2025年3月13日
嘘のことをテーマに話をするといろいろなことが出てきて飽きないものです。先日も夜遅くまで話し込んでしまいました。
そこで気がついたのは、真実と嘘は対立するものではないということでした。真実というのは特殊なものだということです。特殊というのは原初的と言うことです。
老子の道徳経の中の「一」のようなものです。一は一番大きな数字となります。
分数にするとわかりやすいものです。一は1分のI、二は2分の1のことで三は3分の1という具合です。一億は数字は大きいですが、1億分の1です。
真実は1分の1ですから、分けようがない孤高なものです。老子の言葉を借りると「真実は真水の如し」「無味の味」のようなものです。
嘘は二つに分かれて2分の1と2分の1です。真実が二つに分かれたのです。
先ほどの話の中で、小説は嘘だろうか、それとも真実だろうか、ということになって、私は小説は「嘘から出た誠」「嘘も方便」で、嘘素出鱈目の嘘は、いつまで経っても嘘のままの嘘と言っておきました。
嘘には明暗のうちの明である小説的な嘘と、明暗のうちの暗である嘘でしかない嘘があるということです。
ということで、嘘は「嘘と真実」と西洋的二元論で対比させるのではなく、二つの嘘を明暗と並べるとよく見えてくるものだと私は考えています。
小説の嘘は光と闇のから生まれる光の中の色があって、その色は混ざることによって無数の可能性を秘めています。実に心地の良い嘘です。いつまでもその嘘の中に、嘘の人物たちと一緒にいたいと思わせるものです。
騙す嘘は闇の中ですから薄暗くじめじめてしていて、居心地が悪いところです。
ということで、いい嘘はこれからも沢山ついていこうと決めたところです。
2025年3月9日
感覚は間違わない、しかし判断のところで間違いが生じる、とゲーテは考えていました。そのことを納得した時、彼の目には何が見えていて、そこから判断に至るまでの過程をどういうものと見えていたのかと興味が湧いてきました。
それまでは感覚と判断とは一つのものと見做していたことに愕然としたのです。最近の脳の研究によると、判断というのはほとんど先入観のようなものだと言われているようで、ゲーテの先見の明には驚かされます。
私たちは何を見ているのかではなく、何を信じ込まされているのかという存在のようです。つまり先入観の塊だということです。
人の話を聞いている時にも話半分でもう結論を導き出しているということにも通じるものです。結局人の話を聞いていても、自分が聞きたいところだけを聞いているということです。自分の都合というものが世の中には満ち満ちているのでしょう。
先入観をぶち壊すことから始めなければ何も始まらないということのようです。
先入観がどのように作られてゆくのかは研究の価値のある仕事だと思いますが、相当の部分が無意識の中で形成されているはずなので、研究と言っても想像するしかないもので終わる可能性が大きいでしょう。それよりも、どうやったらぶち壊せるのかに努力する方が実りが大きいと考えます。
制度となってしまったものもよく似ています。新しいものに取り組むとき、そこに大手を広げて行く手を塞いでいるのは「前例がない」という目上の人たちの薹(とう)のたった基本姿勢です。あるいは「旧態を維持するための執拗な執着」は徒党を組んで進んでいるので、少人数の小さな力がそれに立ち向かうことは必死の覚悟が必要になります。政治の中で働く利権の渦は途轍もない力でスカラ、大潮の時の鳴門の渦潮くらいはあると思われるほどの規模です。
一朝一夕には壊せないものですが、制度には必ず内部から崩壊するという盲点があるので、そこに委ねるのも一つのあり方ですが、もう一つは教育を変えることです。教育が現行の制度のための人材を育てることに力を注ぐのではなく、その制度を壊す勇気を育てるようになれば、社会の舵取りはゆっくりですが変化が生まれるものです。社会全体にその機運が生まれることが望ましいのです。
個人の問題としては、先入観は時間をかけて作られてきたものですし、その形成プロセスは無意識の中にあるので、そこに手を入れても混乱をもたらすだけで、解決にはならないので、形成に費やされた時間と同じくらいの時間をかけて崩してゆくことしか方法としてはないようです。
自分という意識も潜在的に作られてゆくので、自分を変えようとしている人は、その潜在的な自分に立ち向かうことが難しいので、自分一人の力では成就しないものだと思います。自分形成が外からの働きかけでなされたので、新しい自分形成もやはり外からの力が必要だといえると思います。
今まで関わってこなかった知らないことに自分を向かわせることが良策です。価値観を変えることが肝心なので、詰まらないことだと思ってたようなものも効果的です。
価値観が変わると、感じ方まで変わってきます。感覚を通して感じていることに素直になれるということかもしれません。そうなると判断は必要なくなってしまうような気がします。他人をコメントすることも無意味に見えてくるかもしれません。
2025年3月9日
謎の画家バンクシーは日本でも関心を持っている人がいる、路上芸術家です。アートと呼ばれるものはなんでもやるんので、焦点が合わせられない人です。
今ドイツのミュンヘンで「バークシーの家」と題された展示会が催されています。知ったのが遅かったので終わってしまったと思っていたら一ヶ月延長されたと聞いて行ってきました。
その展示会について書こうとしているのですが、うまく筆が進みません。描くことがないのではなく、私が何か書いてもしょうがないのです。書かれなくてもいいのです。つまらないことを書いたら作品が台無しになってしまうような感じです。
多くの作品が壁に絵を描くというものです。風刺的な題材が多いです。しかしどんな作風にも属さないので超題材的です。シュール題材です。何が書かれているのかわからないことが結構あります。それでも絵から何かを感じます。
そうしたえを何枚か見てふと気がついたのは、彼の絵は俳句みたいだということでした。俳句が良くなればなるほど現実から離れ、一番現実的に穿っているという素晴らしいところです。わかったりわからなかっり矛盾も甚だしいのですが、魅力満載です。春休みで子どもが目立ちました。大人よりも却って直接作品を感じているようでした。横でつまらない解釈を大人がしている方が滑稽でした。
書かれたものの中で一番多いのが風刺ですが、風刺画というようなジャンルには属さないものです。政治的な風刺なのですが、そこにはユーモアがあり、政治を超えているので素直に絵の世界に入ってゆけます。
不思議な愛情がバークシーが多くの人に愛される所以です。
競売で30億円に迫り上がったものもあります。ユニークなのはそのお金のゆくへです。彼は金儲けで絵を描いているのではないので、絵やオブジェが売れた時のお金はみんな寄付です。
彼の絵からは今まで知らないインスピレーションがもらえます。結論が認められていない分、どんなふうに絵を見てもいいのですが、きっと見た人たちは似たような印象、インスピレーションをもらっているようです。
見にきている人たちは、教養として芸術作品を求めて足を運んだ人ではなく、奇抜な人もいなくてごくごく普通でした。子どもの顔を見ていると、多分彼らが一番よく理解していたのではないかと思ってしまいます。