草書と行書と楷書

2024年6月13日

書道ではこの三段階で書体を整理しているようです。

私は書を嗜んだことがないので、詳しい法則は知りませんが、うまくできているものだと感心するのです。

これを言葉に応用してみると、楷書を論文に書くような形式通りの言葉遣いとすると、行書は小説、エッセイといった散文でしょうか。では草書にあたるものは何かということですが、詩の言葉に決まっています。和歌や俳句です。近代詩をどこに入れるかは難しいです。私には散文のような詩が多いので、詩の言葉と言い切れないものを感じることがあります。でも中原中也、萩原朔太郎、木下杢太郎、若山牧水などは香り高い日本語で近代詩を作り上げたので、その業績を讃えたいのですが、やはり俳句に極まった草書的なものと比べると、説明にはしりすぎるので、散文的です。ということは行書なのでしょうか。

私の祖父は行書の名手でした。大叔父は達筆で草書を得意としていました。子どもの頃は全く読めませんでした。今もきっと読めないと思います。直筆で手紙をもらっていたら返事に困ったと思います。読めないのですが、達筆と言われる理由は字の流れから解ります。「行書は練習すれば書けるようになるよ」と祖父はよく言っていました。でも三郎さん(大叔父)の字はすごいものだよ、到底真似はできないねということでした。

私には祖父の行書の流れるような動きも綺麗すぎました。草書になると曲者という感じで彼岸の字でした。

学術的な論文の文章というのは本当に硬い文章です。しかも言葉の使い方に暗黙の規則のようなものがあるようで、日常的な表現が散らばっていたりすると。論文としては認めがたのだそうです。私はこのような文章は何度読んでも理解できないのです。六法全書の文章も同じです。法律というのは固いものなのでしょうか。フランスの作家、「ああ無情」の作者ピクトル・ユーゴーがナポレオン法典を下敷きに小説を書いたということは有名ですが、フランス文学の乾いた文章は、散文でも楷書に近い行書的散文のようです。今でも理想的フランス語ということが言われます。「最後の授業」の作者アルフォンス・ドーテの文章お手本なのだそうです。フランス文学は行書の中の楷書に近い文章で綴ります。英語は小説を書くのに向いていると思います。表現が多彩です。柔軟性もあります。日本語は言葉としては、俳句のようなものを成立させてしまうのですから異端的な言葉だと思います。この短さの中で、何かでありうるということ自体、奇跡に近いものです。

俳句の先に何があるのだろうと考えるのですが、言葉は終わって、おそらく沈黙でしょう。もう言葉では言い切れなくなってしまうからです。感動しすぎた時には言葉がなくなってしまうようなものです。

ドイツ語の諺に「沈黙は金なり」というのがあります。金はゴールドです。しゃべているうちは銀です。黙り始めると金に変容するのです。老子の「知るものは語らず」も同じでしょう。

今の情報社会、金を探すのがむずしいようです。みんな猛烈におしゃべりです。これでもかと言わんばかりに知識をひけ散らかしています。

と言いつつ私も金には程遠いいことを感じています。

体験が意識的な財産になるには

2024年6月12日

もう二十年前のことですが、ハワイにゆきました。

初めてのハワイでしたから旅慣れているとはいえドキドキでした。飛行機は七時間くらいのフライトでした。窓から見える景色は海だけでしたから、全く変化がないままの退屈な時間でした。

当時のことを思い出すと色々なことがあるのですが、あの時は漠然としていた体験が時間をおくと鮮明とまではいかないのですが、想像しなかったような鮮明さで思い出されます。個々の景色とかはその時にもインパクトがあって、ハワイにいると感じるに十分なものでしたが、ハワイという空間に包まれているということは当時は漠然としか感じられないものでした。当たり前すぎたのでしょうか。

例えばハワイというのは太平洋の真ん中で、お隣さんはとんでもない距離にある孤独な所と言っていいような孤立した場所です。大袈裟ですが日本がお隣さんです。今そこにポツンと自分がいるというのは、地図で見たり、理屈では分かっていても実際の体験としてはつかみどころのないものですから印象に残っていないのです。ダイヤモンドヘッドとか、神の浜辺と言われる透明感のある砂浜などは景色としてはっきり印象に残っているのですが、ハワイという全体のイメージは当時は持ち得ませんでした。一つ一つの印象が強烈すぎたのかもしれません。

