ジャクリーヌ・デュ・プレ

2018年1月20日

音楽をするための楽器をインストルメント(instrument)と言いますが、そもそもの意味は道具で、職人さんたちが作業に使うものは皆このインストルメントです。

優れた職人さんは道具を知り尽くしていて、道具が体の一部になってしまった観があり、仕事ぶりを見ているとそれだけで良いものが生まれる理由がわかります。宮大工の西岡常一さんが薬師寺の塔の建築の時に職人さんを選ぶのに道具箱の中の鑿(のみ)、鉋(かんな)、鋸(ノコギリ)と言った道具、インストルメントをいの一番に見たと「木に学ぶ」で読んだ時、道具の命を知ることと良い仕事とは切っても切れない縁があることを再確認しました。

音楽での演奏家と楽器も同様で、演奏する人は自分の楽器を知り尽くさなければ良い演奏ができません。しかし最近は楽器を単なる道具に見立てて、楽器演奏をショウ的にパフォーマンスする人が多いのにはびっくりします。

 

今日はチェロの話です。以前にブログでエマヌエル・フォイアマンのことは紹介しましたが、彼はまさにチェロそのものの人でした。楽器を知りつくし、チェロの命に通じていた人でした。群を抜いた技術を持ちながら、技術に振り回されることがないだけでなく、人間的に衒(てら)いがなく、自然体でさりげなく弾くのです。人間フォイアマンを音の隅々まで感じる、一度聞いたら忘れることがでないその音は印象深いものです。

性格的にも優しい、人思いな人だったそうで、しかも剽軽者(ひょうきんもの)で人を笑わせてばかりいたという心底明るい性格の人と彼を知る人たちは口を揃えて言っています。42才で盲腸の手術の失敗が原因で亡くなった時、突然の死に世界中の音楽ファンが彼を失った悲しみを言葉にしていました。

 

今日もう一人私がいつも新鮮な思いで聞いている、やはり42才という若さで、30年前に亡くなったイギリスの女性チェリストの話をしたいと思います。28才で病気のため(マルチプル・スクレローゼ、MSと省略して言われています)演奏活動を終え、14年の闘病生活の末なくなりました。

残された録音を聴いていると、名演奏といった一般的な言葉では語り尽くせない、彼女にのみ許された一回性の演奏に出会えるのです。聞けばすぐ彼女の演奏だとわかります。そして何度聞いても新鮮さがなくなることがないのです。

彼女の手にかかると音楽は、言葉は悪いですが「ピチピチしていて本当に生きのいいもの」として生き始めます。繰り返しますがいつも新鮮なのです。その新鮮さの秘訣は、自信をもって言いますが、演奏しているとき彼女が全身全霊で一音一音に出会っていることに尽きます。出会うと言うのはその一音一音に命を吹き込むことです。パフォーマンスではなく、音に向かって素になり弾き込んで曲を歌いあげるのです。彼女の音はいつもチェロが自ら歌っている様でした。

言葉にしてしまえばそれだけのことですが、それだけのことがなかなか出来ないのです。演奏技術が未熟だと音を捉えきれませんし、技術がついてくると技巧に任せて弾いてしまい、やはりしっかり音に出逢えないのです。どちらの演奏にも後味の悪いものが残ります。

生きた音と死んだ音とがあるのです。死んだ音は楽譜に閉じ込められたままでそこから抜け出せない音で、生きた音は楽譜から抜け出して私たちが生きている空間と時間を私たちと一緒に呼吸し、泳いでいます。優れた演奏家は楽器を知り尽くした上で、上手に楽譜から音楽を引き出す術を心得た人達なのです。

 

ジャクリーヌ・デュ・プレはそんな資質に恵まれたチェロ奏者でした。

彼女のことを友人たちが回顧しながら話しているのを聞きながら、茶目っ気たっぷりな悪戯っ子の彼女に備わった、間抜けな、ノーテンキの自然体という側面が見えてきました。高貴な淑女のようでありジプシー女のような(わたしは野性味と理解しました)ところも持ち合わせていた様です。いつも底抜けに明るく笑っていたので、あだ名は「スマイリー、smiley」、冗談を言いながら周囲を明るくすることを忘れなかった、ユーモアの精神を地で生きた人だった様です。ここからも生きた音が作られていたのでしょう。

それだけでなく、多くの共演者たちが、合奏のときに他の演奏家たちが弾きやすくなるように(気づかれないように)配慮していたことを口々に述べています。彼女と演奏できることの幸せをいつも感じていた様で、最後に「I miss her (彼女がいなくて寂しい、彼女にここにいてほしい)」と言う言葉で涙ぐむように締めくくります。

こんなに人を愛し、人から愛され、音楽を愛し、音楽に愛されたた人が弾くチェロの音です。きっと生きることの素晴らしさを語りかけてくれると思います。人間の高貴さを讃え、人間の無限の可能性を共に感じ、生きていることの幸せに包まれる、パフォーマンスを超えた確かな手応えが彼女の音にはあります。

You Tubeは彼女の生前の友人、知人の音楽家たちが彼女を回顧しながら思い出を語っています。英語ですが、字幕のところをクリックして、活字の英語を頼りに頑張ってください。

