「知性」対「道徳」

2021年5月28日

普遍人間学の冒頭からして、シュタイナーの提唱する教育は知性のための教育ではない、知的人間を作ることではないと断言します。そうではなく道徳だ、霊性だというのです。

普通に教育のことを考えている人にとっては、ふざけてるとまでは行かないまでも、不自然な組み合わせではないかと想像します。知性と道徳、これはスイカと天ぷらのように一緒に食べてはいけないものの組み合わせです。

 

 

普通は優しさは性格を表すので、教育の対象ではないと考えられてしまいますが、道徳だって教育の対象になれるものなのかどうか疑問です。確かに道徳の時間なんていうのはあった気がしますが、とにかく不自然な時間だったことしか覚えていません。授業の話はみんなとってつけたようなことばかりだったからです。道徳というと畏まってしまうので、「優しさ」と置き換えてみます。教育で優しさが教えられるのかどうかです。

優しい人間になりましょうというスローガンで優しい人間が作れたら一番いいのでしょうが、それはできません。ところが、賢い人間は作れるのです。賢い子どもを勉強のできる子どもというふうにしてみると、やり方次第でしょうが、できます。頑張ればそれなりの成果はすぐに出ます。それを調べるのにテストという便利なものもあります。

 

でも優しさは出来ない相談です。どう頑張ったら優しい人間になれるのか、学者も、宗教家も、もちろん先生も、きっと知らないと思います。誰に聞いたらいいのかすら想像できません。ということは結構難しいことのようです。シュタイナーはそれをこれからの教育の課題だと言っているようなのです。

 

優しさは性格ではなく能力だと考えたらどうでしよう。わたしは素晴らしい能力だと思います。優しさは知性以上です。優しさの中に直感と霊力を感じるのです。

知性というのはとても魅力的なもののようですが、実はとんでもないものだということも知っておく必要があります。例えば嘘は頭のいい知性的な人の方が上手につきます。詐欺も、原子爆弾も実は知性の産物なのです。戦争も気が狂って起きたものではなく、正真正銘の知性から起ってしまったものなのです。となると知性を育てるなんてとんでもないものだと気がつきます。こんなものを教育で教える必要はどこにあるのでしょうか。

知性の正体は仮面です。辻褄を合わせるための仮面です。社会で生きてゆくために便利な仮面です。ところが、自分自身になるとき人間はその仮面を外します。そのとき人間はなんなのでしょう。

シュタイナーはそんなことを考えていたのかもしれません。

知性ではない道徳だという言葉はそんな響きを持っているように思えてなりません。

一つの本なのに色々ある翻訳でいくつもの本に。

2021年5月15日

源氏物語の翻訳がいくつあるのかご存知ですか。

厳密な数は把握していませんが、有に二十はくだらないと思います。

一つあれば十分ではないのか、なぜそんなにあるのかと疑問に思う方もいらっしゃると思います。

二つの理由を挙げてみます。

まず解釈が違うことが挙げられます。そして語りの調子、語りのリズムの違いです。

解釈が違うと内容が別なものになったりします。心理状況の捉え方などは小説の場合微妙なものですから、解釈は大事です。時代背景を描写する言葉は特に重要です。解釈が違うと読んでいて思い浮かべる風景が違ってきます。

語り口調、語りのリズムは主観的で趣味の領域です。それを取り締まる規定はありません。翻訳する人は気に入った流れを作るように言葉を選ぶわけです。文章の流れに工夫が施されるのです。

と言う事で全ての翻訳には、客観的なものと主観的なものとが混ざり合っているのです。読者はそれを楽しめば良いのです。そして一番合った翻訳で読めば良いのです。贅沢な話です。

そんな翻訳の気ままで、曖昧なところを見抜いていたのがイスラムの聖典のコーランです。コーランの翻訳は基本的には禁止されています。翻訳されたものからはコーランが伝えたいものが失われてしまうので、翻訳されたコーランはもうコーランではないのです。

翻訳された源氏物語はもう源氏物語ではないと厳密なことを大切にする人が言ったとしたら、「それはそうだが、そこまで言う必要はないのではないか」と言うことで収まるのは、厳格な宗教とは違い、文学という主観を大切にするものだからです。

 

文学の翻訳とは言っても。やはり言語を勉強した人にしかできないのが翻訳という仕事です。言葉を学問するのですやはり学者的な厳密さ(ちょっと宗教に近い物があります)はいつも翻訳に付き纏ってきます。特にアカデミズムなどの師弟関係が強く支配しているところでは、翻訳は翻訳者の主観的な物が消えて、客観的な面が強くなってしまい、いわゆる翻訳調という型に支配され、独特の雰囲気を作ります。翻訳調と言うのは学問調と言って良いものなのです。

