ガツガツ

2025年6月15日

最近は貪欲とは一味違うガツガツが支流な気がします。ガツガツというのは言葉の響きが表しているように、際限なくもっともっと言っているようです。

同じようなことをいう貪欲は、ガツガツとは少し違います。貪欲の方には節度が感じられるからです。

我が家には池があります。金魚達がスイスイと泳ぐことができるほどの大きさです。

池がてきてすぐに友人が金魚をくれました。その時から水を泳ぐ金魚に魅せられては池を覗き込みます。ある時子どもたちが餌をやりたいと言い出したのです。どんなものを買ったらいいのかわからなかったので、金魚を売っているお店でたずね早速餌を買ってきました。そして子どもたちは餌やり、その餌を金魚が食べるのを見て楽しんでいました。

ある時大学で生物学を教えている友人が訪ねてきました。池で金魚を飼い始めたと話すと一緒に池の金魚を見に行きました。池の金魚を見て即座に「餌をやっているだろう」ときつい声で言うのです。私はすかさず「子どもたちの楽しみになっているので」と答えました。難しい、訝しい顔をして、「金魚は自分が住んでいる池の大きさを本能的に察知するんだ。そしてそこから得られる食糧にふさわしい数の子どもを生むので、こっちの勝手で餌をやると、自然のバランスを壊すので、餌やりはすぐに止めなければだめだ」と厳しく言ったのです。「なぜわかるのか」と聞いたら間髪入れずに、「池の大きさに対して数が多すぎるから」と一言で言い切りました。

その話を聞いた時、いろいろな思いが頭の中を駆け巡りました。まず何よりも「金魚は賢い」ということでした。金魚に限らず生き物たちの本能はすごいものだと感心していたのです。そんな本能が生物には備わっているものなのだと知ってからは、子どもたちに「餌やりは金魚にとってよくないことなのだそうだ」と諭し、それ以来餌はやっていますせん。

「身の程を知れ、弁えろ」と言う言い方は多分今の時代感覚からするとずれているのかも知れません。もしかすると死語かも知れませんが大切な内容を含んでいるように思います。金魚の池の大きさと子孫を産む数の話は、池の金魚を見るたびに思い出します。彼らは身の程を弁えている素晴らしい存在なのです。

この金魚の本能は貪欲とガツガツの違いを考える時にも、何か参考になるような気がします。貪欲には身の程を弁えた限界を感じますが、ガツガツは際限なく「もっともっと」です。特に今の時代に突出した大金持ちたちの様子を知らされると、なんでそんなに桁違いのお金が必要なのかと考えてしまいます。お金はないと困るものですからある程度は必要なものですが、桁違いの金額は私の想像力の枠を遥かに超えているようです。欲と言われているものの中で、金欲と権力欲は始末の類ものようで、一番露骨に「もっともっと」が目につきます。人間の場合は本能で自生するのではなく、思考力によってです。思考を鍛えなければならないのです。思考力にはブレーキに似た力が働いて「もっともっと」を抑えてくれているのです。

現代人の一番の盲点は、自分で考えて行動するということです。考えなくても解決の助けとなる知識はすぐに得られることが、自分でコツコツと考えることを放棄する原因です。まさに一億総白痴化そのものです。

一人でコツコツと考えと行動している人、特にものを作る職人さんたちは、外目には孤独な作業と映りますが、この孤独は思考によって、あるいは別の言葉で言うと精神力によって貫かれた強いもので、今日の社会現象である孤立とは違います。

考えることが人間に品格をもたらすのではないのでしょうか。一人一人が考えると言うことをもう一度生活の中に取り入れるようになれば、社会には違う価値観が生まれるような気がします。

ガツガツが蔓延している間は、基本的なルールも価値観も無視されて行くだけのような気がします。

言葉の種類

2025年6月13日

言葉の種類と聞くと、大抵は外国語のことが思い浮かびます。

先日かつて一緒に勉強した人が66歳の誕生日をするからと誘われ行ってきました。ドイツの中でもフランスやルクセンブルクに近いところに位置しているモーゼルワインで有名なところでした。

