直感というのは鈍感なことでもあります

2026年5月3日

直感が大切とは繰り返し言っているので十分承知されていることとは思うのですが、では実際に直感とはどこにあって、どういうものなのかと改めて問いただすと、よくわからないと言わざるを得ない曖昧なところがあります。
そこで直感を見直してみようと思うのです。
考えるとか、思考するとか論理的に順序立てて物事を整理するのとは別に、私たちはもう一つの方法を持っているということです。想像力もその一つです。英語ではイマジネーションと言います。他には着想とかひらめきというのもあります。インスピレーションです。さらに進んで霊的、精神的な意味合いが加わってくると直覚です。英語ではイントゥイションとなります。一般的にはこの最後の直角が直感というふうに考えられています。
今日問題にしている直感は思考力とは違うことは明らかです。思考は客観的なもので直感は根拠のない主観的なものだからです。思考の世界で生きている自然科学の人たちは、論理的であることを求めているので、この直感を相手にしていない人が多いです。ところがいわゆる天才的な、時代の常識を超えたような発想で科学を切り拓いて行った人たちをみてみると、順序だった思考の世界から新しい発見をするのではなく、イメージや閃きという道を通っていることが多いのです。思考が階段を一段一段登ってゆくのだとすると、直感の世界は階段を何段も飛び越えて登ってゆく様なものです。あるいは階段など使わずに恐るべきジャプ力でいっぺんに飛び上がってしまう様なものです。直感の世界に共通しているのは、主観的という側面です。そのため根拠がないと言われてしまいます。そんな根拠のないことを学問の世界に持ち込まないでほしいという具合にです。しかし根拠というのは、一般常識であったりするのでそこに囚われていることも、一つの弊害とも言えるのです。
歴史の中かで思考が最高のものとされていた時は「われ思う故に我あり」と言われ、思考され知的に物事を処理することが望まれ、そこに秀でた人が優秀な人、頭のいい人と言われたものでした。その傾向はつい最近まで続いていました。今は、あるいはこれからは必ずしもそうではなくなって行くのではないかという予感がします。
そこで直感の時代ということになるのですが、直感というのは実に曖昧なもので、根拠がなく、それぞれが言いたい放題を言うという主観の世界なわけですから、混沌とした世界にもなりかねないのです。そこで直感を審査しなければならなくなってきます。それはどのように行ったらいいのでしょうか。

人間の誠実さが問われるのです。誠実であることは単なる人間としての美徳という以上に、倫理的、道徳的に人間性の豊かさ強さ、むしろ人間の能力と評価されるべものなのです。どこかに打算があったり、エゴのために利用しようとする下心があると誠実さとは違う方向に行ってしまいます。日本語の無心、無我です。自分を解放するという意味では鈍感になるとも言えるものではないかと思います。無関心からの鈍感ではなく、自分を全開にすることからの鈍感です。鈍感は悪い意味で使われる言葉ですが、童心にも通じ、子どもの心にならなければ天国にはゆけないということにも通じるものです。
自分自身に対して誠実なれるのか、誠実であり続けられるというのは高い精神的修行の賜物です。人前で誠実さを繕うのは簡単にできますが、自分自身に向かって誠実であり続けられるということになると、並大抵の努力では獲得できない芯の強い精神性が問われます。エゴな自分ではなく、透明な自分に直感は宿るということです。
自我と自分というのをわけないといけません。自我いうのはエゴを克服したところにあるものです。エゴな自分も同じように自分ということなのですが、エゴの自分と透明な自分、つまり自我との間には越えるのが容易でない深い溝のようなものが横たわっているのです。
自分を無職透明にして行くことに尽きる様です。
直感が単なる根拠のない主観的な思いつきで終わるのか、そこに人類的な力となるものが宿るのかは意識の持ち方で変わります。意識の持ちからたを変えることで、同じ自分が180度違った方向を向く様になるものです。
直感というのは、肉体が筋肉のトレーニングをすることで優秀な肉体になるように、自分というものに対して意識的に働きかける訓練をする事で鍛えられるとも言えますが、筋肉隆々とした自分というのとは違い、透明度が増すことで、ますます透明な自分に作り替えるのです。もちろん意識過剰はダメで、そこでもやはり鈍感なということが言えそうです。

