AIストーリー

2026年8月8日

最近YouTubeでは盛んにAIとストーリーが登場しています。AIのお手並み拝見という感じで付き合ってみたのですが、話の筋書きは三つも見れば大体がパターン化されている感じで限界を感じてしまいました。かつてヘタクソな小説を三文小説と読んだのですが、AIの書いたものはおおむねその範疇に入るようなものだと結論づけてみないことにしました。御涙頂戴の人情ものとても言ったらいいのでしょうか。
言葉がに工夫がないのはどれも共通しています。そこで気が付いたのですが、優れた小説はストリーで読ませているのではなく、言葉がまずあってそこから話が生まれてくるのだと言うことでした。ストーリーだけを強引に作り出しその後のストーリーをくっつけてゆくと言う感じです。辻褄は合っているし、間違ったところはないのですがまさに三文小説形の手法そのものです。そこにパターン化が加味してくるともう離れてしまいます。
テレビの世界には視聴率というキーワードがあって、特に民法はスポンサーからの身入りにつながるので高視聴率を狙うわけですが、現実にはそれが落とし穴で、視聴率の高ものをとそれに振り回されて番組を作ってゆくと視聴率に迎合することになり、いつの間にか製作者の自主性が感じられなくなり何をみても大体同じという流れが生まれるのです。これはテレビだけの事ではなくハリウッドの映画作りにも当てはまる事です。物事が商業化の勢いに飲み込まれると、そこで生まれることは大体同じ傾向を持っています。
AIの文章は意味は伝えられています。単語一つ一つを見れば別に間違っている描写ではないのです。しかし人間が書いた小説には小説家の持つ文体があります。そこには文体以前にまず癖があります。もしその癖だけで書いていたら、三文小説に成り下がってしまいます。そこで小説家たちは踏ん張って文体と言われるものを作ります。それも結局は癖なのですが、癖でなくなった癖というのか、上等な癖というのか、いろいろにいえますが、とにかく文体まで登り着こうと努力します。
私などは文体が面白ければ、ストーリーなんで気にならないという読み方をするものです。ストリーで読むのではなく文章で読んでいるからです。同じことは人の話を聞いている時、話の内容よりもその人の声に関心が向いていのです。ストーリーより文章が小説の場合は大切なのではないかと考えています。そのため今までにずいぶんの「文章読本むというものが文章家と呼ばれている人たちによって書かれています。「ストーリー読本」というのも探せばあるのでしょうが、文章からストーリーが生まれるという捉え方をすると、その方が意外性などに満ちていて面白いものが生まれる可能性が高いようです。

感情のありがたさ

2026年8月7日

知性が高く評価される時代を私たちは生きています。AI、人工知能というのが大いにもてはやされて、多くの人が便利さを謳歌しています。聞けばなんでも答えてくれる。問題があって相談するとすぐに答えてくれる。こんな声は毎日のように聞かれています。
その影には私たちもいつの日か人工知能のようになりたいものだという願望でもあるかのようです。
いま突然人工頭脳が機能しなくなったら大きな混乱が起こるのでしょうか。私の日常生活がAIに依存していないからでしょうが、もしかするとなければないで済むものもあるのではないかと思います。危ないのは便利さに振り回されてしまうことです。

知的な人間が評価されます。色々な資格をもち社会的な地位も得られます。高級取りでもあり生活が保障されています。知的というのが社会生活を保障するわけです。そのために人間は猛勉強します。知至上主義という社会構造ができてしまいます。ところが知性に頼りすぎると世の中は逆に混乱の渦に巻き込まれることになります。夏目漱石ではないですが、知に働けば角が立ち、なのです。知は悪知恵となったとき利己主義が牙を剥き出しにしてむしろ欲を増長するものでもあります。知の自惚が諸悪の根源です。

私たちの時代にかけているのは感情と、意志です。答えがなくても構わないのだという世界です。
特に意志の欠如は人間が芯を作るときに決定的です。意志はコツコツとした努力で培わされるものです。知のように短時間の猛勉強で習得できるものではなく、長い時間を掛けでコツコツと積み重ねた結果なのです。大して意味がないようなことを毎日コツコツと繰り替えすなんて馬鹿げて見えるのです。そうなっては意志を培うチャンスが無くなってしまいます。知と違って成長が見えないというのは結果が見えないのですから、点数の付けようがなく教育者たちが一番苦労するところです。
そうした地味な繰り返しの中から感情というのが芽生えるのだと思っています。意志の欠如が気になるのですが、同じくらい感情の手薄さが気になります。私はよく現代人は感情的に判断しているのではなく、どちらかといえば条件反射的に生きているのではないかと繰り返し言っていますが、感情というのはすぐに判断して、即答ができないものなのです。感情はすぐに判断するというのかできないのです。そもそも判断というのはすぐにするものではないのですが、知の時代はすぐに判断することがいいことだと教えられています。そこでじっくり判断に至るのではなく、条件反射的に反応してしまうのです。その連続では人生は熟すことはないのです。いつまでも青二才ということです。

