2026年5月15日
誕生日を迎えると、そこには必ずプレゼントがついてくるものです。
どうでもいいものが嬉しいものだったりすることがあるので、毎回とても楽しみにしています。あれがほしいとかいうことは一切言わないことを建前にしています。。
二番目の息子のたくみから誕生日に「ようやく半分が終わっておめでとう」という祝辞をもらいました。思わず「面白い」と膝を叩いてしまいました。とは言え、すぐに後半の七十五年をどうするのかと面食らってしまいました。息子曰く「あまり深く考えたわけではないけど日本人は長生きだから出来るんじゃないか」ということでした。七十五という数字を新たに考え直させてくれた楽しい祝辞でした。
長男のいずみは、七十五歳にちなんで「七十五の質問事項」というものを贈り物にしてくれました。親子なんて、特に父親と息子なんてそんなに会話がある間柄ではないのが普通です。こ多分にもれずに我が家でも、私の父親の葬式の時に、私が子どもの頃どんな風に育てられたのかなどと話をした覚えはありますが、親子というのはひじように近い人間関係を作っているにも関わらず、ほとんど肝心なことについては素通りしているのではないかと思います。
小津安二郎という映画監督が家族ということについて事細かに映画化しています。この姿勢については映画界でも意見が分かれているものですが、一般論的に語ることで済ましている中、小津安二郎は徹底的に角度を変えながら家族の関わりを映像化していました。映画が観念的になり、抽象的な方に傾く中、人間の根本である家族の関わりを映画化する中で方程式を作り出している小津さんの映画作りに改めて感動しています。
長男のいずみからの七十五の質問は、答える中で自分が生きてきた姿を半ば他人の目で見るように眺めさせる不思議な働きがあり、まだほとんど質問に答えていないのですが、もしかすると書き進むうちに自分の新しい発見があるかも知れないとワクワクしています。
2026年5月13日
翻訳という仕事には色々なルールが伴うもので、翻訳者の好みがまかり通らないもので、翻訳者の個性が強く出た翻訳は評価が二分される様です。個性の強いやくは意訳と称され、場合によっては誤訳扱いされてしまうこともあります。無難なのは直訳ですが、そっけないつまらないことが多いです。
翻訳に際しては押さえなければならない文法があり、言葉を説明した辞書に従い、さらに決定的な原文の文脈があります。外国語を日本語に翻訳するのであれば、ある程度自然な日本語の文体に置き換える必要があるのですが、原文に忠実になればなるほど日本語離れしたものになってしまいます。翻訳には翻訳者の主観がどうしても入ってしまうものです。それを踏まえた上で、できだけ一般的であることが求められているということです。
原文に忠実にすると直訳になり、日本語で読んでもよくわからない原文そのまま日本語に読者は困ります。出来上がった日本語が読者に通じていないということもしばしば起こります。
いい翻訳、興味深い翻訳はギリギリのところまで主観を貫いている翻訳なのではないかと思っています。日本語としての読みやすさを踏まえ、原文の文脈を維持しながら日本語らしくするということです。
昨今はAIが人間に変わって翻訳する時代です。翻訳機というのは旅行者だけでなく世界会議の場ですらも大活躍しているのです。AIには膨大な量の辞書が記憶されています。もちろん文法的な解釈も豊富で正確です。どちらにしても一人の学者では太刀打ちできないほどの量ですから、翻訳も期待できるのですが、AIの翻訳が一人の翻訳者の翻訳より優れているかというと、必ずしもそうとは言えない様です。AIの翻訳は文献的には原文にそぐっているので正確な翻訳なのですが、翻訳された文章は味わいのないものが多い様です。間違っていないということがとにかく大事なことなのですが文章は意味の正確さだけでなく、文体の味わいで理解しているところもあります。人間がするどの翻訳にも翻訳者の癖、個性、そして言語能力であり、言語感覚といったものが加味されているので、AIと比べると不純といえば不純なのでしょうが、味わいはあります。文体もその人なりの文体です。
ドイツの生活も五十年になりますから、ドイツ語でほとんど不自由なく生活できるのですが、小説は今でも日本語に翻訳されたものを読みます。翻訳のないものはしょうがないのでドイツ語になりますが、日本語で読む方がスピードがあり小節などの持つ緊張感にはそのスピードが必要だからです。探偵小説を辞書を引き挽き読む姿を考えてみてください。007のジェームス・ボンドがアタッシュケースなりボストンバックを手に飛行場を颯爽と歩く姿は粋なものですが、ゴロゴロとスーツケースを引っ張って歩く姿で登場されては幻滅で、もう007の世界ではない様に、探偵小説を読むにはある程度のスピードが必要だというわけです。著名な英文学者たちも小説は翻訳でと言っています。
