門前の小僧

2019年10月16日

ゼロ歳の時からおじいさんの籠に入れられキノコ採りに出かけた人の話です。おじいさんが土地でも有名なキノコ採りの名人だったため、Tさんは気が付いた時には、門前の小僧の様に習わずしてキノコの生き字引になっていたそうです。
生き字引と呼ばれ一目置かれた訳ですが、大量の知識ではなく、経験で培った直感からキノコの育ち方、森の中でのキノコの現実を見抜くことが出来たのです。ですから実際には字引以上のもので、Tさんのことを聞きつけたキノコ研究の大家、某大学の教授、から目をつけられます。

ある日「たってのお願いです」と頼まれ一緒に山に入ってキノコ観察をしたことがあるそうです。
私がみるところでは、キノコとTさんの間には隙間がなく、竹のことは竹に習えが身に染みついているのです。身についているので特別に身構えることがなくいつも自然体でさりげなくキノコの不思議な世界を垣間見せてくれるのです。

「Tさん、キノコは毒キノコですよね」
「・・・?!」
「あの有名な 毒キノコの一種だと思うのですよ」
「・・!?」
Tさんからするとその年は雨が多く、キノコはそうなるといつもとは少し形を変えるとおじいさんからの伝授でしたが、教授のプライドを傷付けてはいけないと黙っていたのだそうです。その大家は大学に入ってからキノコに興味を持ち、コツコツと研究をした努力の人でした。とはいえ主な知識は書物からの知識でキノコを観察する姿は、キノコの生き字引のTさんからするといささか歯痒いもので、生徒さんを連れてこなくてよかったと言う場面はそれ以外にもいくつかあったそうです。
おじいさんは寡黙でTさんが大きくなって自分から質問するまで何も教えてくれなかったそうで、そのぶんTさんはおじいさんの仕草の一つ一つが目に焼き付いているそうです。おじいさんの存在が本当の意味で良い手本だったと述懐します。

おじいさんの動きが知識そのものだそうです。キノコを探しているおじいさんの目、その目はキノコだけでなく森の中の自然全体を捉えていたのです。キノコを見つけキノコに向かう時の足取りや姿勢が全てを語っていたというのです。

おじいさんはいつもキノコから呼ばれているようだったそうです。

Tさんがキノコの世界と一つになれたのは、おじいさんが何も教えてくれなかったからだとTさんは確信しています。教えられたことを子どもは覚える、そう思うのは大人の錯覚です。教えられたことを覚えると考えるなんて、とんでもない迷信です。実際は反対で、Tさんのように教えられないから覚えるのです。矛盾している様ですが、これが本当の学びの姿です。
赤ちゃんが生まれてすぐ言葉を教えられたら、赤ちゃんは言葉を覚えないでしょう。そんな風に覚えたら機械が喋る様に喋るかも知れません。教えないからパーフェクトに覚えるのです。教えられないから流暢に話せるのです。教えられないから言葉の本質が見えてくるのです。そうして覚えたものは揺るぎのないもので、自信となってその人の人生を支えるのです。

今日、敎育と言う名のもとに蔓延している多くの誤謬の本質がここにある様に思えてなりません。

恥ずかしいという感覚と自我

2019年10月9日

私シャイなので、というのと、恥の意識、つまり恥ずかしいと感じる意識とは違います。シャイは性格に属しているものですが、恥かしいと感じるのはどう言うものなのでしょう。

恥ずかしいと感じる方は深いところに根拠があるようです。ではどのくらい深いのでしょう。

先ず咄嗟に言えるのは恥ずかしいと感じなくなったら要注意だろうと言うことです。なにが要注意かと言うと人間関係で支障をきたすからです。羞恥心があると言うのは人間としての健全さを保つために必要なものだということです。

人間関係の中で相手を思いやることができるのは羞恥心と関係しているように思えるのです。自分しか見えなくなって、自分を正当化することに翻弄すると、羞恥心は消えて迷惑極まりないことになります。世界を見渡すと羞恥心というのは民族的に随分温度差のあるもので、日本人として持っている恥意識は日本の中での基準で、外国に行った時にはそのまま通用しないものなので要注意です。

とくにイデオロギーに突き動かされている人たちを見ていると羞恥心は姿をくらませていて見えないものです。全くなくなってしまう事もあります。イデオロギーという大義名分で自己正当化ができてしまうからです。

 

日本文化を恥の文化といった人がいます。菊と刀の著者ベネディクトで、西洋キリスト教社会の罪の文化に対して、日本文化を世間体を気にする恥の文化としました。内面の良心から生まれる罪の意識と世間体を気にしているだけの恥の意識ということになるのでしょう。罪と恥を巧みに使い分けているようですが、わたしには的を外しているように思えてならないのです。

西洋のキリスト教文化は潜在的に罪の意識から自分を解放できないでいるように思えてならないのです。原罪、つまり楽園追放はトラウマと言えるかもしれません。そのため自己正当化という巧みな武器を作りあげ、それによって自分を防御しています。そこのすり替えが西洋的な狡猾さだと思うのです。それだけでなく、更にその自己正当化が自我というものにすり替えられてしまいました。西洋文化は良心の文化で、日本には恥意識からの世間体があるだけで人間としての基本、つまり自我がないということにすらなってしまったのです。

 

恥ずかしいと感じるのはいつ頃からかと考えてみると、世間に対してどうのこうのという以前のことです。相当幼い頃に備わっているもののようです。自我の誕生と平行しているのかも知れません。相当早い成長段階で既にみられるものです。それにひきかえ原罪、罪の意識というのは宗教的解釈によって作られた生産物なのです。恥意識があって初めて生まれるもので、私には羞恥心の方が根源的なものと思えるのです。

 

 

腹八分目、人六分目、真実半分

2019年10月2日

腹八分目で押さえて食べるのがいい。

人付き合いはのめり込んでは痛い目にあうので六分で付き合う。

真実は主観的なものだから、他の人が考えている真実と分かち合いながら五分で主張する。

 

昔言われたことが人生を少し経験してみるとわかるようになってくるものです。

 

満腹まで食べたら大抵は食べ過ぎです。過ぎたるは及ばざるがごとしの通りです。

人付き合いに関して昔はそんなバカなと思ったものですが、年をとるとそんなものかと納得してしまいます。どんな人でもある程度は疑ってかかれということなのでしょう、しかし六割は信じて付き合わにないと付き合いを維持することはできません。

真実が主観的なものというのにはなかなか気づきませんでした。哲学、イデオロギー、宗教というものはそこに居場所を見つけた人間にとっては絶対的なものと映るのでしょうが、その外側にいる人達からすれば、思い込みと思われているわけです。どちらも譲らず、引き分けですから、どちらに軍配をあげることもできないのです。