2019年秋の講演ツアーの日程調節

2019年7月14日

仲正雄講演会、並びにワークショップ、コンサートの主催者の皆さま

 

今のところ昨年に比べ気温が低く凌ぎゃすくなってぃますが、九州、西日本では局部的な集中豪雨が報道されており、油断の許せない七月半ばです。

豪雨の災害に見舞われた方々には心からお見舞い申し上げます。

 

今日は秋のツアーの日程調節を皆様と一緒に組んで行きたいと思いここにメールを差し上げている次第です。

 

期間は10月1日から11月15日とさせて頂きます。

申し込みの方法として次の二点を明記して頂けると、こちら側の日程調節がスムーズになりますのでよろしくお願いいたします。

1. 希望される日、あるいは時期と、

2. この日だけは、あるいはこの時期だけは無理

を明記していただいて、わたしのメール宛にお返事いただけますと、先着を優先しながら日程調節に入りたいと思います。

メールアドレスは

nakamasao511@outlook.jp

です。

 

申し込みは、8月15日までとさせていただきます。

9月1日には日程報告ができるようにしたいと考えております。

夏休みという時期を挟んでおりますが、みなさまのご協力をお願いする次第でございます。

 

最後にテーマについてです。

今まではみなさまの方から出されたテーマで講演をし、私の方から出すことはありませんでしたが、今回は私の方から二つほど提案として出してみたいと思います。あくまで提案ですので、みなさまの会の中で話し合われ決められたテーマを優先させていただいて一向に構いません。

1. 「療と治癒」というテーマを考えています。私のブログをお読みになってくださっていらしゃる方は、先日このテーマで書いたものを思い出されていると思いますが(2019.7.10のもの)、治療と治癒には微妙な違いがあるのですが、普段混同されていて、区別なく使われているのが現状です。

私の講演ツアーもことしで30年になり、そろそろ締めくくりの時期と考えています。今まであまり触れずにいたテーマでもあり、私がドイツに行くきっかけになったテーマでもあるので、今年はこのテーマをみなさんと一緒に考えてみたいと思っています。

2.もう一つのテーマは「性」についてです。性については表立って話すのが憚れるものですが、今年の春に、京田辺シュタイナー学校の講演会でこのテーマを出されお話しをする機会がありました。そこで、実はこのテーマは思春期だけでなく人間の成長にとって大きな位置を占めていることを感じ、機会を設けていただけるのなら今後の講演会でも積極的に取り上げたいと、ここに提案させていただきます。わたしのブログでは、2019.1.24と2019.1.30にこの問題を扱っています。

 

以上が私からのお願いと報告でした。

 

これから本格的な夏がやってまいります。

どうぞお元気お過ごしください。

7月14日、シュトゥットガルトにて

仲正雄

 

 

 

母の93回目の誕生日

2019年7月11日

今日九十三歳になった、大正十五年生まれの母がいます。母はいまだにユーモアたっぷりで、私が悪戯っぽく口にする言葉に巧みに答えるほどで、その母の姿を目にするたびに微笑んでしまいます。一体どこにこのエネルギーがあるのか不思議です。そしてユーモアについて深く考えるキッカケにすらなるのです。ユーモアが知的な能力とは別のものだとは自分なりにわかっているのですが、高齢の、記憶が年相応に不確かなものになっているにも関わらず、母にはユーモアがまだ備わっているのを見ると、ユーモアは本当に知的能力の産物でないことが確信できるのです。九十三歳になる母を見ていると、ユーモアというのはむしろ私たちが生命力とよんでいるものに由来するのだと思わざるをえないのです。

母はほとんど病気らしいものをしません。時々咳が出たり微熱があったりする程度でとても元気です。まだ自分の歯が全部あるというのが自慢で(虫歯もありません)、そのためなんでも美味しくいただけるので元気なのかもしれませんが、一般論では片付けられない母独自の生命力を母を見ていると感じます。その元気と飄々としたユーモアは二股に分かれたしなやかな一本の枝のように見えてくるのです。

