輪島へ支援

2024年2月22日

名古屋に滞在していた時に、ラジオを聴いていたら、輪島塗りの被害を逃れた工芸品が三越で展示されているというニュースが流れてきました。

それを聞いた瞬間に思ったのは、それを買うことで支援しようと言うことでした。被災地に対しては、義援金、カンパ、寄付といろいろな形がある様ですが、私にはどれもが直接被災した人たちに届いていないような気がしていつも躊躇していました。

そのニュースは私にはまさに私にとっての願ってもないものでした。能登沖地震への唯一の支援の方法のように思えたのです。

その日に始まって一週間、名古屋の三越デパートの支援で催されることになった輪島塗の展示即売会に出品されていたものは、どれをとっても日本の工芸技術の質の高さを堪能できるものでした。普段はあまり目にすることができない正真正銘の高価な輪島塗が四十種類ほど展示されていたのです。そのどれもが息を止めて見入ってしまうものばかりでした。

作家さんたちがそこに居合わせ、ご自身の作品について語ってくださるのですから、最高の贅沢で、私はトチの木で作られ、漆で処理された直径二十センチほどのお皿を五枚セットで買い求めました。作られた方が今目の前にいて、そのお皿のできるプロセスをお話ししてくださいました。

我が家には大きなトチの木があります。ドイツに持ち帰って、5人の孫に一枚ずつプレゼントするつもりです。

高い買い物をしたと言われるかもしれませんが、その時支払った金額が次の作品のために使われると考えたら、とても満たされた気持ちになりました。

街中で、電車の中で。知らない人が知っている人に見える

2024年2月15日

雑踏の中とか電車の中で見ず知らずの人に「この人知っている」と釘付けになるとがたまにあります。驚くなかれ確信に近いものだったりするんです。この感触、どのように説明したらいいのでしょうか。

「他人のソラニ」なんて生ぬるいものではなく、「もしかしたら知っている人かもしれない」とか「どこかで会ったことがある様な気がする」というあやふやな、迷いのある感触でもなく、ここで「知っている」と断言できるのは、相当の確信なのです。その人は直球でこっちに向かってきます。しかも豪速球です。絶対に知っているんです。

この確信は初恋の時に襲われた感触と同じではないかと思います。本当に一目惚れそのものの感触です。一目惚れから初恋になった時のことを思い出すと、今まで見ず知らずの人の群れの中に、突然一人の人が現れるのです。気になって仕方がない人が現れるのです。ほんの瞬間の出来事ですが、その後はその人が自分の方を向いているかどうかが気になって仕方がないのです。しかもその人の存在は凄まじい吸引力です。この力には本人はもとよりですが相手もきっと驚いているはずです。相手方もきっと「知っている」と言う手応えは感じているはずです。

 

それは大きく分ければ再会なのかもしれません。再会、つまり再び出会えるというのは何はともあれ喜びです。しかも相当純度の高い喜びに数えられるものです。確信として未知の人に「知っている」と感じるのも再会の様なもので、同じように嬉しいのです。

しかしこの確信を裏付けるものがなんなのかと聞かれると何もないのです。どこで知っていたのかなんて証明できないのです。不思議です。全く根拠のないのに、絶対の確信なのですから。ここで前世のことを持ち出したくなる人がいるのでしょうが、気持ちはわからないでもないですが、それはひとまず置いておこうと思います。

私は学生の時に栃木の牧場でアルバイトをしていたのですが、牛同士、馬同士の間でも、私たちが言う一目惚れ、恋心の様なものがあることを知りました。一頭の雄馬が、ある雌馬を見ると恥ずかしそうな仕草をするのです。一回きりではなく何度も似た状況を目撃しました。これはまさに一目惚れと言える衝撃的な出来事です。あるいは「知っている」の感覚です。

動物にも人間に似た恋心があるのはなんだか嬉しいです。もしかしたら植物にもあるのかもしれません。人工的に受粉したものより自然受粉の方が実る確率が高いのだそうです。

 

情報の渦のなかで

2024年2月15日

ものを作りすぎた社会から生まれた弊害が、ゴミという一言に言い尽くされるように、大量の情報の量も行場に困っているのではないかと思ってしまいます。そろそろ行場を失った情報はゴミと同じような扱いを受けることになるかも知れません。

ところが情報のゴミの捨て場ですが、どこに捨てられることになるのかということは一度考えていいことだと思います。

産業廃棄物でもなく、粗大ゴミでもない情報のゴミの捨て場は、情報が物ではないため消えてしまうので、受け取った人の心の中に溜まるしかない様な気がします。それを廃棄物といえば、そうした廃棄物はどのように処理されるのかを考えないと心の中はゴミだらけになってしまいます。

話が少し飛びますが、治療をお仕事にする人たちがよく言われるのが、油断すると患者さんの病を受け取ってしまうと言うことです。その結果病気になってしまうことがよくあります。その時、受け取った病を体から抜くことができることが必要ということになるのですが、今の情報というのはそういうものに近いような性格の物ような気がします。

どんな情報と言えどもそれは真実ではないということを弁えて、そうした情報に接していないと、情報を間に受けて、悪く言うと洗脳されてしまいます。それはもう病気の始まりです。今は情報という病に多くの人がかかっているのだと思うのですがどうでしょう。しかしこの情報の渦から逃れることは容易ではありません。意図的にその渦から外れる時間を持って、心を清めることで健康を保てるかも知れません。メンテナンスとしては、ほとんど無意味と思われることにしばらく没頭することです。あるいは意図的に情報に身を晒して、飽きるほど情報を浴びることです。飽きるという体験は不思議なもので、飽きた時に何かの手がかりを得ていることがあるのです。飽和状態のようなものです。そこまで行った時に、情報に振り回されなくなることもあるのです。