ユーモア

2021年7月26日

もう飽きるほどユーモアについては書いてきました。今日も思うところがありユーモアについて書きます。

三十代で体を壊した時、聖書の福音書を繰り返し読んでいました。日本にいるときに牧師の友人が四冊の小さな本をくれたのですが、それは一つ一つの福音書だったのです。

それまで見向きもしないでいた本ですが、こういう本を読むいい機会だと読み始めました。一冊読むと次の福音書という具合に、四冊を読み終わるとまた始めら読み始めそれぞれを四回づづ読んだところでやめました。やめた理由ははっきり覚えていませんが、何となくお腹がいっぱいになったような感じで、これ以上読んでも楽しさを見つけられないと思ったのだと思います。

福音書には実に病気直しの例が頻繁に登場するのに驚きました。だからと言って自分の病気にいいい影響を直接感じていたわけではありません。初めは聖書の言葉に慣れるのに難儀しました。何となくよそよそしくて、血の通った文章とは思えなかったのです。読み進むうちに慣れきて違和感は無くなりましたが、最後までぎこちない文章だという感想は持つ続けていました。

当時気になったのは聖書の中に笑いがないことでした。もちろんユーモアというものもなかったように記憶しています。宗教というのはこういうものなのかと、初めて真剣に聖書を読んでわかった気がしました。聖典と言われるものは、キリスト教に限らずよく似ていると思います。つまりユーモアを語らないということです。ユーモアはご法度のような扱いを受けているようです。

 

ユーモアという言葉は歴史的には古くから存在しているようですが、精神性についての言葉ではなく、湿り気、潤のことを言っていて、気質が生まれる原因になっている体液の種類のことなどですから、今日のユーモアとは基本的に違います。

今日のユーモアは近代、現代の新しい発見によるものだと思っています。発見者は知られていません。一人というより、時代の流れの中でユーモアの必要性に気づき、その大切さを感じる人が色々なところで同時に出現したと言ってもいいようです。ともあれ、社会が真面目に傾き息苦しくなるのに耐えられないところでユーモアが認められたのでしょう。精神性としてのユーモアは存在を認められたのです。

しかし人間とは真面目な存在物のようで、なかなかユーモアを本気で認めようとはしないのです。ユーモアには緊張をほぐすような働きがあるので、真面目に物事を考えている人たちは、ユーモアの巧妙を知りません。よく茶化していると勘違いされるものです。ユーモアなんて言っているのはいい加減な人間だと勘違いしている人もいます。

フランスの数学者でポアンカレという人がいて、偉大な発明をしている大学者でありながら数学的直感などということをいう変わり種としても有名です。ある時馬車に乗ろうとして、馬車に足をかけた時に今まで解けなかった命題が解けたそうで、ポアンカレはどこかに直感が降りてきそうな精神的資質を持っていたようです。またある物理学者はよく友達を呼んでは卓球をするのだそうです。下手の横好きの卓球ですからどっちが勝つなどという試合形式の卓球ではなく、ただただ相手から来た球を打ち返すことを永遠に続けているだけの卓球でした。しかしその全く他愛のないピンポンの動きの中で、彼はいくつもの偉大な発見や発明をしたというのです。

ユーモアの一つの特徴は合目的性から外れているということだと私は思っています。混沌とした状態の中にあるものかもしれません。ある目的のために何かをするというのはもしかしたら古い精神的な姿勢なのかもしれません。訳の分からな、一見無意味に見えるような状態の中に、とんでもない空間が存在しているのかもしれないのです。それはキリキリと眉間に皺を寄せていては生まれないもので、無邪気にピンポンをしているような時に作られる真空状態の空間かもしれません。

ユーモアとは直感に限りなく近いもののように思えてきました。

繰り返す力、あるいは一回きりの体験の醍醐味。

2021年7月21日

繰り返しことを教育者がいうと説教臭くなりますが、繰り返すということ自体、私たちは案外楽しんでいるように思うのです。

同じ本を何回も読む人がいます。二回目が一回目より新鮮だったという経験は私だけでしょうか。内容的には、とりあえずは知っているのですが、説明できないですが、どこかに知らないという感触があります

同じ映画を何回も見る人がいます。テレビでは再放送というのもあります。再再放送も、再再再放送もあったりしますから、繰り返すという習性は意外根強く私たちの生活に結びついたもののようです。

繰り返すことの醍醐味とは別に一回きりという緊張感も取り上げたいと思います。

今日では有名な音楽家の音楽会に一度ならず、二度、三度と接する機会は珍しくありません。その演奏家の録音もありますから何度も聞けますが、百年ほどを遡ると世界の状況は今とは全く違うものだったのです。レコードが始まった時期で、まだまだ普及しているとは言い難い時代でした。一生に一回しか聴けない音楽家の演奏というのがあったのです。田舎の小さな街での話ではなく、都会でも一回きりということは珍しいことではなかったのです。一回しか聞けない演奏会に行く時の緊張感は、今の人がレコードや動画で知っている演奏家のコンサートに向かう時のものとは違っていたに違いありません。

ということで、私たちは繰り返しの醍醐味と一回きりが持つ醍醐味の間を生きていると言えます。

話を少し別の方に向けます。

輪廻転生と一回きりの人生とをどのように折り合わせたらいいのでしょうか。今生が良くないのは前世での頑張りが足りなかったからだとか、今生はダメだけれど来世頑張る、なんて考えるのは輪廻転生を自分の都合で弄んでいます。私は転生はあるものだと信じています。しかし同時に一回きりの今生という考え方を切り離してはいません。どちらも私の人生を考える上で大切な考え方です。そして両方を持つことで何の矛盾も感じていません。

