2025年7月12日
悩み多き人生の中で私たちの選択の方法は三つあります。
一つ目は、あれかこれか。これが一番オーソドックスなものかもしれません。二つ目は、あれもこれも。欲張っているともおおらかとも取れるものです。三つ目は、あれでもないこれでもない。これは相当問題があります。消去法的なので不幸な人をイメージしてしまいます。
ということで三つなのですが、これ以外にはないというのも面白いものだと思っています。
人生というのはあれこれと悩みながら生きているわけですが、一人の人間の中だけでなく、例えば宗教の選択になると、必ずあれかこれかの選択が迫られます。キリスト教のような一神教にあっては神様はいくつもあってはいけないので、自らが信じている神様以外はないわけですから、それ以外の選択方法は考えられません。キリスト教の歴史を見ると、キリスト教を選ばなかった人たちはみんな殺されたのです。アフリカでもアメリカでも生き残るためにはキリスト教徒にならざるを得なかったということです。こうして世界を征服して世界宗教になったのです。
日本の宗教観はこれもあれもと言っていいかと思います。八百万の神様がいるのです。すべての自然現象の背後には神様がいると考えられています。仕事をする同区の背後にも、食べ物の背後にも、木や草や花にも、虫にも神様がいるのです。新しい宗教が入ってきても八百万の神の中の一つに組み込まれてしまいますから、日本側すらすると「どうぞ」ということなのですが、キリスト教やイスラム教やユダヤ教などの一つの神様しか認めない側がもんだんを感じているだけです。キリスト教が国民の1%にも待たない数しか信者を獲得できないでいる日本ですが、一つの理由は、一神教を貫いているためだと考えているからではないかと思うのです。日本人的にはなぜもっと寛容に考えることができないのかとただただ不思議てす。
輪廻転生という考え方を見ても、今の人生だけでなく、他の人生を認める考え方と、それを否定する考え方で別れます。私は両方を認めるものです。この人生は一回きりです。これは紛れもないことです。それははっきりしています。しかし他にも人生があったと考えることは、否定する材料が乏しすぎます。時間が連綿と続いているのですから、あると考える方が自然でもあります。むしろそれを否定する材料を見つける方が難しいのではないのでしょうか。最近では前世の記憶を持った子どもがたくさん生まれているようで、それを否定するのは逆に困難です。
一回きりの人生というものは全く正しい考えです。しかしいくつもの人生があったと考えるのも全くありうるものなのです。両立できる考えだと私は考えるのですが、あれかこれか派はどうも納得がいかないようです。ただ時勢は変わってきているようで、他生の縁という考え方も広がりつつあるようにも見られます。
あれでもないこれでもないと言う極端な消去的方法は、人生を否定しているように見られがちですか、必ずしもそうではなく、冷静に問題を解決するときには、いくつかの前提を吟味しながら、これでもない、あれでもないと消去することが重要なプロセスになります。
知的である、知性のある思考というのは衝動的なものにブレーキをかけるような役割が与えられているようです。水をかけるという言い方がありますが、まさにそれです。しかし思考一辺倒になるとなんにでもブレーキをかけてしまうことになり、あれもダメ、これもダメということになってしまいます。小さな子どもの前でこれをやってしまうと、子どもは遊ぶ意欲を失ってしまいます。意志の芽を積んでしまうことになりかねません。
現代社会はこの消去法が幅を利かせています。科学的に証明されていなければ事実ではないというわけですから、正しいことと信じているだけのところに水をかけているのです。水掛論の極まった社会と言えるのかもしれません。これを支えているのは極端に走った知性信仰ですが、それと共に不信感という信じることをよしとしない社会的な風潮も見逃せないと思います。信頼感というのは人間視野界を形成するのに大きな力の根源でもあるからです。