知の時代は理解し、判断することが中心になりますが、意志の時代、感情の時代は即答ではなくゆっくり醸し出す時間が生活の意識に投じ要します。知の人間は自分を囲ってしまいますが、意志や感情が働くと人間は自分を解放します。解放して、向き合っているものや人と交流が可能になります。感情があることで対象との間を行き来します。感情は採点を下すのではなく、相手を感じ取ることに努めますから点数外の世界です。感じる中で畏敬の念が生まれれば最高点がつけられることになりますが、なかなかそこまでは行かないものです。
意志に至ってはそもそも周囲と一つになろうとする傾向の強いものですから、意志の働きが強なればなるほど周囲と一つになって採点はつけられなくなるのです。もう採点などどうでもいい世界に入ってゆきます。

さて人工知能AIのことに戻りますが、人工知能は知の部分を補うものとしてはとても優れた道具だと思います。知の代用品としては相当真に迫ったもののようですが、意志や感情の部分は人間に任せるしかないのではないかという気がします。人工感情、人工意志はせいぜいそれらしい感じがする程度が限界のような気がします。問題はどんなものにも正確な回答、解答がないからで、無理に答えを押し付けてしまえば実に後味の悪いものになってしまいます。本物の味がしないのです。

筆でかく

2026年8月5日

我が家の孫娘たちも小学生になり、学校で文字を習っています。ドイツなのですアルファーべートです。
シュタイナー学校に通っているので、今は色鉛筆で色混じりで書いています。次の段階で万年筆で書くようになると言っています。万年筆だとペンの持ち方がボールペンを使う時のような、無理に推すような不自然な形の悪い握り方にならないと思います。
ちようどいい機会だと思って、二人の孫娘に筆で日本語を書いてみようと提案したら、大歓迎されて、夏休みにぼちぼち始めてみようかと思っています。
日本の習慣だと、二人は箸を使えるようになっていて、お蕎麦も箸で食べているのですが、持ち方が悪く思うようにゆかないのが現状です。橋は掴んだりするだけでなくお魚などは着ることもできるのですが、そこが今はまだ不自由なようです。
筆で書くと、筆の握り方が、ギュッと固めないで、筆に沿って指を置くことになるので、箸の持ち方にもいい影響があるのではないかと思っています。もちろん箸の持ち方は別物だとは思うのですが、箸の持ち方を矯正するいい機会だと、お爺様としてはいい効果を期待しているところです。

字をくことは好きで、ドイツ語なども気に入った文章などよく書き写していました。鉛筆で書くことが多かったのですが、万年筆を使ったりつけペンで書いたりと筆記道具を変えて文字の形がそれぞれで違うのを楽しんでいました。万年筆も細字と太字では同じ万年筆とは言えないくらい書き味が違うものです。
書いている時の動きの違いで、書き写している文章の頭に入る質が違うように感じてました。

コンピューターの時代で筆記道具などすぐに無くなってしまうのではないかと思いきや、鉛筆はまだ需要があるということです。特に日本の高級鉛筆は海外で評判が良くて日本でより売れているという話を聞きました。万年筆も新しいものが開発されているということです。文字を書くというのはただ用事を足しているという以上に人間存在の一部だという気がします。

万年筆のペン先は14金18金となっていて、今は金の相場が高く、私が万年筆を買った時とは比べ物にならないほどの値段になっています。それに伴って万年筆の値段が目の玉が飛び出すほどの値段になっているのにびっくりしました。二人の孫に万年筆をと思って調べていてわかったことでした。勿論孫には生徒用万年筆ですから、まだ買ってあげられるお値段です。

私の友人のお父さんが西洋カリグラフィーをやっていて、そこで使われるペン先を見せていただいたことがあり、何十というペン先のそれぞれの使い方を聞いていて、日本の書と根本的に違うのに驚きました。日本の書は動きの中のダイナミズムというか躍動感が筆のうごきに感じられます。動きと静けさのバランスと言うところも大切なものです。動きの結果として形があるという感じです。西洋のカリグラフィーでは動きは勿論大事なのですが、形とデザイン、画面のバランスと言うところを強調しています。
どちらも文字を書くと言うことに情熱をかけているのは共通しているのです。

ドイツでは一時学校教育から筆記体がなくなると言うことを聞き、「それはないだろう」と怒りのようなものを覚えた記憶がありますが、やはり私のような反対派が頑張ったのか、筆記体も指導されると言うことになっています。

ある講演会の後、学校の先生を長くやっていらしたと言う年配の方から話しかけられ、シュタイナー教育では喰い的に何を教えているのかを聞かれで、短い言葉で説明したのですが、その時フォルメンと言う科目が必須になっていますとお答えしたのですが、その先生は「それはすごいですね」とおっしゃって、「その教育は本物ですね」と太鼓判を押してくださいました。フォルメンと言うのは色々な形を鉛筆で線を引きながら書き上げてゆくものです。簡単に言うと西洋的な習字と言っていいかもしれません。本来ならダイナミックな素描、線描という方が実際に近いと思います。

他愛のない線を引いているだけで、心が落ち着くことがあります。
鉛筆でかく奥の細道という本を見つけて買って芭蕉の文章を鉛筆でなぞって書いていたことがあります。ただ読むのとは違って、楽しい経験でした。