オンライン講演会のお知らせ

2021年10月21日

私のブログを読んでくださっていらっしゃる皆様へ

今日は緊急のお知らせです。

鹿児島のどんぐり自然学校では毎年秋に私の講演会が行われていました。1992年から毎年ですから三十年続けてきました。
昨年はコロナ禍の騒ぎに振り回されていたため、講演会は全面中止という運びになり、鹿児島の講演会も中止しましたが、今年はすでに春に講演会を企画する方向でいらっしゃって、私の意向を問い合わせてこられたのですが、私の方で各地で講演会をする可能性が見えなかったので、昨年同様に全面中止という結論を出したことで、鹿児島での講演会も中止になってしまいました。

そんな中で、オンライン講演会というスタイルが浮かび上がり、今月の31日、日曜日、午後16時から18時までの2時間、zoomでの講演会が実現します。
どんぐり自然学校のホームページに詳しいですので、是参検索してみてください。

今年の2月に京田辺シュタイナー学校が主催したオンラインの講演会は多くのかたが日本だけでなく外国からも参加されていましたが、今回の催しはあまり大きく広げてはいないようなのでこじんまりした回になりそうですが、話す方としてはたくさんの方が聞いていてくれるという感触は励みになります。ぜひどんぐり自然学校を検索して参加してみてください。

テーマは「社会と私、多様化する現代において」です。

では31日にお目にかかれましょう。

仲正雄

精神性と神秘性

2021年9月9日

現代風といえば、神秘性の方でしょう。ここでいう現代は本当につい最近の現代で、それ以前は精神性の方が色々な方面で幅を利かせていたと思います。私はユリ・ケラーのスプーン曲げを境に神秘性が優位に立つようになったと思っています。神秘のトピらが開かれたということなのかもしれません。

今は精神性は見事に片隅に追いやられてしまって、誰も見向きもしなくなってしまいました。
私は精神性は普遍的なものだと思っています。哲学がいつの時代にも根本にあったようなものです。ところが若い人たちと話をしていると、古臭い昭和の人間だから精神性にこだわっていると思われてしまう現代の風潮もしみじみ感じています。哲学は普遍的なものですが、よく似た雌雄鏡には、言葉は悪いですが、賞味期限のようなものがあるように思えてなりません。

シュタイナーの人智学は神秘的なことが扱われますが、基本は精神性だと思っています。哲学です。世界観です。
シュタイナーの本はずいぶん読みましたが、読めば読むほど神秘的でなくなって精神的なものになってゆくのです。シュタイナーの中で神秘は、説明のための手段だったりするので、ある意味、現象的なもので、その神秘は精神性を帯びることで、手応えのある本物になって行くのだと思っています。
こんなことも言えます。
神秘はお金になります。お金がついて回ります。ところが、精神性はお金には縁がないのです。精神性にこだわる人がお金を忌み嫌っているからだという人もいます。そういう一面もあるのかもしれませんが、精神的なものにはお金がついてこないのです。私にしても、そのことがいいことだとは決して思っていません。精神的なものを実践するにはやはりお金が必要なのです。

最近縄文社会に興味を持って接しているのですが、当時はお金がなかったらしく、それに変わる何かが社会の土台にあったのです。多分今日の言葉で言えば「信頼感」と言えるようなものです。もちろん当時は今日のような唯物的な社会ではなく、神様の力が満ちていて、神様とともに生きていたのでしょうから、世界観にしても、人間そのものが今日と全く違ったものだったはずです。
さらに、当時は所有ということがなかったらしいのです。沖縄から船で30分ほど行ったところにある、本島からも見える久高島は不思議な島です。今でも所有という制度がなく、ある年齢になると島から土地を預かり、それを生涯耕し、年が来ると再び島にお返しするというのです。それは日本政府からも認められた形で行われている、所有の無かった社会の生き残りのような珍しい社会なのです。でもそれが縄文の当時は普通だったとなると、そこに争いがなかったということが信じられるようになります。
縄文人たちは名前を持っていなかったという記述を読むと、確かに今とは相当違う社会だったのだろうと想像できます。名前が必要になるのは戸籍制度ができてからなのかもしれません。もし人間に今とは比べ物にならないほどのインスピレーションがあったら、名前は無用の長物のような気がします。確かにあまりに違いすぎて想像するのが難しいですが、名前なんかなくてもインスピレーションがあれば以心伝心で十分なはずなのです。名刺を差し出されても、その人の本質は分からないわけです。どんなにたくさん肩書きがあっても、その人のことはインスピレーションほどにはわからないのです。ただ庶民を取り締まりたい支配層の人たちにとっては、非常に便利なものだとは想像がつきます。今日のマイナンバーのようなものです。