幼児期の子どもには先天的になんでも信じてしまう能力が備わっています。模倣力の源となっている力です。信頼する力がなければ、周囲を模倣することなどしないものです。信頼は一つになるということですから、今真似をしているものと一つになろうとしているのです。意志の力です。そしてあれもこれもと批判的に選択するのではなく、なんでもかんでも、あれもこれもと吸収してしまうのです。この模倣力がなければ人間は言葉を喋る存在としては存在していないはずなのです。大人は思考で外国語を学ぶので、潜在的にはその言葉と距離を置いてしまっているということで、子どものようには習得できないのです。子どもに帰ればいいのですが、それが出来ないので学問的に文法を手がかりに一生懸命理解しようともがいているのです。
日本的な八百万の神などというのは、西洋的一神教からすると子ども騙しに見えるようです。確立された教義がないのは宗教とは言えないと見下されるわけです。教義などと言うのは言葉で例えれば文法のようなものですから、文法で言葉が喋れるようにならないように、教義で信頼が作るものではないのはないかと考えるのです。
これからの人間社会の中で、あれかこれか、あれでもないこれでもないが今までのように幅を利かせるとなると、明るい未来が見えてこないような気がしてならないのです。
2025年7月11日
我が家の庭には時折ハリネズミが現れます。最近はめっきり見かけなくなったのですが、昔は夕暮れ時によく見かけたものです。また秋口の枯れ葉が積もっている時などに夜中にカサカサと音を立てて散歩していたようです。
突然ですがテールスープを作ろうと思い立ち牛のしっぽを買って煮出して、そのときの骨をビニールに包んで外に出しておいたら、夜十時頃そのビニールの袋の周りをうろついているハリネズミを本当に久しぶりに発見しました。嬉しくてみんなに声をかけてしまいました。
ネットで調べていたら、嗅覚の優れた動物だと書いてあって、しかも好奇心が強いので珍しい匂いにはとても敏感だとわかり、牛の尻尾の骨の匂いに惹かれたのだと納得しました。
ハリネズミは、畑をしているときの悩みの種のなめくじを食べてくれるそうです。我が家では妻が畑をしているのでハリネズミの訪問は大歓迎で、できれば餌付けでもして、夜な夜ななめくじ退治に来てくれるとありがたいと願っているようです。
どこで子どもを産み繁殖しているのかわかりません。昔は天敵のキツネ、テン、アライグマが夜な夜な庭を徘徊していて、彼らの犠牲になって針だけの死骸を目にしたものですが、今はそれらの点滴が転居?したようで、ハリネズミにとってはかなり住みやすくなったので遊びに来てくれたのかもしれません。昼の間は庭のどこかに穴でも掘って隠れていると想像します。小さい動物で、動きものんびりしている割には半径三キロ以上の行動範囲があるということで驚きです。
私を見て逃げ出した時は思った以上のハイスピードで短い足で小走りに逃げてゆきました。
ドイツでは縁起のいい動物ということになっています。幸福をもたらすという言い伝えもあると聞きます。ローマでは農業の神様として崇められていたそうです。
見てくれはずんぐりして、針だらけで、色もグレートーンで色気などはないのですが、愛っ苦しく、どことなく憎めない愛嬌のある動物です。びっくりしたりすると針を立ててしばらく小さく丸まっています。絶滅の危機にあるという話もあります。車に轢かれないで生き延びてくれといつも祈っています
ほとんど一人でのそのそと歩いて食べ物を探しているだけなのですが、そんな一途なところが私にはとても神秘的に映るのです。
我が家の庭を訪れる動物の中でも一番人気のようです。
2025年7月5日
最近の日本の情勢を見ると、日本をリードしようとしている大臣級の人たち、高級官僚の人たちのスケール小ささに失望します。頭はいいのでしょうが、人格が育っていないのが見え見えです。そのような諸大臣に日本という国を預けて大丈夫なのかと心配ばかりしてしまいます。
大臣、官僚のほとんどが高学歴です。成績優秀で一流大学に進んで、難しい勉強を収めた人たちです。例外は田中角栄という高等小学校しか出ていなかった総理大臣です。彼以外は優秀な成績で、素晴らしい学歴をお持ちの方がほとんどです。それなのにだらしないとしか言いようのない政治をします。利権などの誘惑にまんまと乗ってしまっていて、日本という国のための政治をするという覚悟はほとんど感じられない人たちの集まりです。
