沈黙から沈黙へ

2017年10月24日

演奏している時何を考えているのですかと聞かれ、咄嗟のことで言葉にできなかった経験があります。

後味の悪いものが残り、その後で色々と思いめぐらしました。

一番いいたかったのは、「沈黙から生まれた音を聞き手の沈黙のところまで届けたい」ということのようです。

演奏は沈黙から沈黙への橋渡しです。
実はその時も沈黙という言葉はかすかに頭をかすめていたのですがその場にしっくりこないものを感じて使わずにいました。

使い古されているので他にいい言葉がないものかと探したのですが、その時は沈黙に代わる言葉が見つからないまま、別の言葉で濁してしまいました。その後、何かにつけ沈黙に相当するいい言葉はないものかと探してみましたが、今のところまだ見つかっていません。

 

沈黙。非常にインバクトの強い言葉です。

好んで使われる言葉のベストテンに入る言葉かもしれません。

改めて沈默という言葉を噛み締めてみると、意外や意外、使い古されているどころか、新鮮でもあるので不思議な言葉です。

沈黙に代わる言葉を探したのですが、今は沈黙でいいと納得しています。

 

音楽に限らず、絵画にしても作品が生まれるときにはインスビレーションが降りて来ます。ガサガサしているとき、心が騒ついているとき、ガツガツしているとき、ギラギラしているときは、インスビレーションとは無縁です。心が日常の利害関係に振り回されている間はインスピレーションが降り立つ場所が心にないからです。

日常的なレベルの沈黙もあります。それはただ言葉にしないだけで、黙っていることですが、もう一つの沈黙、非日常的沈黙とは違います。こちらは心の澄み切った沈黙です。

日常のざわざわから解放され、心が落ち着いている時に親しい人とお話をしているとします。

日常生活と同じように言葉を使うわけですが、何かが違います。同じ言葉なのに違うのです。うまく言えませんが何かが違うのです。

そこにはバケツの泥水が時間とともに泥と水に分離するようなものがあります。泥が沈殿し、水が澄んで行きます。心が落ち着いているというのは、日常のざわざわが沈殿している時で、心が透明な状態になっていることを指します。

沈黙は澄んだ心です。黙っていることが沈黙ではなく話をしていても沈黙はあるのです。演奏している時でも、色や形に没頭して絵筆をとっている時でも、つまり創造的に活動している時は、心を澄んだ状態に置かなければならないのです。そうして初めて沈黙から力をもらえるのです。

もしかするとその時すでに沈黙の中にいるのかもしれません。

 

講演をしているときも同様で、インスピレーションがないと話が進まないものなのです。講演にはテーマがあって、一応はそのテーマを念頭に置きながら話すのですが、しっかり準備して、これとこれとを講演の中で話すのだと決めないようにしています。そうてしまうと、話は進まず、途切れ途切れになって、だらだらと言葉が連なっている箇条書きのようなつまらない講演になってしまうからです。

インスピレーションから見放されている話は退屈です。話されれている内容が素晴らしくても、豊富な情報と知識にあふれているだけで退屈なものなのです。

インスピレーションが降りてくると、話をしている本人がまず感動します。話がワクワクしてくるのです。こうなったらしめたものです。言葉が言葉を産むという風になってきます。話はとどまることがなく、前へ前へと進んでゆくのです。インスピレーションからの言葉には迷いがないですから、話に勢いが生まれ、流れている川の水が綺麗なように、勢いのある話は聞き手を透明にし、聞き手の中のインスピレーションを駆り立てます。

 

講演者、演奏家たちに欠かすことのできないのがインスピレーションです。

インスピレーションと沈黙はとても近いものです。

人間は本来お互いにインスピレーションと沈黙で結ばれていると考えてはどうでしょう。

 

 

