見抜くと力むのではなく、本物を見つけ出すことに努力すべきなのかもしれません。
最近のニュース、動画の配信などを見ていて、つまらない世界に向かっているのではと感じてしまい、老婆心から独り言を言ってしまいました。