直感と主観

2019年9月3日

直感は私を始め多くの日本人の、もしかすると日本、東洋を超え人間にとっての自分自身への命綱のようなもので、精神性を語る際の一番の要にあたるものと考えていいと思います。そうした理由からこのところ直感のことに何回か触れています。

直感なんて主観の塊のようなものに過ぎないと考える人もいると思います。論理性がないものだし、しかも根拠らしいものもないしと言うわけですが、そのように考えるのは客観性、客観的であることが優れたものだという罠にかかっているのではないのでしょうか。

私はそうではないと考えています。

自分を自分以外の者が支えきれないという状況を想定してみてください。主観とか直感というものがそこで本領を発揮していることが理解していただけると思います。理解は遠いいかもしれませんがきっと何かを予感できるのではないかと思います。自分を支えるのは主観以外にないのです。主観、特に直感というのは具体的に力になるものなのです。オリンピックで金メダルをとる様な選手を例にとれば、彼らが技術面で優れていることはもちろんなのですが、試合に臨む時に気持ちが本人を支えているということはもっと大事なことなのです。そうでないとせっかく磨き上げた技術が発揮できないという事態に陥ります。絶対に避けなければならない事態です。そのためそれほどのレベルにいる選手にとって心のケアーは技術的訓練と同じくらい重要なものになってきます。対戦相手と比較して「お前は強いのだ」などと周囲の人から言われても、本当の意味でその人を支える力にはなりません。データーから見てお前が勝つのは当たり前だとか、「大丈夫だ」と自己暗示にかけることも同じで竹光で真剣と戦う様なものです。

大事なのは周囲から作られた自分という虚像ではなく、つまり客観的に見た自分ではなく、直感から得た自分像です。主観の中で作った自分像しか自分を支えてはくれないのです。

田中ウルヴェ京さんがバドミントン男子シングルの世界選手権を連覇した桃田賢斗さんについて次のように語っておられます。とても興味深く聞きました。

「金メダリストがもう一度金メダルに向かう時、大切なのは勝つことに興味をなくすことなのです。それよりも大事なことは、本当にバドミントンが自分にとってどういう意味を持つのかということです。もちろんそれを他人に言う必要はないのです。自分にとってバドミントンは大切な理由があると感じられれば、変化し続ける原動力になります。勝とうが負けようがひたすら進化し続けると言うこのエネルギーがあると怖いですよね。誰も寄せ付けさせないのです」

こんな極限の状況は普通の人には滅多に訪れることがないものですが、この考え方はもっと知られていいものだと思います。基本的なことは自分を支えているエネルギーです。自分にとって自分という存在は意味があるのだと思える瞬間です。それは紛れもなく生きて行くためのエネルギーなのです。これは主観の中からしか生まれないものです。しかも直感がもたらしてくれる特別なものです。簡単に言えぱ、今やっていることが本当に好きなことかどうかなのです。

こんなふうに考えたらどうでしょうか。子どもの時は主観という道をよちよちの不安定な足取りで歩いて、その後、本を読んだり、人生経験を重ねながら客観という視界の開けた地点にたどり着きます。理性のある考えができるようになるのです。大人になるということです。しかし人生はそれで終わることはなく再び主観という険しい道を選ぶのです。子どもは自分中心の主観で生きています。成人すると分別がつき、物分りが良くなり、周囲が見えてきます。しかし自分の人生を生きようと目覚めた時再び主観の世界の中に放り込まれるのです。その主観は直感とともにある冴えた、子どもの自分中心とは違った自分との命綱の直感から生まれた主観です。

 

言葉をこの観点から見てみます。

言葉と言うのは自分と他人との間にあってコミュニケーションに華を添えています。だから理解を助けるために、あるいは誤解を避けるために辞書の様な客観的なものが作られ便利に機能しているわけです。グリム童話で知られているグリム兄弟はドイツ語学者で、百科事典の様な大きさで全31冊の辞書を作っています。仕事は弟子たちに受け継がれ、完成までに100年を要しました。その辞書を読むためにさらに他の辞書が必要なと言う厄介な辞書ですが、その辞書を暗記するほど読み込んだからといって言葉の達人になるわけではなく、またお話し上手になるかと言うとそんなことはなく、お話し上手な人の中にはその人の「主観的な辞書」と呼べるものがあって、それに従って言葉を選らんでいるのです。その主観的な辞書とグリムのドイツ辞書は比べようがない似ても似つかないものです。

