2025年5月8日
AIにお伺いを立てることは今や常識になっています。それが有効な手段であることはいろいろな分野で証明されているわけです。膨大な経験値は一人の人間の経験を遥かに超えたものなので、情報量からすれば一人の人間が太刀打ちできるものではないのです。
しかしそのAIにできないことというのもあるはずだと考えていて思いついたのが、恋文、つまりラブレターです。
最近は出会いのアプリケーション、マッチングアプリというものでパートナー探しをする人が増えています。私の周りにも何組がのカップルがそのアプリで知り合ってめでたく結婚というゴールにたどり着いています。私の周りを見る限りでは、それらのカップルはみんな幸せになっているようですから、さがAIの情報処理の能力の高さが窺い知れます。
私の母方の祖父母はお仲人さんをよくしていたと母からよく聞貸されていました。母に言わせると、縁を結び付ける才能があったということですが、結婚にまでたどり着くのは、好き嫌い、惚れた腫れたの恋愛とは違って、絆のような縁によって結ばれていると感じることが多いです。最近は、日本だけでなく世界共通の現象として、若い人が結婚しない傾向にあるようです。となると老婆心から恋愛の方も消極的なのかと心配になります。若い人には「命みじかし、恋せよ少女」ではないですがたくさん恋をして欲しいものです。
昔は恋を打ち明けるのに手紙を書いたのです。ラブレターというのは恋に落ちてしまった人が、そのお相手さんに向けて、思いのうちを情熱的に綴る手紙です。いろいろな手紙がありますが、人生で一番思い出に残る手紙かもしれません。今のご時世からすると、きつとラブレターなんかも書かないで人生を終わってしまう人が増えているのかもしれません。しかし人を恋するということが時代によって増えたり減ったりするというのは考えに食いものです。そんな中でも、ふと恋に落ちてしまったら、手紙にこだわらずにメールでもいいのですが、思いを文章にして綴ろうと思ったりするわけです。しかし手紙も書き慣れていないわけですから、恋に落ちたからといって突然文章が書けるようになるわけではないので、悩んでしまいます。そこで助っ人にAIが登場するのでしょうが、果たしてAIにラブレターなるものが書けるのかどうかは難しいところです。それでもこちらからこのように書いて欲しいという希望をはっきり示せばなんとかやってくれそうな気がするのですが、その文章をお相手さんが読んで、どう感じるのかは、私には想像がつかない世界です。
ラブレターは一般論ではダメなわけです。「あなたのような方はきつとたくさんの人から好かれていらっしゃるのでしようね」、なんて書かれてもお相手さんは嬉しくもなんともないはずです。恋に落ちてしまった一人の人と、好かれてしまった人との初めての、そしてもしかしたら最初で最後の手紙かもしれないのですから、極めて主観的な面を打ち出し「あなたは私の太陽だ」的な大袈裟なことを恥じらいを含めて堂々と書くのがラブレターのはずです。
私は一度しかラブレターを書いたことがない上、その恋は実らなかったですから、ラブレターの失敗作しか書いていないということになり、偉そうなことは言えないのですが、これからラブレターを描こうと思っていらしゃる方にはぜひ成功作を書いて欲しいと物だと願っています。ですから、AIにどのようなラブレターにしたいのかの意向を、詳しく具体的に伝えられないとダメなわけですから、しっかりと自分の気持ちを整理して、しかも相手がどのような受け取り方をする人なのかも、わかる範囲で伝えれば、とりあえずはラブレターにはなると思います。
私はラブレターをもらったことがないので、ライブレターの効用というのか威力に関してはよくは理解していませんから、ただ正直な思いを伝えることを努力すればいいラプレターになるようになると素朴に感じています。
さて実践的にということで、練習のために、まずは自分に向けてのラブレターをAIに作ってもらってはいかがでしょうか。自分だったらこんなラブレターが欲しいとAIに伝えて、架空のお相手さんに、自分向けてのラブレターをAIに書いてもらうのです。それを自分で読んでグッとくるような気迫を感じるようでしたら、相手に向かって書くラブレターも成功率は相当高いと思っていいと思います。
ただやはりラブレターはAIの苦手な分野ではないかと想像します。情報量がほとんど役に立たないからです。加えて徹頭徹尾個人レベルの話ですから、主観で始まり主観で終わるようなラブレターはもしかしたら人間にしか描けないものかもしれません。恋は盲目なのですから、AIのように覚めた世界には恋などという愚かな仕業は存在しないのです。
Aしお手本として参考にできるようなラブレターはたくさん書けるかもしれませんが、一人の人のハートを射るような名句が作れるものかとなると、苦戦を強いられそうで相当難しいのではないかと想像します。ただそういうものを集め、パターン化して、ラブレターの書き方のような本を作れば商売になるかもしれません。