ウィーンは踊る

2026年5月1日

ウィーンは踊ると初めて聞いた時、すぐにヨハン・シュトラウスの有名な幾つかのワルツを思い浮かべたものでした。青き美しきドナウの様なものです。その後色々と音楽と親しんで行くと多くの作曲家によって様々な舞曲が作られていることを知り、舞曲というのは西洋の音楽の中心的な存在だったのだと知ることになります。
西洋音楽の枠を超えて世界の音楽に目を向けると、そこで音楽が踊るということに深く結びついていること、しかも踊りが俗な世界から神聖な世界までを包括したものだという事実に出会います。人間の営みの中で一番根本に位置しているのか踊るという行為だったのです。
ハワイのフラダンス、ジャワのガメランに合わせての踊り、フラメンコ、ギリシャの神殿に奉納する踊り、日本の神々に奉納する雅なる踊り。まだまだ数え切れないほどの踊りが聖俗を含め地球上には数多く存在します。特に時代を遡ると音楽と踊りは切っても切れない関係にあったものだとわかります。
驚かれるかもしれませんが、今日の合唱は、そもそも輪になって踊る輪舞のことだったのです。今日にも残る日本の盆踊りをイメーしすればいいと思います。合唱は英語でいうとコーラスで、これはギリシャ語のコロスに由来します。コロスは古代ギリシャでは、ホメロスの韻律を持った詩を歌いながら、輪になって踊ったものだったのです。今は横に整列して聴衆に向かって動かずに歌いますが、これは新しい時代に登場した形なのです。バラードという種パンのピアノ曲で有名な音楽も同じ様な起源を持っていて、そもそもは歌いながら輪になって踊ったものだったのです。今でも西洋の詩のジャンルには、バラードというものが存在しています。そもそもは韻律の整った詩であり舞曲だったのてす。
西洋音楽を見ると、ルネッサンスからバロックまでの音楽で組曲と呼ばれるものがあります。それらはいくつかの舞曲を組み合わせたものでした。しかしすでにその頃になると舞曲とはいうものの器楽曲に変化していて、その音楽で実際に踊れるかというと、舞曲とは名ばかりで踊るということからは離れてしまったのです。
体を動かしながら音楽を体験することから、体を動かさずに客席に座りながら音楽を楽しむ時代へと変化したのです。私はこうした傾向をいつも「音楽が抽象的になった」と言っています。音楽が頭で理解されることを欲するものになったとも言えるのかもしれません。音楽の楽しみ方、音楽との戯れが変わったのです。私がよくいう知的に音楽を理解する様になったのです。
そんな流れが西洋音楽の中心になり、ソナタ形式のような器楽曲として独立する動きが主流になります。

さて「ウィーンは踊る」という言い方ですが、これはナポレオンによって統治された1810年代のウィーンの悲しい歴史の一コマを表したものなのです。当時民衆が集まって会合を開くことは、政治的な反乱を引き起こす原因と見做されナポレオンによって禁止されていました。集まって何かをしていい唯一のものが、ダンスパーティーの様なものでした。それを歴史家が後に命名したのが、ウィーンは踊るだったのです。
ウィーンで生まれウィーンで育った生粋のウィーン人であるシューベルトは、当時の民衆に愛されたで音楽をピアノ演奏用にして、膨大な量の舞曲として残しています。分厚い二冊の楽譜に残されたそれらの舞曲は、その音楽を伴奏に実際に踊れるものだったのです。実は例外的とも言えることだと言えます。
これらの曲は大抵は短いものです。驚くほど短く、耳触り良いメロディーです。大事なのは、強調しますがそれに合わせて実際に踊ることができるということです。しかし民衆が踊り、戯れるための音楽と思いきや、実は多くの著名なピアニストによって取り上げられ演奏されているという不思議な一面もあります。耳触りがいいのはいつものシューベルトなのですが、簡単そうに見えて実際に演奏すると確かな音楽性の裏打ちなしには弾きこなせないものでもあるのです。
私はよく、日本の和歌の三十一文字、俳句の十七文字にまとめられた短い詩に似ていると思いながら聞いています。古今和歌集をはじめ幾つかの勅撰和歌集や芭蕉や蕪村や一茶の俳句集を読みながら、言葉に寄り添っている様に、シューベルトの舞曲と名付けられた小さな音楽に身を委ねているのです。大作曲家たちのピアノソナタなどは違いシューベルトの舞曲には近くにある、わたしたちの人生が呼吸しているような身近さを感じるのです。あまりに身近すぎて、こうした音楽的戯れが本当は大事だったということが忘れられているのがわたしたちの時代の落とし穴ではないかと感じています。
ふと寄り添い、一緒に戯れることのできる音楽を聞いている時、一服の美味しいお茶をいただいている時のような、それは至福の時と言えます。

