ボートの中の自分

2025年1月12日

近くの公園の池には貸ボートがあって、そのボートに一人で乗っていると想像してみてください。

そのボートに乗って池の真ん中の中島の方にゆこうとしているのですが、ボートの中にいる私がどんなにもがいてもボートはただ揺れるだけで一向に動き出すことはありません。前にも後ろにも動かないので中島に辿り着くかどうどころでなくどこにも向かうことはできないのです。

この様子は滑稽でもあり悲惨な状況とも言えます。どうして動き出さないののかと言うと、ボートの中の内力、つまりボートの中から働きかけている力はボートを動かす原動力にはならないからです。ボートが動くためには外からの力、働きかけが必要なてのです。

 

私たちが自分と思っているものも実はこれとおんじなのです。このボートで起こっていることは、私たちと私たちが自分と言っているものの関係にそっくりなのです。私たちの自分と思われているものは、実は無力で、私たちの中でもがいても私たちを前に進ませることなどできないのです。ボートが動き出すためには外からの力添えが必要だと言うことでしたが、具体的にいうと誰かに押してもらわなければならなのです。押してもらえさえすればボートはすぐに動きはじめます。押してくれる人にどこに行きたいか言えば、その人がその方向に向かって押してくれて、ほどなく目的地である中島に着きます。

私というのはボートで、そこでボートを動かそうとしてボートを揺らしているのが自分です。

この原理をしっかりイメージしておくと、私たちのの中の自分とうまくやってゆけます。つまり私たちというのは自分だけでは動かないもので、外からの働きかけなくしてどこにも向かえないものなのです。その働きかけを周囲からの、あるいは他人からの刺激と言っていいのですが、いろいろな刺激を一生の間貰い続けて生きているわけで、その刺激が実は私たちの自分であったりするのです。

例外はもちろんあります。天才と呼ばれる、外からの刺激以前に自分が活動し始めてしまう人たちです。自閉症の人の中に絵画的な素質に恵まれた人たちがいますが、この人たちも自分で見たものだけで独自の絵の世界を作るコテとができます。特にサヴァン症候群の人たちです。だたこれは例外で、ほとんどの人は外からの刺激で私というボートが動いているのです。普通は外からの刺激を受けずに一人だけで生きているとすると、ただの思い込みの中に閉じ込められてしまいます。ロビンソン・クルーソーは一人では行き詰まっていたに違いないのです。そこから物語が生まれてこなかったのです。ロビンソン・クルーソーがとりあえず人生と呼べるものを展開するためにはどうしてもフライデーが必要だったのです。

ここで自分と言っているのは、人によっては自我と呼ばれています。自我はイメージ的には真空状態にあるものだと思っています。そこには自分というものと外からの刺激が混ざり合うのです。体的にいうとそれは血液です。血液というのは酸素を取り入れて体の隅々まで運ぶものということになっていて、そればかりが強調されますが、血液は自分の中からのものと外からの刺激とが出会っているところでもあるのです。

時代精神

2025年1月10日

それぞれの地域が特色を表しているように、それぞれの時代もそれぞれの特色を持っているものです。

それを西洋哲学がいうように発展とみなすのは無理があると私は思っています。

時代は変化はするもので、進化するという考えるのは強引すぎ無理があります。それは今が一番進んでいるという驕りにすぎないのです。また進化という考え方には「・・であるべき」という押し付けが入り込んでくる隙間を感じます。「・・すべき」は結構危ないものです。

百年前と比べて今が進化しているといえるのでしょうか。テクノロジーなどを見れば便利になりました。百年前にはテレビ電話など夢のまた夢でした。そこに関しては便利になり、ベリが進化であるのならな進化です。しかし人間として、人間性が百年分進化したのかと言うと。そんなことはないのではないかと思います。むしろ退化していると思えるものも少なくありません。

経済的に見ればみんなが昔に比べると豊かな経済力を持っています。産業的にも比べ物にならないほど進化しています。ただそれだけが時代を比べる時の基準だとするのはあまりに物質主義的に偏りすぎていて、精神の部分が見落とされています。