母の答える剽軽な冗談混じりの言葉はウイットに富んだものというより余裕からくるものです。私はそれこそがユーモアのセンスというものだと見ています。その言葉を聞ていると、「このユーモアがある限りまだまだ長生きをしそうだ」と直感しますし、「なんとも頼もしい母だ」と息子ながら感心してしまうのです。

 

母の人生は波乱万丈でした。女学校(今でいう中学校)に入るやいなや戦争に突入し、焼け野原の校庭で卒業式があり、戦後の混乱期に二十一歳で、姑と父の甥っ子がいるところに嫁いだのです。普通には苦労人ということになるのでしょうが、母の口癖は「みんな同じよ」「人間は死ぬまでわからないのよ」ですから、降りかかる困難を「柳に雪折れ無し」のことわざ通り、さられと振り落として生きてきたのでした。

この人生に向かうしなやかさ、これはまがいもなくユーモアに通じているようです。

 

今日は、おいしい懐石料理をお昼に食べ、ドイツの孫とひ孫娘とスカイブで話し(もちろん私の通訳でですが)、たっぷり昼寝をして、おやつを食べた後小休止し夕食の支度をしながらこんな会話をしました。

 

今日は誕生日だったね

そうでしたね

疲れたでしょう

大したことないわよ、大丈夫よ

明日も誕生日の続きをするの

続いたらやっばり疲れるかしら

毎日誕生日だったらどうする

それは大変ね、ごめん被るわ

 

そう言いながら母は美味しそうにお素麺と八宝菜を食べたあと、片付けをし、台所で洗い物をして、その後部屋に向かい大好きなお風呂に入る支度を始めていました。

治療から治癒へ - 新田義之氏を訪ねて。

2019年7月10日

先日、45年ほど前に「人智学的観点から見た治癒教育の実践」を奥様と共訳された新田義之氏をお尋ねしました。私がドイツに行くきっかけとなったのは、この本であり、訳してくださった新田義之・貴代ご夫妻だったのです。

本の中に書かれていた内容と、そこに載っていたいくつかの写真はまさに衝撃でした。そこには障がいを持った人たちとともに生きながら、普通はそこにどうしても漂ってしまう暗さがなく、却ってのびのびとした大らかささえ感じられたのです。この明るさとの出会いは障がいを扱った書物としては初めての体験でした。そしてそれに加えシュタイナーの神秘的な思想と、障がいを持つ人たちとの具体的な社会実践という、普通はどう考えても結びつきようのない二つの世界が、文章と写真を通して一つに感じられたことでした。

新田ご夫妻との縁は、さらに続きます。私たちの結婚の折に、当日の式で親の代理をしていただいたのです。ドイツでの結婚式に両親にいてもらいたいとは思いつつ、言葉の通じない両親の通訳をしながら式を進めてゆくのは無理と考えていた時、交換教授としてドイツに来ておられたご夫妻に親の代理をお願いしたのでした。

 

新田義之氏の鵠沼のご自宅への訪問は今回が初めてではなく、私が日本に帰った時には定期的に顔を出すようにしているのですが、今回は偶然にも、先ほどの「治癒教育の実践」に話題がおよびました。なぜ今までこのことに触れずにいたのかが不思議でなりませんでした。氏があの本のタイトルに使われたHeilenの訳語に「治療」ではなく「治癒」としたのか、また「治癒」と「治療」とは何が違うのか、娘さんも加わり二時間に渡り熱く語り合いました。