 

明治以降日本は西洋からの文献の翻訳が文化の主流になったといえます。翻訳文化です。そのために新しい言葉かたくさん創作されたことはよく知られています。

注意して欲しいことはそこで新しい語り口調が出来上がってしまったことです。この語り口調をなんと呼んで良いのか解りませんが、わたしはそっけなくなったと感じでいます。江戸時代の語り口調とはずいぶん違った口調が生まれたのです。現代日本語は翻訳調日本語の延長にあるものです。時々そうした文体とは違うものを意識的に使って小説を書いた人たちは、ある意味では明治、大正の時代風潮に逆らっていたとも言えます。泉鏡花などはその意味で苦労した作家だったようです。

 

今わたしはルドルフ・シュタイナーの普遍人間学の翻訳を試みています。意味的な内容はいくつかの翻訳で正確に紹介されているので、そこを検証する必要はありません。ところがよく聞くのが翻訳は読みにくいと言うことと、解りにくいと言うことです。わたしも読んでみましたが、日本語で読めるという事の意義は感じられても、読んで楽しいということにはならな、いわゆる翻訳調の言葉でした。。

基本的には翻訳されたらもうシュタイナーの普遍人間学からは離れてしまいます。コーランのように、それはもう普遍人間学ではないと言っても良いのでしょうが、ここに問題が一つあります。

この本は講演録だと言うことです。しかも録音されたものではなく、速記を起こしたもので、速記者がいて、速記したものを文章化し、それを編集者がさらに読みやすくしのがドイツ語の原本です。と言うことはすでに原本自体が翻訳的な要素を含んでいる言えるのです。

同じ言葉でも、書き言葉と喋り言葉の間には微妙な違いがあります。ドイツ語の方が日本語よりも違いが少ないと言えるかもしれませんが、この本は講演ですから、喋り言葉で話されたのです。個人的な経験では、講演を聞くと言うのは、ある意味で音楽を聞くようなところがあって、意味だけではなく、講演をする人の雰囲気、喋る時のテンポ、抑揚などが相当の比重を閉めてまいす。特に声によって受け取り方が全く変わってしまうものですから、シュタイナーの講演を聞いていないものに訳されたものは、オリジナルとはずいぶんかけ離れてしまっていると思います。

そんな前提があっての、今回の普遍人間学の翻訳作業です。

わたし自身が講演を重ねてきた人間なので、今までの語り口調がどうしても気になってしまい、どうしても仲節と言われている口調が出てしまいます。その口調に乗せて言わないと伝えられない物があるのです。わたしはその口調で読む時に内容を理解しているからです。

今回の翻訳も仲節で行こうと思っていますが、どれだけの人が仲節を求めているのかを考えると、余計なことをやっているのではないかと、尻込みしてしまうのです。

また途中経過を報告します。

芸の道は長し

2021年5月13日

芸とはなんなのだろう。

わたしは「自分を消す手段」ではないかと思っています。

 

もし人間が今日も森羅万象の力と共にあるなら、自分という発想が生まれる余地はないでしょう。なぜならそこで人間は満たされているからです。森羅万象の中に溶け込んでしまっているかのようです。

 

今の人間たちは、森羅万象から離れてしまいました。追い出されたかのように見えます。誰がしたのかは解りません。

そして自分という満たされることのない姿に変えられてしまったのです。森羅万象を離れた人間たちはそのためだんだん自分を持て余すようになります。

 

特に現代は満たされると言う観点からすると、ものに溢れていても、満たされることがない貧しい時代です。いくら物があっても人間は満たされていません。ガツガツ他人のものをひったくろうとしています。誰が望んでいるのでしょう。

 

自分のものにする。自分のものにしたい。ここが「自分」の始まりかもしれないと考えます。自分と言うのは、実は厄介なもので、自分であればあるほど貧しい存在になってしまうのです。

 

人間は森羅万象の中にいた時の思い出を芸と呼んで嗜むようになります。踊り、歌い、楽器を奏でて、持て余した自分を消そうとしたのです。芸に励んでもなかなか自分を消すことはできません。しかし森羅万象を離れた人間が自分を消すことができるのは、芸の中に没頭する時しかないのです。

そんな時、人間は「芸の道は長い」と感じ、自分を消すことの難しさを嘆くのです。