そこでルクセンブルクのことが話題になり、お嬢さんがルクセンブルクの銀行で働いているという人と話がはずんで色々と新しいことを耳にしました。ルクセンブルクは人口70万人にも満たない小さな国なのに180の銀行があるということでした。世界の泡銭が流れ込んでいるという意味では、小さなスイスのようなものだというのです。ちなみにお嬢さんは五カ国語を話すことができると言っていました。いろいろな国とのコンタクトが命ですから、銀行員は大抵そんな感じで幾つもの言葉を話せなければならないのだそうです。そして33歳のお嬢さんのお給料はというと月150万は下らないということでした。それにボーナスがつき手当がつくのだそうです。五か国語という特技がものをいうのでしょうが、なんだかバランスの悪いものを感じました。

そんな話を支援学校の先生をしていらっしゃる方に話したら、私は学校で三つの言葉でやっていると言ってくるのです。ダウンちゃん語と自閉さん語と同僚と話すときの先生語というのか職員室語を使い分けて毎日やっていますということでした。なるほどと思いながら聞いていました。確かに全く違う対し方が求められるわけで、当然言葉遣いも変わってこなければならないわけですから複数言語文化ともいえそうです。子どもたちは純粋で可愛いので苦にならないけど、職員室で先生達と話すのが一番大変だと言っていました。先生同士で話すと通じているのか通じていないのかよくわからないことばかりだと笑いながら言っていました。三カ国語ではないですが、三通りの言葉遣いをすると、三カ国語に近いものがあるのかもしれません。

むかしあるお母さんが話してくれたのですが、子育ての時は言葉遣いが子どもの成長段階によって変わるので面白いと言っていました。長男は中学二年、長女は小学三年、次男が五才、そして末っ子がまだ一才という家族構成で、思春期に入った長男と喧嘩腰で話して、その後すぐに一才の子の所に行くと天使のように優しくなって、全然違う自分が話しているような気がするのだそうです。さらに小学生が帰って来たり幼稚園の子が泣き出したりすると、違う世界の言葉を一人ひとりの子どもと話しているみたいになるそうです。そこに旦那さんが帰ってきたりすると、一人で何役をこなしているのだろうと我ながら感心してしまうというのです。

ドイツに来たばかりの人たちがよくいうのは、ドイツ語を話している自分と日本語を話している自分は違うということです。もちろん母国語と外国語とは全く次元の違う別物ですから、当然といえば当然なのですが、ドイツ語というのがとても理屈っほい言葉なので、話をある意味で論理的に組み立てないと相手に伝わらないというところは、日本語とは大分違います。そこに流暢な母国語とつっかえつっかえの外国語の違いが加わってくるのですから、分裂した自分を感じるのかもしれません。私のようにもうそろそろ50年もドイツにいると、言葉の切り替えはまるでカメレオンが環境で色を変えるように相手によってコロコロと変わってしまいます。

言葉と人間というのは不思議な関係です。言葉によって鍛えられるものがあるようです。母国語だけで生きている人と沢山言葉を使い分けている人がいます。沢山言葉を話す人を見ていると、この人たちの人格形成は大丈夫なのだろうかと心配してしまうこともあります。お父さんの仕事の関係で世界七カ国で生活したという人と一緒に仕事をしたことがあります。もちろんそれだけの言葉ができるので便利と言えば便利なのですが、それは世界旅行をしている時位で、その人が言うには、どの言葉も深くきわめていないから、言葉を通して文化に入り込めないというのです。それはとても歯がゆいものだと言っていました。その話を聞いて、言葉というのは沢山喋れるというより、深く一つの言葉を身につける方が、その人の人格形成には大切なことなのかもしれないと感じていました。

今日もまた取り止めのない話になってしまいました。

教養というのはなんでしょう

2025年6月12日

教養特集、教養番組、という具合に、昔はなんでも教養というのが被さっていたような気がします。今の状況からすると有機、Bio、無添加というのに似ています。かつての浅草六区で名を成したミスヤバーというお店で発案されたカクテルは電気ブランという奇妙な名前のものでした。ブランデーをベースにしたカクテルというだけなのですが、当時の流行はなんでも電気がついたので、カクテルにも電気がつけられて、電気ブランとなったのでした。