私の主観的な辞書の発行部数はどのくらいかというと、一冊で十分です。この辞書は他の人が使うには適していません。私の経験と、私が理解したことがぎっしり詰まっているのに、他の人には役立たずの不思議な辞書なのです。この主観的な辞書というのは私だけの専売特許などではなく、みんなが一人一人個人用の主観的な辞書を持っているのです。

 

未完成

2019年8月23日

未だ未完成であるという意識は精神衛生上大切なものだと考えています。

私の場合未完成という言葉からまずイメージするのは人生です。だからと言って人生は未完成だと言いたいわけではありません。

人生は死をもって終わります。しかし死は自分の力の及ばないところからやって来るものです。

突然切られてしまうようなところがあります。

それだからと言って人生は未完成だとは言えないと思います。そもそも誰が人生が完成した、未完成だったと決めるのでしょうか。

 

物書きの人、例えば小説家たちは締め切りがあるからとにかく終わらせるそうです。とりあえず完成させたということですが、その小説を世間の人が読み始めたら、小説は一人歩きし始めて、立派な完成品です。

絵の展覧会に行ってオリジナルの絵を見ている時に感じることです。もし絵を描いた本人が今この絵を見たら、ここはこう直して、と絵筆を取り始めるのではないだろうかなんて思ったりします。印刷されたカタログで見る限りは完成した絵として私たちは認識しているものなのですが、オリジナルを目の前にすると、制作プロセスが伝わってきたりする一方で、未完成的な余白を感じるのです。

芸術の本質に通じるものが未完成にはありそうです。人生は短し、芸の道は長しとはよく聞く言葉です。しかし完成を目指していなければダラダラして碌でもないものしかできないでしょう。だからと言って完成を意識しすぎると今度は頭で考えただけのものしかできなくなってしまい、それも碌でもないものなのです。芸術の醍醐味は完成させようとする意志と未完成のままで居続ける狭間にあるようです。つまり芸術は意志の持続の修行だといってもいいもののようです。

 

音楽で未完成といえばシューベルトです。べつにシューベルトだけが未完成の作品を残したということではないのに、なぜかシューベルトの未完成だけが未完成と呼ばれます。かつてはこのシンフォニーの後にグレイトとよばれているハ長調のシンフォニーを書いたことになっていたので、このシンフォニーを未完成で終わらせたことが謎めいていたからでしょうか。いまはこの曲がどうやら最後のシンフォニーということになっているようで、謎は薄れてしまいましたが、この音楽の持つ魅力は薄れることなく今日に至っています。

私はこの曲に相当の思い入れがあります。簡単にいえば大好きなのです。好きになるのに理屈はなくていいので、とにかく好きなのですとだけ言えばいいわけです。

しかし、それでも一言何か言いたくなるのはわたしの悪い癖で、一言だけ言わせてもらいます。この音楽を聴いている時に感じるのは、こんな風に音楽に吸い込まれるような体験はほかではないなということです。グイグイとまるで曲の中心に向かって引き込まれる音楽もあります。私の勝手な推測ですが、多くの、もしかしたらほとんどの音楽家はそれを意図して作曲しているようです。しかしシューベルトの未完成に引き込まれるプロセスは違います。聞いているうちに曲に静かになじんでゆき、知らないうちに曲の真ん中にいるような感じがしてきます。そして気がついたら曲全体に包まれているという感じです。

若い頃にはモーツァルトを夢中で聞きました。ある時ふと何か物足りないものを感じ、モーツァルト離れが始まったのです。今にして思えば完成しすぎているということのようです。音楽の完成度ではなく、どんな音楽も出来上がっているということです。

シューベルトの魅力はじわじわと私の中で広がってゆきました。最初に気がついたのは彼の音楽には即興のような感じがすることでした。出来上がった完成した曲にも即興を感じたのです。即興曲、楽興の時とかいう作品が好まれて演奏されますが、私だけでなく多くの人がシューベルトに即興性を感じその虜になっているのでないのでしょうか。

未完成という表現がシューベルトに相応しいと多くの人が感じているということなのかもしれません。シューベルトに音楽に限らず芸術そのものを感じているとも言えそうです。

教育は社会の知的副産物だった

2019年8月21日

教育という名前のついたものを挙げてみると膨大の数の言葉が並びます。

学校教育、幼児教育、義務教育という身近なものから高等教育、大学教育、社会教育、僻地教育、社員教育、英才教育、情操教育というものまで。あるいは教育哲学、教育心理学、教育学、そして教育のための教材、マネージャーの教育、また鑑別所や刑務所の中の社会復帰のための教育システム、政治的には政治犯の刑務所での再教育(実は洗脳)まで人間の社会生活のありとあらゆる分野に教育の姿をとるものが浸透しています。

