音楽とは

2023年9月22日

音楽を右脳と左脳で分けると左脳の仕事だと聞いてびっくりしたことがあります。情操的なものなので右脳的なものかと思いきや、左脳の仕事だったんです。確かに音楽を冷静に見直してみると非常に緻密に計算されたところのあるものでした。音楽は大袈裟かもしれませんが「響く数学」といってもいいようなところもありますから、やはり左脳の仕事として納得します。

とにかく音という形のないもので、形あるものを作るという特殊な作業です。

 

シュタイナーは右脳左脳という分け方をしません。

では音楽をどのように捉えているのかというと、他の芸術、建築や、彫刻や、絵画と違う扱い方をします。建築、彫刻、絵画は地上の様々なものからヒントを得たり、影響されたり、模倣したりしているのに対し、音楽は地上的なものから一切影響されないものだというのです。他の芸術のように地上を故郷にしていないのです。地上を超えているので、形而上の世界のものと言えます。

シュタイナーは意志を音楽を語る時にも用います。音楽は最も意志と結びつきのあるもので、意志の表現だというのですが、実際にはこれをどのように理解したらいいのか戸惑っています。本当は、悲鳴をあげています。

つまり意志をどのように位置付けたらいいのかということです。その出発点が定まらないと話を進められないのです。表面的にインテリジェンス、知性の反対として意志を置いても話がまとまりません。音楽はとても知的な作業です。音楽に携わっている人たちは皆知的に優秀な人たちです。とはいえただ知的なだけでは音楽の世界の住人にはなれないこともわかります。知的である以上の意志的なものと言いたいのです。これ以上言葉にすると混乱だけが待っているような気がするので、勇足にならないように気をつけます。

意志と音楽の組み合わせは非常に特殊です。しかも意志はとても包括的なもので、人間生活の微に入り細に入り深く入り込んでいるものです。意志に比べたら知性というのは案外大雑把なものでもあり、脆弱な側面をも持っています。要するに頭がいいなんて、大したことではないということかもれません。しかも柔軟さに欠けるので簡単にポキっと折れてしまうのも知的な人たちの特徴です。カミソリのような鋭い切れ味も知性の持つものでしょうが、とんがった鉛筆の芯のようなところもあります。一方意志は筆のようなところがあり、力強く、外から加わってくる力にもおおらかに耐え、時には鉛筆以上に繊細な、ほとんど消えそうな線も書けます。意志のあるところはしなやかです。

音楽と意志ということて言えることのもう一つは、音楽の人間への影響力です。そこに注目してみたいのです。直接に、しかも力強く心に働きかけます。昔は戦争の時、太鼓が必ず付いてゆきました。ラッパも同じくらい重要でした。戦を鼓舞したのです。当時は剣と剣とが力ずくでぶつかり合った戦でした。今日の鼓笛隊はその名残です。ですから鼓笛隊は本来なら軍隊に属すものなのです。

音楽にだけ出来る、行動力へのじかの影響です。戦場に立派な戦争の絵を持って行って兵士に眺めさせ兵士を鼓舞するなんて聞いたことがありません。そんなことは絵画ではできないからです。勇ましい彫刻も戦場では役に立ちません。音楽だけができる得意技です。こんなに直接に人間の行動に働きかけるものは音楽を措いてはないのです。これも音楽を意志の観点から見て言えることのようです。

意志と音楽をまとめることはできないと思います。したがって今日は突然の幕ということになります。

 

 

 

箸休め。マッテオ・サルバドールについて

2023年9月19日

マッテオ・サルバドールという歌い手のことを日本で知る人はいないと思います。正真正銘のイタリアの歌手です。

とは言っても朗々と歌うオペラ歌手でもなく、カンツォーネの歌手でもなく、ジャンル分けすればフークロール、民謡歌手いうことになるようですが、彼の歌を聴いているとそれで言い尽くせるものではない歌を歌う非常に稀有な歌い手だということがすぐわかります。どのジャンルにも属さないというのが多々しいのかもしれません。

南イタリアのアプリ地方のアプリセナという町で生まれます。あまりの貧しさに小学校にも行かないでいるところを、盲目のヴァイオリンを弾いて歌う「ながし」に拾われ、寝起きを共にしながら彼のもとで150ほどのギターで歌う曲を伝授されます。

この歌と歌い方が隅に置けないとんでもないものなのです。彼ら二人が歌う歌はは13世紀からこの地方で歌い続けられていたもので、それがのちに歴史考証によって吟遊詩人たちの歌に通じているのではないかということになるのです。