思い起こすと教養小説と呼ばれたジャンルもあったようです。内容はお説教臭さは否めないものだったように記憶しています。文化というのは教養から生まれるということを信じていたのでしょう。教養は一つのステータスでした。学識人たちの知識です。とはいえ知的な側面の強いもので創造的な要素は含まれていないので、教養に支配された社会はお利口さんばかりが排出されることになるのですが、それで社会が豊かになるかというと、私は疑問に感じます。例えば、みんながお巡りさんになっても、社会がよくならないようなものです。ドイツがまだ二つに分かれていた時、共産主義というのか社会主義というのか東ドイツと呼ばれた国がありました。そこには秘密警察機構が張り巡らされていたのです。東ドイツが良しと考えた社会制度を維持するためには役に立ったのでしょうが、制度、組織のためのもので文化的には全く力のないものでしたから東ドイツは崩壊してしまいました。そういうものでは文化を基盤とした社会というのは健全に維持されないものだという良い経験になったものです。一人ひとりが文化的に目覚めないと社会は維持できないものだと思います。

それに関していうと主観が大事たということでず。ところが物事を客観的にみなければならないとはよく言われることです。しかしその客観的というのも注意してかからないと危ないところがあります。一般的なというふうにたなびいてしまうと、集団意識のようなものになってしまい、全体主義に加担してしまいかねません。大事なのはやはり主観です。一人ひとりがどう感じ、考えているのかということが、社会とか集団とかの中に生きていても守らないとならないものなのです。みんな一匹狼、みんなアウトサイダーという感じが健全を保つためには必要なことのような気がします。

とは言っても主観的な考えを一人ひとりが主張しているだけだと、社会はギクシャクしたものになってしまいます。大事なのは一人ひとりがお互いに尊敬の念を持つことです。リスペクトとするということです。これを欠いてしまうと、主張と主張とがぶつかり合うだけで、まとまりがなくなってしまいます。お互いに尊敬の念を持ちながら共同生活が営めたら、それが一番です。

民主主義というような美しい言葉は、なんだか危なっかしく、いくらかごまかしがあるような気がしてならないのです。人民が主役だということなのでしょうが、そんなことは今までに一度も実現したことがないことなのです。もしそんなようなものができたとしても、ほんの一瞬の短い陽炎に似た命のような気がします。私たちは民主主義だと信じ込まされているだけなのかもしれないのです。教育のおかげでしっかり洗脳されているのです。

最近のネット社会、SNSなどを見るとコメントが氾濫しています。なんにでもコメントするという風潮が蔓延しています。なぜだろうかと考えたのですが、自分を優位に置きたいという本能からのような気がします。何にでも一言申したいのです。それは尊敬の念、リスペクトとは水と油のようなものです。相手を敬うのではなく、自分で自分を敬っているのですから始末が悪いとしか言いようがないような気がします。相手を敬うというのは上等な精神で、自分が謙るということが必要なことが多々あるのです。自分を卑下するのではありません。卑下と謙譲とは違うものです。相手もを少し持ち上げるが、自分を少し引くかの違いはありますが、どちらも社会を健全にする力であることには変わりないと思っています。

教養の話からとんでもないところに来てしまいました。教養という知的な社会のおしゃれのようなものがない社会に生きてみたいです。みんながお利口さんになった今の社会が決して私たちが望んでいるものではないので、教養は案外邪魔なものなのかもしれません。教養が満ち溢れてもよくなることはあまりないような気がします。かえって悪知恵が横行して、醜い社会になってしまいかねません。教養の源は知性でしょう。この知性というのは使い方を間違えると詐欺師のようなところがあって悪賢いものなので要注意です。

みんながお利口さんになるのではなく、尊敬しあえるような社会が欲しいものです。ところで一体尊敬の念のようなものはどのようにしたら培われるのでしょうか、教育の中で、教育というシステムの中で教えられるものなのでしょうか。それとも先天的なもので。持っている人は持っていて、持っていない人はどんなに教えられてもいつまで経っても持てないものなのでしょうか。