観光旅行と団体さん

2017年10月18日

沢山の人が旅に出る時代です。
旅は人生にとって強制されているものではなく、しなくてもいいわけですが、出かけたくなるものです。
旅は道連れ、世は情け。旅先では何かと不安だから道連れがいると心丈夫ということでしょうか。旅の風情を感じます。ゆったりした、のどかな感じです。しかしそんな旅をする人は珍しくなって昔の話という感じです。そもそも旅という言葉ですが、死語ではないでしょうが、最近聞かなくなったような気がします。
旅ではなく旅行に出かけるのです。その方が今風で自然です。さらに、旅行というより観光にです。
行楽の時期や、連休となると観光スポットは沢山の人で溢れ都会並みの賑わいを見せます。
旅をすると言った時代とは打って変わって、沢山の情報を持って、プリントアウトされた地図を手に、迷わずに旅行ができるわけです。が、なんだか風情にかけています。
世界遺産という制度が定着してからは、世界遺産にフォーカスされた世界遺産巡りをする人も増え、珍しい景色に多くの人が惹かれ、絶景と言われているものを、貴重な人類の遺産を一度は自分の目で見ておきたいと足を運ぶようになっています。観光ブームはここ4半世紀疲れることを知らず成長し続け、文化・教養というだけでなく観光業として経済社会にも立派に貢献して来たものです。
何が観光ブームを支えているか考えてみましょう。その膨大なエネルギーはどこから来ているのでしょう。観光ブームに今の時代特有のあり方が伺えるような気がしてならないのです。
観光旅行といえばそこには必ずと言えるほど団体さんがつきものです。
個人で観光地を訪れる場合は、旅行を兼ねて観光するというスタンスが可能ですが、団体旅行となると、旅行は二の次で名所旧跡を見る観光がまず優先しています。もっと優先しているものがあります。それは時間厳守で、次に予定されているところに時間通りに着かなければならないため、時間との戦いになります。つまり旅行よりも、観光よりも、時間が最優先しているのが団体の観光旅行の特徴でしょう。
レストランに入っても、注文することなく料理が出て来ますし、お土産やさんに寄って買い物をし、せかされながらバスに乗って次の目的地に向かうのです。次の所でも同じパターンで観光、食事、買い物、バス乗車という繰り返しが待っています。一週間の旅行を終えて家に帰って一体何を見て来たのかと振り返っても、全てが混沌とし、一緒くたになっていて、写真だけが手がかりになるものということになりかねません。

極めて表面的で、ここが私たちの時代の特徴と一致するところです。情報社会になつて便利さはかつてないほどでしょうが、便利になってなんでもスムースに事が運ぶのは悪いことではないにしても、機能することに振り回されているのではと一言を呈したくなります。
機能優先社会ですから、人材の選択も機能することに重点が置かれ、それ以外の人は外されてしまいます。観光旅行で言えば、少ない時間の中で、色々な国に行き、そこでたくさんのものを見ることができるのがいい観光旅行ということになりそうです。無駄な時間が一切なしの、合理的に機能している観光旅行なのです。
しかし何か大事なものが見落とされています。見て来たものと、自分が生きていることとが結びつかないのです。素晴らしい景色、珍しい建物を見て感嘆の声をあげるのでしょうが、それは刺激に対して反応しているだけで、センサーが動いているものに電気的に反応するのと大して変わりがないのです。今目の前にしている物が何なのかと問うことがないのです。
今目の前にしている物は、もうすでに分かっているもので、分からないという、ワクワクした感情が沸き起こることはないのです。
感情が失われているのが現代です。エモーションは感情の一つですがより衝動的なもので、私が感情と呼びたいのはフィーリングの方です。フィーリングは時間をかけて練りこまれたものなのです。
ミツバチの話を読んでいた時に、一つの巣箱の中に、女王蜂と働き蜂と怠け蜂がいると読んで、さもありなんと感動しました。怠け蜂は機能主義的に考えれば無駄なものですから、排除すべき存在です。そこで仮に排除したとしてどうなるのかというと、働き蜂の中から新しく怠け蜂が出てくるということですから、怠け蜂は巣に必要な存在と言えるのです。
感情は無駄なことをするところで育つものだと考えています。なんでもスムースに機能しているところに感情を育てるエネルギーは存在していないのです。無駄なことをする時間があって欲しいのです。少しくらい不便を感じてることが大事なのです。
機能優先社会ではこの先コンピューター、ロボットというものに多くの仕事を譲ることになります。そこで人間が居場所とするのは、無駄という考え方が生きている所でしょう。

さて観光ブームですがはブームと言われるように時代的な流れに過ぎないのかもしれません。しばらくしたら、かつて観光旅行と呼ばれているものがありましたね、などと会話するようになるかもしれません。

メトロノームで三拍子は無理です

2017年10月12日

メトロノーム。
誰がいつどこで発明したのか知りませんが、こんなものが音楽の世界に入り込んできた時から、音楽は牢屋に入れられたようなものと変わってしまいました。
メトロノームで音楽をするというのは、音楽を冷凍するようなもので、音楽的自殺行為ですから、私は人に勧めません。
メトロノームに頼って音楽をすると血の通っていない死んだ音楽になってしまいます。
でも今のご時世、そういうのが好まれているようで、なんだか背筋が寒くなってしまいます。

メトロノームの悪口を言ったので、ある時人から、
どうしたらリズムを覚えるのですか、
と聞かれました。
歩いたらいいじゃないですか、と答えました。
歩いている音楽は生きています。でもメトロノームは別物です。
機械です。
機械がおんがくを始めたというのが、メトロノームで音楽をするということです。
簡易ロボットといえます。
では三拍子はどうしたら覚えられますかと続けられて、答えに窮しましたが、なんとか逆襲できました。
メトロノームで三拍子は習えますか。
・・・・・・・
三拍子、三連符も同じですが、そこには音楽の心が生きているので、音楽からしか習えません。
・・・・・・・
三拍子は発見されるのを待っています。自分で見つけないとダメなのです、といいました。

三拍子は自然界にはないもので、自分を感じるようになると三拍子に目覚めます。
逆に三拍子の曲を弾いているのを聞けばその人の人となりが分かるものです。三連符もよくにいています。