長い時間が経って、ふと最近になってハワイのことが思い出されるのですが、そうなると逆で、個々の景色の美しさなどよりも、ハワイに居たのだ、太平洋の真ん中にぽつんと居たのだ、あの真っ青な太平洋の海のまん真ん中に居たのだと、不思議な感じがしてくるのです。ハワイに包まれるのです。しかもその独特な孤立感、包まれた暖かさが懐かしいのです。ハワイと一つになっているという感じがするのです。当時はほとんど感じていなかったのに、懐かしいとはおかしいですが、きっと無意識の中で何かを感じていたのかもしれません。

人間には時間がある。こんな単純なことが、ハワイのことを思い出し、懐かしがっているときに感じるのです。時間の中でしかわからないものがあるのだということです。

まだ昔のことを思い足して懐かしがるには若すぎますが、時間を経て熟している何がしかが私の中にも蠢いているのを感じることはあります。ただまだこれから何が起こるか楽しみだという方が過去を懐かしがるより強いようです。

音楽と言葉

2024年6月11日

音楽と言葉。

このテーマで本や論文を探すと読み切れないほどあることに驚きます。

ムシケというギリシャ語は言葉と音楽が混ざっている状態で、そこから音楽が独立してくるという考え方を、私はゲオルギアーデスというギリシャ系ドイツ人の著名な音楽学者の著書で初めて読みました。とてもインパクトの強い分でした。その影響を受けた人たちだろうと思うのですが、音楽の歴史の本を読むとよく出てくる考え方でした。

基本は言葉から音楽というものが独立したというものなのですが、私は長いことその通りだと思っていましたが、最近は少し違う感じ方をしています。

音楽と言葉はいまだに一つのものと捉えられるのではないかと思っています。

書道を例にとってみます。音楽は書道で言えば楷書の様なものです。しっかりと形を整えなければならないのです。まっすぐだとか、跳ねるところとか、辶の抜くところなどです。誰が見ても正確に書かれているということが楷書の大事なところであり、楷書の美しさなのです。気持ちよく整っている書体です。

言葉の発音というのは、正確ではなく崩れているもので、音楽が正確さを競うとすれば、言葉は正確な発音などいうのはないので、いい加減なところがあると思っています。いい加減というのは出鱈目ということではなく、個性とか、癖の中にあるということです。もちろんある程度はどの人にも共通しているものです。もちろん発音記号などもあって規則化されています。

言葉は行書、とか草書に近いものと言ってみたいのです。何人かのイギリス人に同じ単語を発音してもらうと、予想以上に違います。確かにみんな同じ単語を発音したとはわかるのですが、違いもわかります。でも同じなのです。何だか変なものです。

このおおらかさ、音楽の世界では通じないです。音程はあくまで正しく、リズムはきちっと正しくという訓練をうけるわけで、そこを外してしまうと落第点です。コンクールでは予選も通りません。

でも言葉のこういう曖昧さ、おおらかさは捨て難いものだと思っています。同じように音を使うのにこんなに違うものだというのがとても嬉しいのです。

楷書がいいのか、行書、草書がいいのかということでないように、音楽が正しくて言葉は曖昧で正確さがないというのは違うと思います。

言葉を発音するというのは音楽の音よりも実際には難しいところがあると思います。

オペラの世界では色々な国の人が、色々な言葉のオペラを歌っています。言葉は正確ではないくてもメロディーの音が合っていれば聞けるからです。ところが演劇の世界になると、ドイツの劇団にはよほどでない限り外人はいません。演劇の言葉は外人ではこなせないのです。発音にお国柄の癖が出てしまうのです。ドイツ人のようなアクセントがつけけられないのです。日本語でも同じ様なもので、主役がアメリカアクセントではピントが合わなくなってしまうのです。

言葉のが曖昧でいいと言いながらここでは言葉の力のエネルギー、厳密さが取り沙汰されてしまいます。矛盾です。

でもこういう矛盾があることが、言葉と音楽のことを考えているときに、いろいろな広がりを感じて楽しいのです。