ところが思想的な本や専門的な文章を読むときは状況が異なります。その文章の奥を知りたくなります。言葉になりきれていない意志なり、深層心理なりの部分です。そもそも著者は何を考えていたのかという辺りの景色が見たいのです。そうなると一般的に翻訳されたものというのは、どうしてもピンが合わないので自分の言葉にしないと納得がゆかないのです。そこで徹頭徹尾意訳をします。自分だったら「こんな風に言う」と言うところまで噛み砕いて訳します。自分で納得できる翻訳になる頃にはもう原文から相当離れていますが、言葉の奥の深いところでは同じ方向を向いているのです。
AIのことで付け足すと、音楽の演奏の世界を見渡すと、しばらくするとAIがするようになる日が来るのではないかと思えるほどの勢いです。
しかしです間違わずに演奏すると言うことであればAIに軍配が上がるとは思うのですが、演奏者の個性という点に関して言えば、個性をデーターをものにして作り上げるのは今はまだ無理の様です。いつの日か可能になるのかも知れませんが、それまでの間AIと人間の個性との間に何が横たわっているのが何なのかを考える時間がありそうです。
私はAIが絶対に弾けないようなライアー演奏を目指しています。文体のある演奏をです。
2026年5月11日
四分の三世紀ほど生きてきました。
今日の日を迎えて思うことというのは、今までどうだったかより、漠然とですがこれからどうしようとということです。今朝起きて、ほぽ南の空に半月がかかり、東の空が色づいてきた時に思ったことです。
こうした思いが湧いてくるとは正直我ながら驚いています。
特に強く思うのはこれからはもっと感じながら生きてゆきたいということです。正しいとか正義とかいうことに振り回されることなく、感じることに裏打ちされた人生です。emotionという出来上がった心の状態ではなくFeelingの方で、感性豊かに感じながらという人生です。かといってただ感覚的にというわけでもないのです。私が言いたい感情というのは意外と言葉にするのが難しいもののようです。
人間の感情という部分にはずっと関心があったのですが、感情というのは、情に流されることでもあるので、実に曖昧なものとして扱われ、軽んじられ過小評価されています。真剣に取り組んでいる人が少なく、理性、真実、倫理というある程度形をとるものが優先する中、消えてなくなる様なものですから置き去りにされてきた部分のようです。
感情は主観的なので客観を重んじる科学の世界とは疎遠です。数学も感情を排除します。今日の常識からすると客観というのは魔法の杖の様なもので、みんな客観の魔法にかかっていますから、その魔法にかからない感情は除け者にされ、部外者なのです。
しかし私は魔法にかかって立派なことをいう人ほど当てにならない人はいないと思っています。特に人を見る時には感情の部分が安定しているかどうかをいの一番にみます。感情というのは普通は心と同一のもののように見られています。心に根を張っている様なもなのです。感情が根付いている心は安定しているため、そのような人がまずは信じられる人となります。知的な人、行動力に優れている人などは時代の趨勢に乗っているので見栄えはいいですが、実は心の中には根っこがなく心配なものを含んでいるものです。
感情を培っているのは美と言われている世界だと思っています。実は真実の中にも美は生きていますし、倫理の中にも美は生きています。何事にも美しいと感じられるものが生きているのです。耽美的な美に溺れるのは病的な傾向にあるものなので、それは健全な美とは別物だと思っています。美は過ぎ去ってゆくものでもあります。感情も過ぎ去ってゆくものです。もちろん優れた芸術作品や工芸品などは観賞用として大切に保存されます。しかし美は誕生の瞬間に生まれるインスピレーションです。インスピレーションの様に常に生まれ、常に消えてゆくところに美の本質があるのです。美は理屈ではないので、今日のような知性の優った状況で美は学問の対象となってしまっていてどうしても知性に振り回されているのです。情報というのは知的な社会の中の知性の副産物と見ていいものです。あるいはびは作品として商品となり、価値がつけられて取引されるものになってしまったのです。
美を生きるというのは、今を、一瞬一瞬を生きるということで、常に新鮮な自分でいなければならなけばいけないということです。
感情で生きたいということはこれからはもう歳を取らないということでもあるのかもしれません。