転生があると考える方が豊かです。人生は一回やったからってわかるようなものではないからです。人生は形式的なものではなく中身の深いもので、人生というものをどこまで深めたかが問題になるものだからです。身分や成功談は形式です。

さて一回きりの人生という考え方ですが、実はとても緊張感のあるものなのです。ありがたいことに前の人生の記憶がないので、今という感触は、一回きりの人生と考える時にこそリアルなものになります。一瞬一瞬を生きているというスリルは、過去生があったからとか来世があるからと油断しているとそばを通り過ぎてしまいます。今を生きるという緊張感は一回きりの人生という観点から生まれるものです。

人生を一回きりでいいと考えるのは人生の大きさに気づいていないからです。多くの人が、今生で大きく成功することを期待しているようですが、それでは表面的で形式的な人生しか見えていません。人間として社会でどのように機能したのかは形式に属しています。人生は深くしかもスケール大きなものです。私にはそう見えます。ですから一回生きただけで済むなんていう考えは横着そのもののように見えるのです。

私は死ぬ時には、早くまた生まれたいと思って死にたいです。ただいつ死ぬか分からないので、今から準備しています。本気で言いますが、私はまた生まれてきたいです。今生がつまらなかったからではありません。今生を十分楽しみました。また生まれたいのは今生以外の人生にも興味があるからです。でもその楽しみは自分の都合でどうにかなるものではないのです。

まず今生をしっかり生きます。今生で人生と向かい合う時は、今を充実させることに努めます。それが今生を生きている中で一番大事なことのように思えるからです。

 

 

 

 

おにぎりとおむすび。結びのこと。

2021年7月20日

ふと、何故おにぎりをおむすびというのだろうと不思議になりました。

結ぶ、結びと言う言葉は含蓄のある言葉で、ごく普通の日常生活から専門用語まで、結びと関連する言い方が多くあります。

結晶という物理現象も結び固まるという意味を用いたものです。結ばれるという言葉はもつれるという意味でもあって、量子のもつれなども、元を正せば結びというイメージの中から生まれたものかもしれません。結びは、どんな状況にも対応していて変幻自在に登場します。

桃太郎はおばあさんが作ったおむすびを持って鬼の征伐に行き大勝利を収めたと言われています。おばあさんの愛情が一粒一粒のお米の間に込められていてそのエネルギーを桃太郎はもらったのだそうです。

栄養学的にもお茶碗によそったご飯よりもおむすびにしたものの方が栄養価が高くなると栄養士さんに聞いたことがあります。

子どもの頃、残ったご飯がおむすびにして卓袱台に置いてあるといつの間にか無くなっていました。お釜のご飯には誰も手を出さないのにおむすびは何となく食べてしまうのです。

日本の折り紙のことをドイツの新聞に書いていたときに、ただ紙を折り畳んでいるのではないような気がして、色々と考えていた末に、あやとりと折り紙にはもしかしたら共通なものがあるかもしれないなどと思い筆を進めたのですが、ドイツ人にそのことを説明するには大きな論文規模で書かないとわかってもらえないのでやめて、簡単に折り紙の不思議を書きました。はじめに三角にして、もう一度三角にして、そこから中を開くと四角になるのに、始めに四角にし、もう一度四角を折って四角にして中を開くと三角になるということを説明したのですが、それだけでもプラトンの幾何学のようだと反響があったことを思い出しました。

神社ではお弁当におむすびが入っていますが、神様と結ばれたという意味をシンボル化したものだそうです。

西洋の神秘主義の世界でも物質と霊的な精神世界とは結ばれるという言葉で表します。薔薇十字会の化学の結婚は象徴的な本です。

結婚は縁が結ばれるということで、単に一人の男と女が結ばれるだけでなく、二つの家族が縁で結ばれることも意味しています。しめ縄は、二つの縄を大変な力で結びつけたものです。そこには想像を超えるほどの力が働いていて、縁結びの出雲大社の大きなしめ縄は二つの力を引き寄せ結ぶ場所として多くの人が参詣します。

最後に、やはりあやとりのことが気になるのでそれを結びとして終わりにしたいと思います。

紐を結ぶと結び目ができます。こんがらがって結び目ができてしまうこともありますが、意図的に結び目を作ることもあります。その結び方は何十種類もあって、船に乗る人、アルピニストにとっては命に関わるので知っておかなければならない結び方がいくつもあります。

あやとりは結び目を作らないで遊びます。一人で梯子を作ったり、あるいは鉄橋を作ったりしますが、二人で取り合っても遊べます。特に一人あやとりという魔法の通路のようにいろいろなあやとりの形を通りながら元に戻ってくる不思議な遊び方もあって、お見事と言いたくなるほど見事に仕組まれています。

取り間違えると不本意な結び目ができてしまいます。しかしこの結び目が別の観点からは必要なものとして重用されます。

二本の紐をつなぎ合わせることを結ぶと言います。しかし一本の紐を輪にすることも結ぶと言います。社会生活のなかで共同作業を行うことを古くは結(けつ)と呼びました。結束してというのはその名残りです。今の社会には失なわれてしまったものです。社会が組織化されてしまったこと、そこでシステムの中で生きることが習慣化されたためです。先日のドイツのルール地方の大雨による大洪水のような状況下では、人間本来の結が復活します。そこで人々は多くを失い、失意のどん底にありながら結による根源的な幸せを感じています。