Who was Jacquline du Pre? by AllegroFilms

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未完成交響曲、シーベルト

2018年1月16日

ここ二回程超スローテンポに触れてみました。

今日はシューベルトの未完成交響曲で三度目の超スローテンポということになります。

この交響曲がスローとどういう関係があるのかと首をかしげ.る方もいるでしょうから、少しだけそのことに触れておくと、この曲はスローの精神で書かれているということなんです。それでここにとりあげるのも悪くないかなと思った次第です。力を入れすぎると長くなりそうなのでできるだコンパクトにまとめたつもりです。最後まで読んでいただけたら恐らく色々なことがわかっていただけると思います。

 

この交響曲は西洋音楽の中の突然変異です。こんな変わり種はこの曲が書かれるまでかなったし、これからはどうなるかわかりませんが、西洋音楽の中に異変が起きない限り生まれないでしょう。未完成に終わったことが理由ではありません、そんな曲なんかは掃いて捨てるほどあります。そうではないなくこの曲には西洋的感性、思考にそぐわない体質があって、行き先を見失いそうな無重力な不安定さの中で調和がとれているからです。音楽が何かを表現しようとしているうちは、第二の未完成は期待出来ないのです。

 

少し横道に逸れますが、シューベルトが歌曲の王と呼ばれていることは皆さんもよくご存知だと思います。正真正銘の歌曲王です。数え方によって随分変わってきますが、作られた歌は公には600曲ほどということです。でもそんなことはどうでもよくて、ドイツの今日の歌曲の状況をお話しすると、なぜ彼が本当の歌曲王なのかが見えてくると思います。実はドイツでは歌曲なんてすっかり忘れ去られて、コンサートをやりたくても人集めができなくて困っています。ブラームスもシューマンもシュトラウスもヴォルフも歌曲の夕べは閑古鳥が鳴いています。でもシューベルトの歌は聞きに来る人がいるんです。摩訶不思議な人気です。

もう一つ歌曲王にまつわることでいうと、シューベルトの歌曲はメロディーの美しさはいうまでもないことですが、伴奏が素晴らしいのです。メロディーも湧くように生まれたのでしょうが、そのメロディーを包むような伴奏を忘れてはシューベルトの歌曲は語れないのです。歌曲の王、伴奏の王それがシューベルトです。

特に歌は伴奏が目立ちすぎると歌が生えないですし、単調でも飽きてしまうというもので、高度な音楽的センスが要求されています。シューベルトの音楽は伴奏の精神、つまり無私であって自己主張をしない精神に支えられているのです。

 

未完成は演奏される回数は多いし、好きですという声もよく聞きます。ドラマ性がある訳ではないし、曲がなにか特別な、例えば人類愛だとか、宗教的にキリストの受難だとか昇天を表現しているという訳でもないのに、とても好かれています。好きとしか言えない何かで人が聞きに来るのです。歌曲もよくにいてい、歌詞が二流の詩人からだと文学者たちは指摘しそっぽを向きます。だから聞くに値しないとインテリ層の人たちからも相手にされないのに、実際には聞きに来る人がいるのです。高尚な説教が聞きたいわけではなく、歌で日常から非日常へと飛び出したいのです。そして心をリアルに感じるシューベルトのメロディー、それを包む伴奏にひたりたいのです。みんなそんなことが好なんです。

 

ちなみに好きですという人にどんなところが気に入っているのか聞いてみると

「音楽が角張っていなくて、海のうねりのようで、穏やかな音楽の流れ」

「自己主張がないよね」

という返事がある友人から返ってきました。

他に返事があったのですが、この返事ほど興味深いものがなかったのでカットします。

わたしは

「この曲は何か言いたいことがあるのだろうか」

と思いながら聴いています。

まだはっきりしたものがつかめていません。

音楽会では、

「今日はどんな演奏が聞けるのかぁ」

とワクワクしながら始まりを待っています。

 

この曲、わたしの個人的な感想ですが、どの楽団が、誰の指揮で演奏してもそこそこに聴けるものになるので安心です。大きく外れることがないと同時に極め付けのようなものがないのもこの曲の特徴です。高等学校の音楽クラブが演奏した未完成でも楽しめるし、超一流のオーケストラでも楽しめるしと、不思議といえば不思議な代物です。ほかの交響曲では起こりえないことが起こっているのです。

もう一つ個人的な感想です。

わたしはこの曲を聞いている時、いつも人の後ろ姿をみるのです。ほとんど毎回です。ある時は夕陽に向かって黙々と歩いている人、ある時は森の中をゆっくりと散歩している人、ある時は浜辺を歩いている人とその日の雰囲気や気分でいろいろですが、ある時は職人さんの仕事をしている後ろ姿が見えてびっくりしました。いつも決まって人の後ろ姿なんです。やや大きめな背中も共通した特徴です。

 

この後ろ姿は超スローな演奏を聞いている時にも時々現れますから、未完成も超スローの部類の音楽ではないかと思ってここにとりあげたのです。今までは演奏の超スローでしたが、今回は作品としての超スローでした。