心が音楽をうみ、また音楽は心をうむ

2026年4月30日

音だけを考えれば、音とは宇宙からの贈り物ということができると思います。
私にとってはその後の音からの音楽の誕生はさらに深い出来事の様に思えて仕方がないのです。人間は音から音楽を生み出したからです。音楽という宝物が人類にもたらされたのです。
音楽は律動と旋律を見つけ出し、人間の生きる姿にふさわしいものとして発展して今日に至っています。
律動であるリズムと旋律であるメロディーが組み合わさることで、宇宙からの音を、音楽という人間の心を表すものに変えたのです。人間は音楽をうんだのです。人間の心がです。
人間の心は歴史の中で多くを体験しそれに育まれ複雑なものになってゆきました。今日の私たちの心は複雑怪奇なものです。音楽は心との対話を重ねることによって様々な変化を生みながら心に沿うような形で発展してきました。心と音楽は切り離す事のできないものとなったのです。お互いを励まし合う良きパートナーとなったのです。

例えばクラシックの中で現代音楽と呼ばれているものがあります。クラシックというのは古典的なという伝統にも似た意味のものなのですが、その中に現代音楽というジャンルがあるのです。この音楽普通に音楽として聞くのは簡単ではなく、複雑な専門性に満ちていて、本当に近づき難いものなのです。しかしよく考えてみるとそこには現代人の心の葛藤が現れている様なのです。現代人に心そのものが映し出されているのす。現代音楽が複雑で難しいのか、現代社会を生きる現代人の心の中が複雑で難しいのかは、簡単に言えないものであるのです。
もちろん現代だけでなく、それぞれの時代が心を作り、その心にふさわしい音楽が生み出されたと考えていいのだと思います。

現代を生きる人々は暗く思い空気の中を生きています。思い空気の中で鬱になっている人がいます。そこに明るい、あっけらかんとした音楽が生まれる土壌はないのです。しかし心の持ち様を変えることで、意識が変わります。意識が変わった時、それにふさわしい音楽がどこかに準備されていると考えることはできると思います。あるいは心のあり方を変えることができるような音楽を作れるのであれば、心に働きかけの心にも変化が生まれるのかもしれません。新しい意識の誕生です。

現代はシンプルな音楽が聞きたいのでないのでしょうか。しかし現代という複雑好みの風潮の中に突然シンプルが生まれても、トンマかバカかとしか受け取られないでしょうから、「複雑なシンプル」というものが求められているのかもしれません。人間はいつの頃からか難しいことを考えるのが好きになってしまい、挙句のはてにその中で幸せを感じる様になってしまいました。そして出口の見つからない中で堂々巡りが始まったのです。難しく考えることから解放しなければならないのですが、なかなか難しい仕事です。
ピアノという複雑なことを得意とする楽器が生まれたのはまさに知性中心の時代でした。今は知性を解放しようとしている流れのような気がしています。知性を無碍にしようとするのではなく、知性以外にわたしたちを豊かにする物があるということに気づくことなのです。
もう人間の知性は極まってしまったと考えてもいいのではないかと思います。時代は少し前からAIと言う人工頭脳が比重を持つ時代になっています。知性はAIに任せようという時代がすぐにやってきます。
知性に頼った有志ゆうな仕事は、最も簡単にAIに奪われてしまいそうです。ということは人類は心置きなくシンプルに向かえる様になるのです。このシンプルは実は直感に近いシンプルです。

心と音楽の今までの関係は、心が音楽を導いてきたところがあります。心の表現の場としての音楽でした。これからは音楽が心を導く時代なのではないかと思います。シンブルな音楽に導かれて、心がどんどんシンプルになってゆく、考えただけでなんだかワクワクしてきます。
ライアーはそこでどんな働きをするのでしょうか。ライアーが複雑な音楽がに糧というのはもしかしたら大きなメリットなのかもしれないのです。