縄文社会は神秘的ではなく、今日的な言葉でえば極めて現実的だったと思います。ストーンサークルのようなものからエネルギーをもらっていても、それは神秘ではなく、現実だったのです。パワースポットも結界のためのもので、今日的な意味ではせいぜい祈るためのものであって、神秘ツアーの観光地ではなかったのです。

神秘に染まると足元が救われてしまいそうになります。ただ神秘の奥に哲学としての精神性が貫いていれば、その神秘は現実のものとして、生きる力に変わるものです。

精神性と精神的と

2021年9月7日

精神性とか精神的とかは、知識人たちがよく用いる言葉で、小難しい本を読むと随所に散りばめられているのですが、最近それらがなにを言っているのか分からなくなってしまいこの言葉が使えなくなっています。同時に精神的な人とか精神性に溢れた人というのはどういう人のことをいうのかが分からないと言うことでもあります。

以前は精神的なと言うのは物質欲の反対だと単純に思っていました。だからと言って貧乏している人が即精神性の高い人というわけではないのですが、キンキラの洋服をきて、高級な履を履いて、メガネをかけ、ブランドのネクタイや腕時計をなんていうのは精神性からはかけ離れていると思っていたわけです。
偉いとか、偉くないとか有名だとか無名だとか、そういう社会的なポジションも直接は関係がないようです。偉くても、自惚れることなく世のため人のために、まるで読み人知らずの歌のように、尽くしている精神性の高い人はいます。下っ端で嫉妬から他人の悪口ばかりを言っているだけの人もいます。

修行と精神性はどうでしょうか。大変な修行を積んだ人のお話を何度か聞きました。その方本人は静かなオーラに包まれていましたが、大人数の聴衆がいる講演会のような所だったせいか、お話に精神性を感じることはありませんでした。一般人に向けて話をすると、内容がどうしても一般的なところでストップして薄まっているので無理もないことなのでしょう。二人でサシで話したらもっといい話が聞けたのかもしれません。一般的には、精神的な話は説教的なところが期待されているのでしょうか、修行を積まれた方のお話も人生訓のようなお説教じみた雰囲気を漂わせていました。個人的には、精神的なと言うのは説教とは無縁だと思っています。

精神性に至るには、人間としてダメな所を通ってきたり、エゴに染まって、色や欲にまみれた経験が必要なのかもしれません。それがいわゆる形式的な型にはまった修行よりもずっと修行ではないかと思っています。現実に即した日常的修行と呼んでいます。

精神的なというのはボジティブに捉えるというものです。ただ単にポジティブなのではなく、ネガティブな自分を知り尽くしたところに現れるポジティブです。ある意味では影の含みを感じさせるポジティブということです。

ポジティブに考えればいいわけですが、これが意外とできないものなのです。自分ではポジティブと思って考え行動していても、他人から見ると全然そんなことはなく、押し付けがましい、嫌味なポジティブであったりするものです。

人生の根本とか、宇宙の法則とか、神様のことを本質的に弁えている人を精神的な人と言っていいのではないかと思っています。それをユーモアで語れる人かもしれません。

スピリチュアルとの関係がよく分からないので、そこをもう少し整理したいと思っています。