話を音楽に移します。現代音楽というのに興味があり、時々演奏会で聞くのですが、何をどう聞いていいのか、未だに分かりません。大抵首を傾げながら帰ってきます。音楽技法は色々と講釈されていますから、プログラムを読めば分かりますが、音楽は読み物ではないので、聞いて何とか感じたいのですが、どうしても距離を感じてしまいます。それでもまだギブアップしたわけではありません。引き続き聞いてゆこうと思います。

現代音楽には長い作品が少ないです。たっぷりと現代音楽の温泉に浸かったと言う経験は今はまだありません。ちょっとつまみ食いをす程度の長さのものが多いようです。記憶に残るようなものも少なくそのためか全体像とか印象と言えるものを持てずにいます。

短いと言うのは決して悪いことではありません。今は長々とした長編小説よりも、心の中を簡単に吐露するようなものの方が好まれるようです。インスピレーションで共有できるからかもしれません。時代は説明よりも直感的に理解したいのかもしれません。日本の俳句が世界的にブームになっているのはそうした背景があるからなのかもしれません。

現代人は十九世紀、二十世紀ほど深刻にものを考えなくなっているのかもしれません。絵画もドロドロしたものより、傾向としてはグラフィック的なものが支流です。服装も単純化しています。

長々と説明されることは苦手な現代人とみていいのでしょうか。SNSの伝達の要領も電報風と言える短さです。「チチキトク。シキュウカエラレタシ」のようなものです。それでは何も伝わらないと思うのは古いからなのでしょうか。

こんな時代的風潮の中でたっぷりした心に沁みる音楽を現代音楽に期待する方が間違っているのかもしれません。特に現代音楽は、そもそもクラシックのジャンルのものですから、知的傾向が強いものです。しかし現代に至っては、その傾向はますます助長していて、音楽体験は知性に委ねられてしまっています。音楽は知性によって支えられているのです。人間を知能指数で表そうとしているようなものだとしたら、何かが欠けているように思うのは私だけでしょうか。

こうなってしまった時代にブレーキをかけられるものがあるとしたら何だろうと考えるのです。ただ芸術だけです。役に立つという路線から離れ、無駄の中に価値を見出せる精神と言ってもいいのかもしれません。

生きる中で楽しいものを探してもいいのではないか、その楽しさの中でリラックスしてもいいのではないのか、そこに予定外の価値を見つけることができるのかもしれないのです。芸術だけでなく物作りも大切なことです。頭に凝り固まったものを手を使ってほぐすのです。そうしていると人々の目がまだ輝き始めそうな気がしてなりません。

 

専門家と天才とアマチュア

2025年1月8日

専門家には専門家の美しさがあります。いっしようをその仕事に捧げた姿は凛として、私の背筋が伸びます。

またアマチュアにはアマチュアの清々しさがあります。そこに見られる違いは明確ではないですが、やっていることを生業としてやっているということだけではないようです。

アマチュアという響きはプロとは違って緩いものを感じますが、昔読んだ本の中に、イギリスにはプロ以上のアマチュアが生まれる土壌があるというのです。気骨のあるアマチュア精神のことです。アマチュアというと一見暇人にもみえなくもないですが、生涯アマチュアを通すというのですから、プロの意気込みとは違った気骨のある人たちには違いありません。

ここでいうアマチュアというのは素人とも違うものです。本気です。イギリスのアマチュアはイギリスのアマチュア気質なので、日本人的国民性には見られないものかもしれません。だからでしょうか、それを読んだと時にすごく憧れたのです。教えてくれたのは平凡社の百科事典の初代編集長の林達夫さんでした。哲学的な仕事をされる傍ら岩波文庫のファーブルの「昆虫記むやベルグソンの「笑い」の翻訳者でもありました。彼そのものがアマチュア精神を生き抜いたような稀有な人でした。

物事を成就するにはいい意味での執着が必要です。天才的な人たちはみんな何がしかの執着に突き動かされているようです。時には悲劇的でそれで燃え尽きてしまう人もいます。アマチュア精神はムキにならないことでその執着から解き放されているわけです。ただアマチュアとしての執着は持っているのです。ここが分かりにくいところです。

アマチュアのこだわりを見つけることが私の今年の課題のようです。

芸の道はその答えを示しているように思えてなりません。

いつまでも終わりがないものだということです。一生は短く芸の道は長し。

初めては飽き、飽きてからまた始める。いい加減さの持続。