超スローテンポでフルートを吹く

2018年1月15日

先日You Tubeで息の長いフルートの演奏に出会いました。フルートは息の流れで音を作りますから、ライアーとは違い超スローの特性がリアルに体験できます。聞いたあと目の前の靄が吹き払われていました。フルートの音がこんなに心をときめかせてくれるなんて珍しいことで、多くの方に是非この演奏を聞いていただきたいので紹介します。

Glick-Melody from Orpheus for flute and organ. wmv

 

邦楽では龍笛、能管、篠笛そして尺八などで呼吸の長い演奏に出会う機会があります、ところが洋楽、西洋音楽ではなかなかというよりほとんど出会えません。そんな中での出会いでしたから喜びは一層でした。

初めて聞いたときにはフルートでもできるんだとただただ感心して聞いていましたが、聞き終わってしばらくしたら深い感動がこみ上げてきました。フルートで超スローなテンポを取るのは技術の問題もさることながら、音楽感性と何よりも勇気の問題でもあることに気付いたのはしばらくしてからのことでした。

モスクワでの演奏会となっていますからロシアの演奏家でしょう。演奏していたのはグルックのオペラからの、よくメロディーと題されて演奏されているものです。

 

西洋音楽の世界でもたまにはスローな演奏には出会えます。しかし超という字がつくときは大抵反対の超絶技巧や超スピーディーです。西洋音楽の世界で超スローが稀なのはちょっと不思議です。超スローはタブーかもしれません。まあそんなこともないのでしょうが、それを良しとする文化的な基盤がない、これだけは言えそうです。

 

私が尊敬してやまないピアニスト、スヴァストラフ・リヒテルはそんな中で例外的にスローの意味と真っ向から取り組んだ人でした。彼にしても初めからそのような演奏スタイルではなく、若き日には超絶技巧を駆使し、世界中を飛び回ってバリバリの音楽会をしていました。70年代に入ってからシューベルトを本格的に弾くようになって彼の中に異変が生じます。私はシューベルトがターニングポイントだと思っています。単なるスローではなく超スローでシューベルトのピアノソナタを弾き始めたのです。当時はレコードの時代で、針を落として音が出てきたとき、回転数を間違えたかと思ったほどのゆっくりさでした。目が点になるというか耳が釘付けになったのを覚えています。

リヒテルの超スロー演奏はただのんびりゆっくりというのとは話がちがいます。音そのものが変わってしまうのです。ピアノの音は明るいオーラに包まれ空間に広がって行きます。しかも今聞こえている音の向こうからもう一つ音が聞こえてくるのです。レコードで聞いても体験できるほどでした。超スローな演奏は演奏時間の問題で片付けられるものではなく、もっと深い、今の演奏常識からは想像もつかない次元の世界への道なのです。

 

リヒテルのことは以前にも書いていますし、また近いうちに書くつもりでいるので、ここではフルートで超スローなデンポを聞かせてくれたMitryaykinaさん(なんと発音していいのかわかりません)に話を戻したいと思います。

ゆっくりだと感じるのは出だしのところくらいで、その後は彼女の演奏に引き込まれてしまいます。伴奏はフルートのテンポがゆっくり過ぎてピアノでは難しいのでしょう、オルガンでした。演奏が終わると大喝采ではなく、一人の男性の声でブラボーが聞こえます。そしてその後暖かな拍手が鳴り響いていました。ロシアでは受け容れられるテンポのようでした。

リヒテルもこの女性もロシア人です。これは偶然ではなく、ロシアの血の中にスローテンポを肯定するものがあるのだと言うことです。ロシアにある東洋の血なのかもしれません。ということは、少し大風呂敷を広げると、ロシアは東洋の超スローの精神を西洋に繋げる役割を担っているということになるわけです。ヨーロッパの人たちにとってロシアは、日本から見るのとは違って、ヨーロッパと東洋の両方を持ち合わせている民族と映ります。そのロシアの血を持った二人の音楽家が、タブーを破って?超スローな演奏に真っ向から取り組んでくれたのです。

もちろん邦楽の超スローとは違います。呼吸の流れも滑らかに流れるヨーロッパスタイルです。ところが、彼女の演奏に初めて接したとき、グルックを尺八で吹いている様な印象を受けたほどでした。

この演奏は、すばらしい、珍しいという次元のものではなく、西洋と東洋の橋渡しを果たした文化的遺産だと思っています。

 

しかしなぜ超スローは東洋に見られるのに西洋にないのでしょう。この問題にいつかゆっくり取り組んでみるつもりです。今はただ、そこに精神的背景、意識の問題が潜んでいることを指摘するに留めておきます。

 

超スローでライアーを弾いているとき、今という垂直な時間軸は静かに、周囲にほとんど気付かれないように移動しています。止まっているように聞こえると言う人もいるかもしれません。しかし時間も音も移行しています。一つの音から次の音へと動きます。時間軸の移行です。音楽の静けさはここから生まれるのです。

リヒテルのピアノに聞いたオーラに包まれた音、もう一つの音は、音と音との間から聞こえてきていたのです。普段はどこかに隠れている音で超スローの演奏の時にしか聞こえない別次元の音なのです。