夕闇のひと時

2024年3月17日

日が沈み、だんだんと夜のしじまが訪れます。家々には明かりが灯り始め、昼と夜とが混ざり合う魔法のようなひと時です。夜景の味わいとも違い、真昼間の太陽に照らし出された鮮明な景色とも違う、淡い空気感が目の前の景色を膨らませます。日本、外国と、場所を問わずどの風景の中にいてもこの時間が好きで、天気のいい日に散歩するならこの時間と決めています。

昼と夜というコントラストあることはあまり意識することはないですが大切なものだと感じています。人間生活にあって、起きている時と寝ている時という状態の違いをもたらしているからです。起きている時にはさまざまな活動をし、寝ている時には横になって休養します。最近は寝ている時のことがだんだんとわかってきているので、そこで報告される新事実にときめいています。寝ることの大切と昔とは比較にならないほど重要だと言われる様になっています。

日本では昔から、寝る子は育つという言い方がされるように、ある意味では寝るということに大きな意味があることは予感していたのでしょうが、いかんせん寝ている時のことを聞き出すことはできないので、長いこと科学向こう側にあったものが、今は研究技術の進化とともに、今までわからなかったことが解明してきていて、寝ている時はただ休んでいるだけでなく、昼とは違う活動をしているのだということになっています。

 

私はいつも寝ている時に、昼に行ったさまざまなことをまとめているのだと思っていました。昼の1日を振り返ると、いろいろなことを関連なく繋げて生きています。予期していなかったことに振り回されたりするものです。予定通りの1日なんていう方が少ないわけです。こうした人間の昼と夜とから生まれる営みを、樽や桶に例えていました。

夜になり1日が終わり就寝となるのですが、そこから夜の仕事が始まります。バラバラだった樽や桶の板がタガによって一つにまどめられるのです。タガとというのは竹やワイヤーで作られた輪のことで、これによって板が形を整えることになり、初めて樽とか桶として形をなすものになるのです。これを「輪する」という動詞にして、さらに字を変えて「忘る」、つまり「忘れる」とするのです。昼に行ったことは夜間に一つにまとめられるというわけです。

これが忘れるということの意味だと考えるのです。私たちはいろいろなことを学ぶ時、覚えることだけが大事なのではなく、そのことを一度は忘れる必要があるのです。忘れただけでく、私たちには思い出すという素晴らしい能力が備わっているので、忘れた中から思い出すことができ、学んだことを再現できるのです。その再現されたものは、はじめの学んだ時よりも何かが進化しています。それはうまく言葉にできないものですが、「熟す」とも言える不思議な変化です。まさに私たちは寝なければ成長しないというわけです。さらに寝なければ忘れもしなければ思い出しもしないのです。昼と夜のコントラストの中で、私たちは精神力が鍛えられているといことなのでしょう。

私は私たち

2024年3月16日

イギリスの王様、女王様は、自分のことをIではなくWeと言います。英国国民を代表しているという証なのです。

日本でも天皇陛下は私とはいわずに、正しくは朕と言います。自分一人を指しているのではないからです。

 

私たちはもちろん私という言い方で自分を表現しているのですが、実態を知ると、自分は一人ではないような気がしてきます。いい人であったり、意地悪であったり、怒りっぽかったり、優しかったりと色々な自分が同居して居ると言ったほうがいいわけですからWeのほうが正しいのではないかという気がしてきます。いろいろな自分を総まとめにするのです。

今はまだ慣れない言い方ですが、自分を一つにまとめるほうが不自然に感じられる日がそのうち来るかもしれません。私と言う言い方は今でも抽象的だと感じることがありますから少しずつ準備をしようと思っています。私らしくと言う言い方も実は危ないもので、自分という幻想に囚われているところがあるのではないかと思っています。

 

ただ他人とコミュニケーションする時には自分を一つにまとめなければならないので、そこでは抽象的な自分を活用するのでしょうが、そうした対話がそもそも抽象的なものと言っていいのかもしれません。

 

私達の人間関係と言うのはそんな脆弱なもの上に成り立っているのでしょうか?

人間は人間らしく生きているだけなのかもしれません。

自動詞的人生観

2024年3月15日

人生への心構えというのは、しっかりと目的を持って生きると言うのが普通です。仕事につくのに必要なたくさんの資格を取って、ということです。目的もなくぶらぶら生きてはいけないということなのでしょうが、ここではちょっと異議申し立てをしてみようと思います。

タイトルの自動詞というのは文法用語で、動詞を説明する時のもので他動詞と対比されるものです。欧米の言葉には自動詞、他動詞という区別が必ず見られます。ところが自動詞と他動詞の違いを説明するとなると大変で、こんがらがってしまいものなのです。うまく説明できないのです。

他動詞だけ説明するのは簡単と言ってしまえばまだ簡単です。というのは他動詞には必ず目的語があるという単純な理由からです。食べる、飲む、見る、聞くなどは「何を」と言う目的語が、必ずきます。行為の目的です。

ところが自動詞にはこの「何を」が欠けています。言うなれば、動詞なので行動を説明しているはずなのですが、肝心の行動の目的が見つからないのです。立つ、歩く、寝るなどです。

ここで申し上げなければならないのは、日本語は基本的にこの区別が曖昧だということです。したがって日本語しか使っていない人には、この違いが見えにくく説明するのが、欧米の人よりも難しくなります。ここだけは覚悟して読んでください。

 

みるというのは「何かを」みるというふうに普通は使います。信号をよく見て、とか、横断歩道を渡る時には左右を見て、というふうにです。

ところが目の手術をして目に包帯を巻いたとします。数日後包帯が解かれた時にお医者さんが「見えますか」と聞かれた時の一瞬は、何かを見ているというより、見えるかどうかが聞かれているので単純に「見えます」という答えになります。そしてその次にお医者さんが目の前に人差し指を出して「何が見えますか」と聞いた時には「先生の人差し指が見えます」と答えます。

見るはこれではもう立派な他動詞ですが、「見えます」と答えた最初の瞬間は何か具体的なものを見ているわけではないので、見えるという、光を感じているという基本的なところが問われています。こういう状態が自動詞的です。何も見ていないというふうにも言えまずが、全体を見ているとも言える状態です。

 

他動詞的に生きるというのは目的を持ってということですが、自動詞的に生きるというのは、少し違います。何もしていないのか、全部を見ているのかという生き方です。ぼんやりしているようで全体を見ているというわけです。目的を追い求める生き方ではなく、直感的なとも言える生き方です。他動詞的は男社会の根底をなしたもので、自動詞的にというのは女性的なものなのかも知れません。

社会全体がこのような生き方をする方向にAIは人間を向かわしめるのかも知れないなんて考えるのです。