ラブレターとAIの組み合わせはよくない組み合わせのような気がしてならないのです。
2025年5月7日
音楽の音というのは特別な音で、自然界に存在する音とは違うものだと思っています。
一番の違いは、演奏する音が、演奏者の命の中で一度死んでいるということです。死というプロセスを通って蘇った音のことを、私は音楽の音とだと考えています。
この音に気づいている人は多くないのですが、音楽をする上でこの音は演奏する人の無意識の中で憧れなのです。本当の音、生きた音というのはただ楽器を弾いただけでは生まれないものです。名器と言われている、優れた楽器を弾けばいい音が出るのは当然ですが、それだからといって、それだけで生きた音にはならないものなのです。かえって優れた楽器に振り回されて、その楽器を弾くことが大切なことになってしまうと、音楽は退屈なものになってしまいます。まさに「弘法筆を選ばず」が書の世界だけではなく音楽の世界にも言えるのです。もちろんいい音のする楽器で演奏することは演奏者にとっての楽しみではあるのでしょうが、しかもそれが名のある名器であったりすると、それが自慢の材料になりますから、なんの楽器を使っていますと人に知ってもらいたくなるのでしょうが、それては本末転倒です。ちなみに私の今までの感触では、名のある名器は音が鳴りすぎるのでどちらかと言うと苦手です。
有名な弦楽器て演奏されたものでも心に残るものはあります。心に残るようなものは、チェロのエマヌエル・フォイアマンとヴァイオリンのダヴィット・オイストラフの二人です。楽器に負けていないところが素晴らしいと思います。彼らの存在が伝わって来る演奏で音がとても透明です。よく鳴る名器で演奏する時ですら音を一度死のプロセスから蘇らせ、彼ら自身の音に生まれ変わっているのです。実際に名器を演奏する人たちは、楽器の音に魅せられているのでしょうが、そこで終わってしまってはいい楽器で演奏したとしても、普通の音楽になってしまいます。それでは生きた音楽からは遠いいのです。
私事で恐縮なのですが、私の使っている楽器は1960年に作られたアルトライアーです。知り合いのライアー弾きたちがこのライアーを弾くといつも「こんなに鳴らない楽器なんですか」という感想を漏らします。私はこの楽器が鳴らないところが好きなので、お褒めの言葉をいただいたような気になっています。ところがおかしなことに初めてライアーを録音してリリースした時には「エコーが入っている音」と言われるほどよく響いていたのです。普通に言うと鳴らない楽器のはずなのに、録音で聴く音はそんなことを全く感じさせない、むしろエコーを入れて増幅しているとまで言われてしまうものだったのです。エコーを入れた音はボエけてしまうので、聴く人が聞けばその違いは一目瞭然だったので、その後はそういう人はいなくなりました。
音は一度死のプロセスを達と別の次元のものに変わるのだと思っています。よく鳴らない楽器だからこそ、かえって弾き方を工夫する必要が生まれたとも言えます。実はこのライアーは二代目なのです。最初の楽器も年代もので、同じくらい鳴りの悪い楽器でした。しかし弾き方で音は変わるもので、その鳴らない楽器で録音できたのは幸いでした。この楽器は事情で手放してしまってからは、弾き手が変わって音が変わってしまいました。その後鳴らない楽器をしばらく探して、運よく見つけました。知り合いにスポンサーになってもらえて、ゲットできた時の喜びは今でも忘れられません。実に鳴らない、しようもない楽器なのですが、私の弾き方によく馴染んでくれる楽器です。私にとっては正真正銘の名器です。
日本に滞在している間は、いろいろな楽器を好意で使わせていただくのですが、やはり最初は思い通りの音が出ないので、弾き込みます。しばらく弾いていると音が変わってきて私の弾き方に楽器の方で合わせてくれるようです。そしてよく鳴らないように弾くのですが、これがかえって聞き手の心に届くようなのです。貸していただく楽器の多くがよくなりすぎるので、それが大きな悩みです。
よくライアーをヒーリングの楽器というふうに紹介される方がいますが、私は、ヒーリングの本筋は楽器にあるのではないと考えています。どんな楽器でもそこから生まれる音がヒーリングの効果を持つかどうかなので、弾き手がヒーリングの世界を作り出せるかどうかだと思います。繰り返しますが「弘法筆を選ばず」です。医療でも最新の機械や特効薬を使えばヒーリングとみなされることがないようなものです。一人の医師が治せるかどうかなのと同じだと考えています。赤髭のような医者がたくさんの人を救ったりするような感じです。
手当てというのはなかなか意味深い言い方です。万国共通の言い方のようで、掌の中に何か力が宿っていると感じているのでしょう。音楽の演奏というのは想像以上に体全部を使っているものなのですが、究極的には手が最後の決め手になるのです。手のひらや、指先に心が宿るかどうかなのではないか、そう思います。一人の人間の心とか存在が指先にたどり着くまでに死のプロセスを通っているのかもしれません。
2025年5月1日