もともとHeilenは「治す」という意味ですが、heilという形容詞「無事に、安全に、安心を願って」という言葉と関係する一方、「聖なる=holy」にも連なるものです。この本のタイトルはHeilende Erziehung aus dem Menschenbild der Anthoroposophieで、表面的に訳せは「人智学的人間の捉え方から見た治療する教育」となるのですが、それではあまりに露骨すぎます。露骨以上に無知です。というのは、ここでのheilendeは治療ではなく、安心して守るの意味だからです。また教育は間違っても治療メソッドに組み込まれるようなものではないからです。教育は文化です。この座標軸を押さえておかないと教育を見誤ってしまいます。文化の中で人は守られ育まれるので、教育を治療メソッドのひとつとして捉えたり、教育で人を治療すなどと考えるならば、人間を、そして文化をないがしろにしているだけでなく、教育を誤解したことになります。

新田氏はドイツ語に深く通じていらっしゃいますから、話は自然と、自動詞と他動詞の文法解釈に及びました。ここでは私流に解釈したものを述べておきます。例えば英語のseeとlookの違いで、他動詞のseeは具体的に何かを見ることで、自動詞のlookは同じ見るでも見ている状態となります。ドイツ語では他動詞のsehenが英語のseeで何かを見るとなり、英語のlookは自動詞のschauenという言葉で、見ている状態を表します。周囲の360度全てに対してみる状態にいるということで、このschauenから世界観という言葉Weltanschuungが生まれるのです。この世界観という言葉は理解しにくい言葉ですが、自分が今どのような状態で世界に存在しているのかという意味で、イデオロギーと混同されますが、イデオロギーのように、ある行動に扇動するものではなく、のんびりと世界を見渡している状態なのです。例えば「ゲーテ的世界観」は納得できても「ゲーテ的イデオロギー」はゲーテの本質から外れています。自動詞は状態を表すbe動詞のようなところがあり、lookが見ている状態だと言ったように、行動としての見るよりも、どちらかと言えばぼんやり周囲を感じながら見渡している状態を説明しているのです。

治癒と治療とは混同されて使われますが、今述べたように違った働きを表しています。自動詞と他動詞、状態と行動の違いと言えます。おそらく最近になって混同が生じたのでしょう。昔は二つの違いははっきり認識されていたのではないかと想像します。そして現代という時代の流れの中で、治癒という捉え方は治療という勢いに飲み込まれてしまいマイナーなものになったと考えています。治癒は自然治癒力という言い方が示すように、私たちに内在する、健康になる力で治癒されることで、治療というのは外から施される施術を通して健康になると解釈してはどうでしょう。治癒と治療を比べるとわかりやすいのは治療の方で、病気の時に人に聞かれて答えるのは治療についてです。それによってどのように治癒していったかに耳を傾ける人は少ないと思います。

治療のことは確かに説明しやすく、そのためなのでしょうか、治療法が今日ほど多様化した時代というのはありません。なぜかと考えてみると、生活空間の中にあるものに治療という考え方からアプローチし、メソッド化して、健康に役立つ治療法として確立し、制度化し職業としてお金が取れるようなシステムに組み込んだことで、社会的な広がりが生まれたということです。音楽治療、絵画治療、温泉治療、森林治療など挙げれば枚挙にいとまがありません。

治癒というのは状態のことなので外からは見えないものです。治癒されてゆくというのは状態の変化のことです。「病は気から」ですが「健康も気から」なのです。そして変化の様子は本人の意志力に還元されるため、治癒について他の人に説明することは難しく、もちろん職業として社会的に広がる道も閉ざされています。治療する人を「何々療法士」とは言えても、治癒は本人の「意志力」が問われているだけですから職種としての肩書きにはならないのです。

 

治療に飲み込まれてしまった現代人の健康観を一面的すぎると感じるのは私だけでしょうか。もう一度「治癒」という考え方を思い出して、「治癒」という観点から健康を見直してみてはどうでしょうか。新田義之氏の先見の明が「治癒教育」と名付けたにもかかわら、今日では「治療教育」と使われているようですが、heilの持つ「安心を願って」、「安らぎのある」という意味をこの機会にもう一度噛み締めてみたいものです。