サルヴァドールが20歳になった時、親代わりでもあり、音楽の師匠であり、歌を一緒に歌い続けた相棒がなくなります。彼の死後途方に暮れる中、五日間歩いてローマに行くことを思い立ちます。ローマで、場末のレストランなどで「ながし」として歌い始めます。初めは珍しいと受け止められた程度でしたがだんだんと評判になり、識者の中にこの音楽がかつての吟遊詩人の流れを汲む特別なものだという者が現れ、新聞やラジオで取り上げられるようになり、一躍有名になります。「河原乞食のながし」から一躍スターになったのです。

 

イタリアの歌手というと郎朗と歌うオペラ歌手を思い浮かべる人もいるでしょうが、マッテオ・サルバドールの歌はその手のものとは全く別物で、囁くような歌い方です。カンツォーネのように声を張り上げて歌うものでもありません。そんなことをしたらうるさくて、近くで聞いているお客さんが迷惑してしまいます。

盲目のおじいさんから伝授された歌い方は、全く主張をしない語るような、囁くような歌ですから、無闇に大声を張り上げるようなことは一切なく、たとえ大きな声で歌うことがあっても、それは押し付けがましいところが全くない訓練された繊細なもので、聞いていて気持ちがいいだけです。

これが吟遊詩人たちによって歌われていたのかと思いながら聴いていると、不思議なタイムスリップを感じます。と同時に、彼が歌う歌の中には、今日に伝わっている色々な音楽が原石としてあるようにも思えて仕方ないのです。ある時グスタフ・マーラーのシンフォニーを聞いていて、サルバドールの歌みたいだと思ったことがあるほどです。

高い音域を歌うとき、ファルセットをして声を引きます。これは相当難しい技術で、これで歌うと倍音がよく響き柔らかい歌になります。耳障りのいいピアニッシモが生まれ、聞き手を魅了します。音量からすればごくごく小さいものですが驚くほど脱力した声で歌われる、しなやかな歌はどこまでも響きます。

サルバドールは幼い子どもの頃におじいさんと出会い、おじいさんから徹底的にこの所を仕込まれたようです。彼が七歳でおじいさんと出会ったことが幸いしています。ほとんど模倣の力でおじいさんのなかで生きていた尊いヨーロッパの伝統を教えを受け取れたのです。

もう一つ楽しいのが、彼らが路上でお客さんを集めて歌うときの前に行う「口上」です。イタリア語の美しさが聞かれます。単なるパフォーマンスではない、「ながしの乞食さん」がその日の食いぶちを稼ぐために必死に客集めをする様子が見えるような、粋のいい正真正銘の「口上」です。隅から隅まで本物の「乞食の口上」で、純粋な芸術品です。

ミヒャエル・エンデさんがよくローマの片隅で、乞食さんたちが口上まじりでお話を聞かせているのを聞いたと話してくれたことがあります。ドイツにはそうした伝統がないのが寂しいと言っていました。そして「モモ」や「はてしない物語」や「ジムボタン」などもああやって路上で、口上交じりに楽しそうに話してもらえたらいいのにと言ってました。役者でもあったエンデさんには語ることの中に生きている生き生きとした言葉の命が感じられたのかもしれません。

Matteo Salvatore で検索して、色々と聞いてみてください。

 

続・記憶の次

2023年9月16日

前回は「記憶の次」なんてタイトルしていながら、全くそのことに触れずにいました。期待されていた方はそんなにいないでしょうが、もしいたら、申し訳ありませんでした。今日そのことに触れますので、よろしくお付き合いください。

実は私たちはもうすでに記憶の次の段階を歩み始めているのです。

もし記憶の枠に留まっていたら、知っていることだけで物事は終わってしまいます。過去を向いています。そして沢山知っている人が偉いのです。

思考するというのは全く別物で、実は大変な能力なのです。記憶の次の段階なのですが、記憶から発展したという言い方はできないかもしれません。猿から類人猿には発展したのでしょうが、類人猿から人間への道は飛躍があります。記憶から思考への過程も飛躍があるような気がしてなりません。外から何かの力が加わったということです。突然変異です。もしかしたら宇宙人が来たのかもしれません。ただシュタイナーは、理由はわかりませんが、宇宙人という言い方をしません。

記憶と思考の間には深い溝があります。人間の力では越えられないほどです。記憶は過去からの積み重ねですが、思考は過去よりも未来に向かうものです。未来のことを考えることができるので。記憶だけだったら、そんなことではないはずです。過去の蓄積ですから。お役所で新しいことをやりたいと申請しても、「前例がありませんから」という感じです。

つまり人間は思考を始めた時から未来を向き始めたのです。未来という何の手がかりもないものを、青天の霹靂のように言うことができるようになったのです。ただ思考は今のところまだまだ記憶に近いものとしてしか働いていないような気がします。これから未来に向かう力をどのように作っていったらいいのでしょうか。

知識や固定概念から思考を解放し、わからないものの中で遊ばせることです。自由というのはこの思考の解放と大いに関係していることなのです。過去にこだわっていても自由にはなれない訳です。