2023年12月2日
よく感じるのは、他人があって初めて自分があるのかもしれないということです。絶対的な自分というのが見えてこないのです。
だからと言って他人を気にしすぎているとも思わないのですが、私を含め人間というのは自分だけで自分を感じることはできない生き物なのかもしれないと思っています。つまり自分というのは、生きていながら経験したものの集積によって作られるもので、他人との比較を持たずにはあり得ないものなのかもしれない、そんなことを考えるのです。自分というのは、ある意味では錯覚かもしれないとも考えます。
初めから難しいことを言ってしまいましたが、前回書いたブログの自我のことを読み返してみたら自我というものがいかにも不確かなものに見えてきたのです。
自我とはそんな不確かなものなのだと済ませられればいいのですが、人間とはこんなにも不安定なものなんだと、自我の弱さを思い知らされてしまうと辛いものです。
だからそこを庇うために何かの手段を使って、あたかも自分があるかのような錯覚を作り出しその中に居たいのでしよう。占い、心理学、バイオグラフィーの様なものも自我の弱さの裏返しかもしれません。人生に意味を見つけ出さなければならない人も、そこで見つけた意味に頼っているのでしょうからよく似ています。人間は自我に気づいた時から自我に振り回される様になったのでしょう。もしかしたら宗教も同じところに位置しているものかもしれません。
人間は自我を持った存在だということが自信につながることってあるのでしょうか。
私はないと考える一人です。というのは、自我を持ったことから生まれる弱みこそが、自我を持つ強みに変わる要因だと思うからです。自我があるからって単純に自信につながったら、それは単なる自惚に過ぎないものですから、それを売り物にする様なものがあれば相当危険です。危険思想かもしれません。
意外と多くの人がこの落とし穴に落ちているものです。
2023年11月30日
昨日はブログに自我のことを書こうと考えて、準備もなく(いつものことです)始めたのですが、案の定座礁して二進も三進もゆかなくなり、オレンジが買い置きしてあったのを目にしたのでマーマレードを作ることに方向転換して気分転換を計りました。マーマレードはなんとかできたのですが、自我の方は一向に話が進まずにいます。難しくしている要因の一つは、自我については今までに何千、何万と書き尽くされ、言い尽くされているので知識としては多すぎるほどの量が江湖に溢れていて、今更私ごときが口を挟む問題ではないということのようです。それでもと頑張ってみたのですが、やはりハードルは高く飛び越えられずにいます。周りのせいにしている様では自分の成長によくないと鉢巻を締め直し、自我に向き合えば何か私にしか言えないものが見えてくる筈だと暗示をかけているのですが、なかなか。
そんな中で、自我は、実は見えないものであるが故に大きな力を発揮するものだということが直感の向こうからうっすら見えてきたので、そこら辺を手がかりに書いてみます。
以前にも書きましたが、目を観察すると不思議な現象があって、視神経という見るためにある神経がたくさん集まっているところが、かえって何も見えていないということです。まさに見事な逆説を自然界はやってのけているわけですが、自我というのもなんだか似ている様な気がしています。
つまり自意識という、自我のことをしっかりと見据え、把握し、理解していると普段は考えられているものが、強くなればなるほど、自我というのはかえって見えなくなってしまうものの様です。自意識は、視神経の時のように、自我を見つけるための道具にはならなくて、自我をあるかのように主張するには便利なものの様ですが、自我そのものに向かうと全く無力なものだと言うことの様です。よく経験するのが、自意識が強い人ほど自分のことが分つていない、自分がお留守になっていると感じるのはそこです。自分は主張すればするほど本来のところから離れてしまっているのです。
そこで便利な言葉を編み出して、エゴと名づけたわけです。エゴも自分の一種と見做します。しかしまだ自分になり切らずにいる、未熟な自分としてエゴにも正当性を与えるのです。否、与えてしまうのでず。そうするとエゴが大威張りで闊歩できるわけです。
このエゴと言うのは仏教がいう無明のことですではないかと想像しています。薄ぼんやりした中にいるので、いまだ本当のことが見えていないのです。いずれ明るくなったらと期待しているのでしょうが、あにはからんや、本当のことが見えるかというと、見えた瞬間に消えてなくなってしまうと思います。
自我にもよく似たところがあって、自我に出会えるのはほんの一瞬だけということの様な気がします。運が良ければですが。つまり躍起になって探せば探すほど徒労だということです。
しかし存在不明のような自我ですが、居所が不明でいるからこそつからを発揮することができるというのが、自我が実は霊的であるということの証拠の様に思えてなりません。透明であるが故に、有るかないか分からない様なところが一番霊的な力が働いているのでしょう。
一度霊の世界から人間の自我というのを見てみたいものだと切望しています。
2023年11月26日
もしその気になったとしたらの話です。
そのときはマンツーマンがいいのではないかと思っています。講義とは言っても雑談になるのではないかと思っています。いわゆる講義スタイルでは頭がこちこちになってしまい直感が働かないですから本末転倒です。
お茶でも飲みながら、ゆったりとそれとなく始めたいですね。マンツーマンですから出席を取る必要もありませんし。
どなたの翻訳された一般人間学がそこに相応しいかと考えると、やはり新田義之氏のものがいいと思います。日本語としては決して読みやすいものではないですが、シュタイナーのドイツ語がとてもよく伝わっています。
シュタイナーはとても言葉のできる人ですら表現に一工夫も二工夫もしています。簡単なことでも普通には言わなかったんです。きっと、聞き手に油断させないようにと話しているのです。用を足しているだけの箇条書きの真反対のような言い方です。ですからそれを日本語に訳したら、それこそ大変なことになってしまいます。実際に大変なことになっているのは、みなさんがよくご存知です。
一般人間学の醍醐味は、よくわからないことです。こんなことが教育のどこに関わるのかと思う様なことばかりの連続です。しかし裏を返すと教育とはそのくらい教育的ではないものだということだと言いたげです。これがシュタイナーのユーモアでしょうか。
識者たちが教育を語るときには、勉強するものとは考えて発言していません。人間を丸ごと育てることが大事だと知っていのです。シュタイナーも倫理こそ大事だと講演の初っ端から言っています。
シュタイナーは子どもが自然界、人間社会のことを学びながら、自分自身の根幹を育てるような方法を編み出したのです。学びながら人間を育てるという妙技です。なかなか考えつかないことだと思います。まさに一石二鳥です。一見教育に関係なさそうなことを言っていながら一番本質をついてきているのはさすがです。そこにもシュタイナーのユーモアを感じます。
シュタイナーが話を聞いている人たちをどの様な眼差して見ていたのかが気になります。当時会場にはほんの一握りの人しか参加していなかったのです。マンツーマン+アルファーです。