2026年9月15日
前回北海道と、東京の講演とワークショップとライアー演奏のお知らせをいたしました。早速、遠くから、近くからと色々な方からお申し込みがあったようです。
まだもう少し余裕がありますので、お知り合いの方に声かけをしていただけると嬉しいです。
今回お知らせするのは、さらに広島の江田島市の沖美町の「おき交流の家」にて講演会とライアー演奏の会のお知らせです。実はここでのお花とライアー演奏は既に恒例となっているもので、広島の星ビルでの講演会を引き継いだ形で十年以上も定期的に行ってきたものです。
前回も多彩な参加者で楽しい会になりました。今回はもっと多くの方に来ていただいて、私の話とライアー演奏に耳を傾けていただきたいと思っています。
広島市内とは違って、フェリーを使うことになりますが、会場の景色の素晴らしさは、一度体験すると忘れられない思い出になるほどのものです。澄み切った空気の下で聞くライアーは、一層の透明感に溢れたものになると確信しています。
ぜひ足を運んで土曜日の午後のひと時をゆっくりと、私の声とライアーの音にデドックスしていただけたらと願っています。
是非お誘い合わせの上ご参加ください。
連絡先は hosinoouchi@gmail.com
2026年9月14日
人前で演奏しているときは練習の時と違って後戻りできない状況を抱え込んでいるわけです。そこで役に立つのは繰り返された練習であることはもちろんなのですが、練習の成果が必ずしも本番で出てくるというものでもないことも事実です。繰り返された練習は本番を支えてくれはしますが、練習と本番は根本が全く違う、別の次元のものなのです。
もしあるピアニストがピアノが大好きで毎日何度間もピアノに向かって練習に励んでいるとします。その人は今まで一度もコンサートのようなことをしたことがないとします。いつも自分の技術を磨くために練習しているのです。もちろん練習の成果はあるのでしょう、必ずや上手になっているはずです。しかしそれを確かめる手段は、一人でこもって練習している限り現れません。
私はある時、友人の娘さんに助言をしてみました。娘さんはピアノを弾くことが大好きでいつも一人で黙々と練習をしている人だったのです。一度人前で弾いてみてはいかがですか。ホームコンサートにようなものをするように働きかけてみたのです。答えは予想通りでした。人前で弾くほどの腕前ではないというのです。
それからしばらくが経ったある日、面と向かって、そう思っていらっしゃるだけですよ、私の耳には、あなたの演奏は聞いてくださる方を感動させるものがあるので、一人で弾いているだけでは勿体無いとお伝えしました。お相撲さんも、毎日四股を踏んで稽古しているだけでは強くならないもので、土俵に上がって、勝ったり負けたりしながら相手と相撲を取ることで強くなってゆくものなのですと、とんでもない譬え話を付け加えました。しばらく私の話をじっと聞いていて、何かを感じられたようで、少し考えさせてくださいと言ってその日はお別れしました。
その後久しぶりにお会いした娘さんは、別人のようになられていました。ご縁をいただていて公の場で演奏する機会が舞い込んで、勇気を出して引き受けて、生まれて初めて人前で弾いたというのです。
それで、どうでしたかと聞くと、嬉しそうに、練習と本番がこんなに違うものとは想像もしていなかった。練習の時は間違えるとそこで止めてもう一度引き直すことができるのに、本番ではそのまま前に向かって弾き続けなければならなくて、それで演奏が終わってから、その間違った場所を聞いていた人から指摘されるのかと思ったら、聞いていた人は間違ったことなどには全然気づいていなかったようでそのことには触れず、よかった、綺麗だった、心がこもっていたと、想像していなかったような言葉を私に向かって言ってくれたというのです。
やってよかったんですね、と聞くと顔を赤らめてうなづいていらっしゃいました。
練習は積み重ねだけれど、本番の時は練習してきたことなどすっかり忘れてしまっていて、音楽は向こうからやってくるようだったというのです。
おめでとう。よかったですねと言って、次に人前で弾く時には声を掛けてくださいとお願いして別れました。
2026年9月11日
小さく聞こえるのに、力強い音というのがあります。矛盾しているようでそうではないのです。これは物理的現象としての音を超えた音のことで、測定しても小さな音としての結果しか出ません。
小さい音でも遠くまでよく聞こえる音は実は特殊な音で、音楽の世界独特のものなのです。なぜ音楽に使われる音に限ってだけこうしたことが起こるのでしょう。
音楽をするときの音は雑音と区別されるものです。どちらも人間によって作られている音ですが、はっきり区別できるほど違う音なのです。
もちろんいくつかの例外があります。年季の入った大工さんがノコギリを引いている時とか、金槌で釘を打つ音は、普通の雑音ではなく音楽の音に使いものがあります。ど素人が同じことをやった時には耳障りでうるさいものです。何が違うかというと、意識です。ただどちらかといえば無意識の領域の意識です。意識して上手にノコギリを使おうとしてもできるものではなく、金槌にしても同じです。意識しないでノコギリを手にして引いているときの音はさながら音楽の音のようです。植木屋さんの鋏で刈り入れ流おとや美容師さんのチョキチョキというハサミの軽やかな音もです。
逆のことも言えて、音楽で生半可な音を出しているときは煩い音です。一応楽譜通りに弾いてはいても、音楽の音としては十分ではないのです。
ここに人間の意識の働きがどんなものなのかを感じます。もちろんこの意識はほとんど無意識まで深まった意識です。
一つの作品を人前で演奏できるようになるまで、ある程度弾けるようになってから百回は少なくとも弾き込まないとダメだということです。ほとんど考えずに演奏できるようになって初めて人の心に届く演奏ができるものだからです。
ドイツ語で講演をしているときに、日本語との違いをいつも感じていました。確かに意味としては頑張ってドイツ語で話せるようになっているのですが、どうも日本語で講演をしている時の軽みのようなものがなく、これが外国語での限界かと感じながら講演していました。日本語は考えずに公園がて切るのです。そして正しいとは言えない日本語でも相手に伝わってしまうのです。録音された自分講演を聞くと、こんな日本語でお客さんは理解していたのだろうかと滅入ってしまうことがあります。ところから参加者に聞くとよくわかったというのですから、狐につままれたようなのです。
自分が生まれた時から使っている言葉というのは正しく話さなければならないなんて考えないで済むありがたい言葉なのです。