いよいよ日本へ、そしてつきました

2023年1月31日

1月29日、日本へ旅立ちました。母の一周忌を初めいくつかの私事に関わることをするためです。

予想のつかない中を日本に向かう感じです。何事もなく日本に着けることは信じていますが、飛行ルートはてルーマニアあたりの東奥からトルコを経てカスピ海の上を飛びいつもよりも4時間以上長い飛行に疲れました。

前回のようにヒマラヤ山脈の近くまでは南下しないまでも、中華人民共和国の上空を飛ぶので、よく似た景色が下に広がっていて、雄大さにびっくりです。

 

翌日の1月30日、18時に羽田に着きました。一週間ほど逗子の実家に滞在して、それから西日本に向けて移動します。今回は講演会の企画に関しては未だ制約があるようで、お仕事にはならない中で、小郡の片山先生からご招待いただき親御さん向けの講演会を催してくださいます。それ以外では、特別顧問という関わり方をしている京田辺シュタイナー学校の卒業ブロジェクトの発表会に参加し、今年の卒業生の発表に耳を傾けて参ります。いつも京田辺て講演会を企画してくださっている方たちのお計らいで、その前日に短い座談会を予定しております。

それ以外はお世話になった方達を訪問する予定です。このような状況の中ですので、いつどうなるか分からないですから、会える時に会っておきたいという希望からです。二月は結構忙しく、毎日どなたかとどこかで会うようになっています。皆さんと楽しい話ができるのを楽しみにしています。

 

報告まで

 

存在としてか、それとも機能としてか

2023年1月25日

名刺交換なんて日本人の癖のようなものかと思っていたら、昨今はドイツなどでもよく見られる光景になっています。名刺に書かれている肩書きの内容が力を発揮するようです。それは日本もドイツも役職です。現職もあれば、元何々もあれば、名誉職もあります。そして書かれている数でどれだけ社会に貢献しているのかを示しているわけですが、名刺いっぱいに役職が書き込まれているのを見ると目が眩んでしまうこともあります。

名刺からは偉い方なんだと察しはついても、その人がどんな人なのかは分からないところが名刺社会の面白いと言えば面白いところです。

役職と為人(ひととなり)は違うものです。そこのところを私ははっきり分けてみています。一人の人間の人間的な魅力というのは見えないですから、自分の五感でその人をしっかり感じて確かめるしかありません。着ている物なども参考になりますが、着こなしのセンスの方で、ブランド名ではありません。

人間としてわかりやすいのは、機能している部分です。社会の中でどのように機能しているのかは大切なものです。若い時にはそれが目標になったりします。しかし一つの会社を長年にわたって勤め上げて、定年になり、今まで友人だと思っていた同僚が、単なる仕事仲間に過ぎなかったなんてこともあります。年を重ねると、人間は機能ではなく、その人の魅力は他にあることに気づくのです。ただ存在していることが素晴らしいと言えそうです。

私はハンディーを持った人たちと十年間一緒に過ごしていました。寝たきりの子どもに何ができるのかと問う人はいません。何もできないことが分かりきっているからです。ただ世話を受けるだけで、周囲に対して、社会に対して何もできないと思われています。しかし私は原因不明の病気のため寝たきりの男の子を通して一つの発見をしました。当時ドイツは兵役があって、男子は一年ほど軍隊に入って訓練を受けるのですが、希望すると病院や、老人ホーム、さまざまな福祉施設で奉仕活動をすることができました。私のところにもそうした軍隊を拒否した若者がいつも一人はいました。なんの経験もない十八から二十二歳くらいの青年が毎年やってきたのです。手のかかる難しい子どもたち、ボーダーラインの子どもたちの世話というのはは初心者には難しいものです。そこで大抵は全くの初心者には寝たきりのお子さんの世話をするという仕事が与えられます。食事の時に食べさせてあげたり、お風呂に入るときに入浴係の人の手伝いをしたり、散歩に行ったりと言った仕事でした。

そんな仕事でしたが、続かない人は続かないもので、やめて他の施設に代わっていったりしたものですが、一年を通して、そのお子さんの世話をした若者が施設を去る時には、いつも涙のセレモニーがあり感慨深いもの感じていました。