そうした大臣級の人たちを江戸から明治に移行するときに活躍した人物と比較してみると、大変なコントラストが浮かび上がってきます。確かに理屈を捏ねるのはうまいし、それに伴って嘘も蔓延していて、今の政治家たちは辻褄合わせの人たちばかりが浮き上がって、芯のある人格を感じることがないのです。
江戸から明治に移りゆく中で実に多くの魅力ある人材が輩出しています。その状況は今の状況とは真逆のような気がします。明治へと移行させた彼らは江戸時代を象徴する寺子屋で学んだ人たちだったと想像します。今日的なエリートという存在ではなく、家柄によって選ばれた人たちだったのでしょう。
寺子屋では読み書き算盤というのが基本でしたから、今日のような知識、情報などはほとんどなく、中には難しい漢文を読める人たちもいましたが、それでも国際情勢を教える機関なとは皆無でした。知識の量からすれば実に貧しい学びだったということになります。
一方で魂の力が寺子屋では育っていたのではないのでしょうか。それによって開国と同時に世界と渡り合う状況下でさまざまな発想が生まれ、西洋の列強と張り合えたのでした。芯のある気骨のある人たちだったからできたのです。教養や知識ではなく人格がしっかりと形成されていたということです。彼らは教養という観点からの知的教育を受けていなかったのです。実生活を中心としたものから学んでいたともいえます。そこで想像力、創造力が培われたのでしよう。書道で字を書いたり、同時に文字を覚え、ある程度の本が読めたのでした。それを音読し、暗記しというのが学びでした。人間の機能力の育成ではなく、中身の育成だったのでしょう。ちなみに江戸時代の日本人の文盲の数は西欧の文明国と比べても極めて少なかったことが報告されています。
なぜその程度の知識で、開国の後の世界情勢と向き合うことができたのかと考えるのは無駄なことではないと思っています。私たちの時代のように溢れる知識と情報に振り回されているのとは逆で、ごくわずかな教材を繰り返し暗唱するまでじっくり時間をかけて学んだのでした。彼らは知識を学んだのではないということです。そうではなく寺子屋では意志を育てたのでした。意志が育ったことにより感情的にも安定した筋のある人間に育ったのです。私たちの時代のように知性に働きかける教育は、社会の役に立つ機能人間は育てられても、芯のある個性というのか意志の力は育てられないようです。意志が育っていた江戸から明治を生きた人たちは、判断力にも優れていたと思います。今は知識に頼って、あるいは知識だけで判断してしています。それは判断ではなく統計なのではないかと思います。極端な例はAIです。みんな機械が答えてくれるので、人間も機械になってしまったと言えるのです。
知性ではなく、意志を育てられた江戸から明治にかけての人物たちは、自分に自信があったようです。面構えが違います。しかも鋭い判断力を持って、直感によって当時の複雑な社会を引率出来たのでしよう。もちろん美談ばかりでなく、さまざまな外部からの圧力があったことはよく知られていますが、彼らは意志を育てられたことで、しっかりとした個性を培っていたという側面はしっかり強調していいと思います。
知性に振り回されると意志は弱ってしまいます。辻褄合わせに走るばかりで、想像力が失せてしまいます。現代社会は意志薄弱症候群とでもいいたいような、判断力を持たない人間たちの集まりになってしまったのではないのでしょうか。かつてテレビが普及し始めた時に、大谷壮一という人物が「一億総白痴化」という言葉を編み出しました。それによく似ています。個性を感じられないような人ばかりになって、教育界は大慌てで「個性を育てましょう」などと躍起になっていますが、意志を育てておけば個性も判断力も並行して培わされて行くはずです。
エリート教育で育った今の政治家たちは個性も判断力も育てられず、一般論的な意見ばかりを羅列して満足しています。国会中継などで目にする質問に対する大臣や官僚からの答弁は聞くに堪えないようなものがほとんどです。こんなに貧しい人たちが政治家として働いているのかと思うと、情けなくなります。しかしこれが確実に戦後教育の紛れもない成果なのです。教育とはこれほどまでに人間を腐敗することもできるものなのだと改めて思い知ります。新しい意味での教育を求めたくなってしまいます。