教育は社会的に重要な役割を担っていて、その働きは社会の隅々までを網羅し、立派に機能して、社会にとっては欠かせないものなのです。社会は教育で成り立っていると言えるほどです。教育がなかったら、もしかしたら社会は混乱の渦に巻き込まれて消滅してしまうかもしれない、私は時々そんなことを考えます。

ところで、をたくさん並べましたが、そもそもそれらの教育はどこで生まれたものなのでしょう。いつから教育はあるのかという問うこともできます。私は、社会を維持するために考え出された知的副産物の一つだと考えて見ました。

 

教育はほとんどがシステム化されています。何故なのでしょう。私はここがいつも不思議でした。その理由は教育が知的副産物だからなのだと気付いたのです。社会の中の知性、頭のいい人たちによって仕組まれ、社会が機能しやすくしたのです。

システム化されている教育というよりも、教育はシステムの中でした機能しないものです。そうしたシステムから受け取る恩恵の中で一番顕著なのは学校教育です。一番身近にあり親しみのある学校教育ですが、実は社会の知的副産物の一番典型的なもので、学校教育の運命もそこにあります。学校教育が社会の知的副産物としてある内はこの教育の運命は定まっています。さらに激しさを増しながら知的なものを目指すものになってゆくのです。

 

深い絆で結ばれている教育とシステムですが切り離せないのでしょうか。つまり教育を知的副産物という枠から外せないのかということです。過去に目を向けても教育はシステムを伴って社会の知的副産物として活躍している姿しか見えてきません。ですからそれが教育の性(さが)であり宿命と見るしかないのかもしれません。しかし私は教育がいつの日かシステムから、社会の知的副産物というあり方から抜け出すして欲しいと願っています。そして必ずその時が来るような気がしてならないのです。

社会というのは時代の流れで変化します。それを支えているシステムもです。今のシステムがこのまま進化し続けるのかどうか、社会の知性はこれからも知的副産物を作り続けられるのかどうか、あるいはその副産物である教育を今までのように必要としているのかどうか。今、瀬戸際に追い込まれているように見えるのです。拍車をかけているのは人工頭脳の進出です。

 

システム化してしまった知的副産物である教育とその枠から外れている人間教育という縮図を考えてみました。どう考えてもこの二つは相入れない水と油です。システム化した教育、つまり社会知性は人間を育てることを知りません。興味もありません。そのための知恵も情熱もないのです。社会知性は人間を社会の道具、システムの部品としてしか見ていません。育てられるのは社会に役立つ能力の開発です。ということは、知的副産物というシステムに甘んじている限り教育そのものが旧態依然、社会の道具のままでい続けるのです。そこで育てられる人間も同様に社会の道具ということになってしまいます。

 

そういった教育にメスを入れ社会の知的副産物から別のものにしたいと願っています。そのために新しい教育論を打ち立てたらうまくゆくでしょうか。あまり例がないようで、具体的なイメージがわかないのですが、新しい、画期的な教育論を打ち立てて、今までの教育観を変えても意味がないように思います。

唯一の可能性として考えられるのは、教育に携わっている人たちの内的な変革です。教育論や、教育要綱のような外からの圧力ではなく、教育者が変わるのです、教育の現場からの改革と言ってもいいのでしょうが、あえて教育に携わる人たちの心のあり方に焦点を当てたいのです。教育者そのものが変わらなければ教育が変わることはないということです。

こういう時、自己教育ということが持ち出されますが、私は教育者たちの直感に着目したいと思います。別の言い方をすれば教育者の教育的センスを磨くことです。それは教育学、教育哲学、教育心理学を勉強しても身につくものではなく、自分の中の一番深いところに新しい風、新しい光を送り頃ことです。その直感からはもしかしたら全く教育らしからぬものが降りてくるかもしれないのでず。直感ですから知識とはちがい、他人に説明をするのが難しいものですが、本人の中では確固たる真実として生きているものです。

教育に携わる人間が変わって初めて、教育がシステムから解放され流れが生まれます。人間を育てるものに変わる道を歩み始めるのではないのかと私は考えています。その直感で教育を見直した教育者が増えて欲しいのですが、道は茨の道で、現実には社会がそれを簡単には受け入れないことです。もっと手強い相手は案外親御さんたちであったりするのです。