青年たちは、施設にやって来た一年前と、施設を去って行く今日とでは全く違う人間になっているのです。彼らは一年間何も喋らない寝たきりのお子さんの世話をしていただけです。極めて単調な仕事ですが、寝たきりのお子さんにも僅かでしたが表情がありましたから、会話とまではゆかないまでも、情が通うほどのコミュニケーションはとっていたのです。一年を黙々と仕事して、今日清々しく去って行く青年たちは、別れの瞬間に必ず号泣するのです。それを見ていつも思うのは「何もできない寝たきりのあの子が毎年一人の青年の人生観を変えて行くのだ」ということです。それも確実にです。親が、先生が、どんなに説教しても子どもというのは何も変わらないものです。それなのに寝たきりの、何もできないと思われている子が、毎年一人の若者の人生を、人生観を根本から変えてしまうのです。一体何が若者の人生を変えたのでしょうか。その寝たきりの子どもに名刺を作るとしたら、役職をなんと書いたら良いのでしょうか。

 

 

 

片想い

2023年1月24日

片思いというのはいろいろな場面で多くの人が経験しているものではないかと思います。恋愛体験で言うと相思相愛とは違って一方通行なので、所詮勝手な思い込みにすぎないものなのですが、若かりし頃を思い出すと悔しい一方、甘くも苦い思い出でもあります。逃がした魚は大きいように、あの人と人生を一緒に過ごしていたらなんて幻想に浸れるわけですから、この片思いある意味では夢を膨らませられる楽しい思い出とも言えるのかも知れません。

独りよがりと言葉を変えると風景ががらっと変わってしまいますが、独りよがりも片思いも人生のいろいろな局面に登場しているような気がするのです。

音楽を志してがむしゃらに練習し、なんとか音楽で身を立てたいと頑張っている人がいるとします。ところが、練習したからと言って上達が約束されているわけではないのです。どんなに練習しても一向に上達しないということもあります。本人は練習した分だけ上達していると思い込んでいるのでしょうから、そうした場合外から口を挟むことはご法度です。勿論そういう人と付き合うのは極めて難しいであろうことは容易に想像できます。間違って「音楽への片思いにすぎないのでは」なんて言おうものなら人間関係にヒビが入ってしまいます。

音楽だけではなく絵画をはじめ他の芸事などもよく似ています。センスとか才能で片付けでしまうのはあまりに簡単過ぎて気がひけるのですが、やはりセンスがないところにどれだけ練習を重ねても上達は望めないものです。このことはいろいろな職業についても言えることで、片思いは早く気づかせてあげたほうが、その人のためかも知れません。

 

精神世界との関わり方もよく似ています。精神世界では練習ではなく修行です。修行を積むというのは徳を積むということのようで、それによって精神性が向上し、開け、発展すると考えられていて、荒修行という言葉があるほどなので、修行が辛く苦しいものであればあるほどその効果は大きいと信じられています。精神というのは肉体をいじめると目覚めるという苦行にまつわる考えは意外と一般に広がっているものなのではないかと思います。がむしゃらに修行をすれば精神性が開けるのであれば、話は簡単です。

精神性が開けるかどうかは人間側、つまり修行者が決めることではないというのが私の考えです。修行を積んだご褒美として精神世界の方からやってくるもののように思っています。片思いの反対の、向こう任せ、ある意味では他力に近いのかも知れません。

 

片思いから抜け出せず、引きずって忘れられない人よりも、その人本人にふさわしいお相手さんというのは向こうからやってくるのではないのでしょうか。相思相愛というハッピーエンドになるか、お仲人さんに紹介されてお見合いかの違いはあったとしても、向こうから来るものに福があるようです。昔聞いた話では、お見合いで結ばれた夫婦の方が離婚率が低いということです。

目標に向かって邁進する。これは若い時には必要なものなのかも知れませんが、年齢を重ねると、目標を立てることが難しくなるため目標が希薄になります。それで人生が狭いものになるかというと、今が膨らんでくるのでそんなことはないようです。