未熟な幼稚性と無邪気な童心

2024年4月27日

大人らしさと子どもらしさとは水と油のような不思議な関係です。

「幼い」とか、「まだ青二才だ」と言われるのは決して嬉しいことではないですが、無邪気で純粋ですねと言われると嬉しくなってしまいます。天国に近い存在のような気がしてきます。

私たちは成長して大人になるように仕向けられていると言っていいと思います。もちろん教育はしっかりとそこに加担しています。立派な社会人にならないといけないということで教育は行われている面もあるのです。

しかし宗教的には子どもであれ、童心を大切に、無邪気で純粋であれということになっています。大人の社会に汚れれないようにということです。そうしないと天国への道は遠いいということになっています。ところでいち早く大人にしようとしているのは誰なのでしょう。今の社会はこの見えない力に追いまくられているようです。

大人と子ども、大人になると子どものままでいるというのは、大変な駆け引きです。まるで綱引きのようです。軍配はどちらにあげたらいいのでしょうか。

 

もう一つ別のタイプがあります。学者として専門分野のスペシャリストとして右に出る者がいないほど突出しているのに、幼稚で、行動全般が大人気ないというタイプです。

インファントという名前のついた症状があります。幼稚症とでも訳したらいいのでしょうか。私は一時期色々な方面の学士の方々と頻繁にお付き合いがありました。立派な博士論文を書き上げた専門家の人たちです。しかし付き合っている時にいつも感じていたのは、この人たち何かが育っていないということでした。一番顕著なのが普通でないということで、いわゆる常識というものが全く理解されていないのです。常に周りと摩擦が起きているのになぜ摩擦が生じてしまうのかは全く理解されていなかったようです。ほとんどの原因は実は些細なことだったのですが。

常識を極度にわきまえて生活している人と付き合うのも疲れるものです。決して間違いを犯してはいけないのです。適度に度を外してくれないと、窮屈になって呼吸ができなくなってしまいます。こうした常識派も偏った人たちです。やはり一種のインファントと言えると思います。

 

どちらも子どもらしさを持ち合わせていない人たちです。同時に大人らしさも持たない人たちです。子どもの時に子どもでいられなかった人たちの末路と言ったらかわいそうですが、実際にはそんな気がします。子どもの時に子どもでいられるというのは最大の贅沢のような気がします。今は子どもの社会の中に大人社会がしっかりと組み込まれているのです。

 

 

 

 

倫理はどこにあって、どこからくるのか

2024年4月26日

最近は倫理のことが気になっていますから、文章にして留めておきたいので書かせていただきます。お付き合いください。

倫理を持っている人とはいいません。

倫理観という言い方をして、倫理観に欠けている人などといいます。倫理観に満ちている人というのもおかしいです。

倫理とは何かというと、私は善と悪をおにぎりのように一つにまとめたものだと思っています。生々しい善と悪とか行き交うところです。

説教などで素晴らしいことだけを朗々と説いている人がいますが、倫理に適った話ではないのです。それは質の悪い説教話に過ぎません。もちろん悪への勧めのようなものは論外です。

倫理というと善に近いもののように捉えるのが常ですが、倫理を実践するとなると、善行ばかりでは優等生のようなもので退屈極まりなく、悪の味も知っている懐の深い人でないとできません。倫理は貧富とも関係なく、知的能力とも関係なく、才能のあるなしにも関係なく、いい人でもいいし悪い人でもいいしと、なににも依存していない自由なものです。

倫理が欠けてくると、善と悪の間の行き来が滞ってしまうと教条的になって、ドグマの世界になります。原理主義といいます。そういう人は顔が引き攣っています。懐の深い人は柔和な表情の持ち主です。そうすると倫理とは柔軟性ということでもあるようです。善と悪を思いのままに操れる人ということです。

一つの政治思想に取り憑かれてしまうと表情にすぐ現れ、それは次第に人相にまでなってゆきます。どの宗教、どの政治思想でもいいのですが、そこにどっぷり浸っている人たちには「こわばった顔立ち」という共通性が見られます。

倫理はユーモアの別名ではないかという気がしてきました。

 

一般人間学と倫理のこと

2024年4月25日

一般人間学を読む度にシュタイナーが開口一番倫理のことを持ち出すのにびっくりします。二週間にわたる連続講演の最初に、倫理のことを持ってきたのですから思うところがあったはずです。

シュタイナーの哲学書として読まれ続けている「自由の哲学」のなかで、一箇所倫理的ファンタジーと題されたところがあります。ところが、そこで深く倫理の問題を論じているのかというとそんなことはないのです。自由の哲学では、の他の箇所でも倫理についてはほとんど触れずにいたと思います。

ところが学校を作ろうと集まった人たちを前にして、シュタイナーは倫理のことから話し始めたのです。しかも倫理が霊の世界と私たちを結ぶものだと暗示しながらです。それを読む現代の私たちは、若い世代の人たちとの読書会の時の経験からすると、どうも倫理を持て余しているようなのです。私たちの時代はなるべく倫理について語らないように教育されているのでしょうか。

倫理については一番自由に話したいと願っていますが、倫理は必ずと言っていいほど既製の宗教と結びつけられてしまいます。ある宗教の持つ宗教観の中で倫理が語られるこのです。しかも宗教そのものがタブーのような社会的な風潮では、倫理は居場所がないとが多いようです。

倫理を自由に語るには、非倫理的な問題も含めて語ることが求められます。倫理は善悪と関係していますから、一面的に善サイドから倫理を語るとみんな善人のふりをしそうな気がします。非倫理的であること、つまり悪いことをも認めないと倫理の意味を深く理解することはできないのです。

絶対善も絶対悪もないのです。倫理というのはその間のグレーゾーン全体のことだと思います。限りなく白に近いグレーか限りなく黒に使いグレーかということです。善と悪の間を力強いフットワークで行き来できる内面の力が倫理に近づくためのセンスを与えてくれるのです。倫理を語るには博学である必要はなくただセンスが必要なだけなのです。