一人の人を突然好きになってしまったという経験は多くの方がお持ちだと思います。人に限らずものの時にもよくあることです。無性に気に入ってしまい使用どう外をしてしまうようなことです。
人だとすると、そのお相手さんは探し出して見つけた人ではなく、また人に紹介された人というのでもなく、全く突然に他人が集まる集団の中から、一人だけ浮き上がって目の前に現れて来るのです。向こうからやってきたというのが適切な言い方です。こんなことが起こってしまうのです。
自分で懸命に探してようやく見つけた時でも、もしかすると向こうからやってきていたのかもしれないと私は感じることがあります。
今までにたくさん講演をしました。そんな中で一度もやったことがないのが講演のために原稿に書いておくという準備です。もちろん準備はするのですが、その準備はない日の生活の中にあるので、本で読んだりすることが公園の準備ではないのです。私には変な癖があって、もし講演の準備を文章でまとめていたとすると、講演ではそのことを話さなくなってしまいます。もう準備の段階で終わっているというのか燃焼し尽くしてしまっているので、今更そのことを血用州の皆さんに話す必要なんかないと考えてしまうのです。
講演もその時は話す内容は向こうからやってきます。講演のテーマはあらかじめ出されているものですが、テーマにフォーカした話をしたとすると、ほんのわずの時間で終わってしまいます。自分予め、これとこれを話そうと決めた話です。情報的な話は短く済ませることができます。本からの引用をたくさんして、箇条書き的にまとめたものを読み上げるのならせいぜい5分とかからないかもしれません。
講演というのは、特に私がしたい講演はそうした情報収集のためにするものではなく(そういう講演もありますが)、話を聞く楽しみが中心です。話をするというのは問題の確信に回り回って辿り着くというのが醍醐味なわけで、5分の話などは後に何も残らないものです。インスタントラーメンやカップラーメンに熱いお湯をかけて3分待って夕食を済ませるようなものかもしれません。
話をしているうちに向こうのほうが私の気持ちをだんだんわかってきて、話を作っていってくれます。私としてやる子はなんなのかというと、話の邪魔をしないことです。実は自分で話をしているのですが、自分でもしっかり自分のなすしていることには耳を傾けているのです。私がこうした体験を重ねているときに、音楽の聴き方が変わってきました。演奏している人が楽譜通り弾いているだけか、自分でも自分の弾いている音を聞いているのかのの違いがわかるようになったのです。もちろんどちらも楽譜はしっかり頭に入っているのですが、「私が弾いています」という姿勢から「私通して向こうからくる力に任せ音が流れています」という感じです。向こう任せという言い方は小説家の泉鏡花がよく使っていたものです。あらすじと登場人物が決まったら、あとは向こう任せで書く、と言う風に、小説のできるプロセスを話していました。
私も及ばずながら、講演は向こう任せでやっています。無責任なように受け止める方もいらっしゃるかもしれませんが、私の経験からすると、そのように話した方が深い話ができるものなのです。深いと言うよりもよくまとまった講演になると言うことかもしれません。自分で考えたことをまとめようと話をしていると。話というのは兎角ずれることのあるものですから、どこかで辻褄が合わなくなったりしてしまうものなのです。
向こうがなんなのか、よく考えるのですがね今もってなんだかわかっていません。私の潜在意識のようなものなのかもしれませんし、血用州の中にある雌雄段位式のようなものが私から話を引き出しているのかもしれなと考えるのですが、わかりません。そうした経験が重なると、自分で意識していることが本当にわずかなことだと気付かされます。
とにかく私たちの体というのは私たちが意識しなくても働いている無意識の、潜在意識の塊です。どんなに感謝しても足りないくらいです。講演を良くするためには体づくりはとても大きな準備です。一冊の本を読んで知識を集めるより、心地よい運動で体をほぐしながら体力づくりをする方が、実のある準備と言えます。
体が喋っているので、頭が喋っているのではないというのか、今までの講演を振り返って言えることです。体に任せると、向こうからやってきます。ローマの格言が言うように「健全な精神は健全な肉体にゆどる」そのままです。
講演を自分の健康と置き換えてみると、頭で健康を管理している人のように健康管理はできないのです。そもそも怠け者で飽きっぽい方でから、頭で決めても体が続けてくれないのです。かえって体が欲しているものを体に取り入れてあげいる方が、頭で無理やり整理するより自然ですし、何よりも体と対話している感触があって、かえって体にいいことをしているような気がしています。やはり向こう任せのようです。
頭で考えたことはこっち任せということですから、結局はエゴを大分しているようものなのでしょう。私のエゴの押し付けと言うことです。
自分の体に恋をするのが一番手っ取り早いようです。