生と性

2019年1月22日

性は女と男に分かれたところから生まれる緊張で同じ人間でありながら違っていることを間近にすることから人間生活に摩擦をもたらし時には複雑に絡み合いながら喜びや葛藤をもたらしています。

性はコミュニケーションの母胎でもありお互いに足りないところを捕捉し合いながら深く結び付けさらに心を通わせるデリケートな手段となって生きていることの喜び、存在していることの愛を教えてくれるものです。

二つの性に分かれたことで動物では種の存続のため雌雄の肉体の交わりによって生殖が行わなされるため人間も他の動物と同様男女の間には肉体的な交わりがありそのためお互いを刺激し合う幾多の手段が生まれ中には長い時間をかけ文化として絵画にしても音楽にしても演劇にしても詩にしても文学は豊かに色づけられたので性という二つの世界が刺激し合いぶつかり合い和み合うことで生まれる感情無くしては開花することのなかったものです。

性とは極めて単純な形を取りながらその形の単純さからは想像できない絡み合いをしながら二人の男女の間の枠を超え複雑な社会問題に発展することがしばしばありその中には犯罪として社会を戦慄させる事態に発展するものすらあるのです。

FBI捜査官を務め「異常犯罪者たちの素顔に迫る衝撃の手記」(ハヤカワ文庫)の著者であるロバート・K・レスラー氏によると残酷な性犯罪を犯したものたちを調べて言えることは犯行に至たらせた原因は少年期までの成長の間に両親に見捨てられたり家庭内暴力により傷ついたりという身近な環境から無視され見捨てられ裏切られることにより作られた深い溝である人間不信によるとしています。

快楽殺人に属するもので他人の存在を否定する殺人そのものが快楽であり快楽を求めての犯行なので犯罪としては極めて特殊であり同時に悪質なものでレスラー氏は長年の経験から犯人者たちは倫理の範囲を超えたところにいるためカウンセリングやセラピーを通して外から更生を試みても立ち直る可能性がない人たちだと断言します。

最も身近な環境から裏切られた少年が受けた心の傷は次第に復讐心に変化しながらその後の少年の人生にピッタリと寄り添い犯行の時を窺うのですがなぜ犯行が若い女性をターゲットにした極めて残酷な性犯罪になるのかの説明は不明な点が残しながらも生と性とが根っこで繋がったものだということを暗示しているとみて間違い無いのではないかと思います。

少年が受けた心の傷が確実に変容して社会への恨みへと固まった後犯行は異性である女性に向けられるのは制欲に端を発しているとはいえその範囲を遥かに超え性異常者や性的変態という枠組みでも説明のつかないほどの増幅でもっと深刻な原因を見つけなければと感じるのですが解決は簡単ではありません。

続く

篠田桃紅さんの細い筆

2019年1月20日

墨で抽象画の世界を描き続けられた今年106歳になられる篠田桃紅さんの使われる筆は筆先の太さは写経で使う筆ほどもなく加えて長さが少なくとも15センチはあろうという箒の柄のようなおよそ筆という常識からは逸脱していて初めてその筆を使ってお仕事をされている姿を動画で目にするまではどのようにして使われているのか、果たして本当にその筆から作品が生まれるのかは想像するのが難しいものでした。

その筆だけでなく太い筆も刷毛のようなものも使われ制作をされていますが印象的な筆はあの細長い筆先でそこにたっぶり含ませた墨から生まれる篠田さんの心の写しとご自身で仰る線はあの筆無くしては生まれることはないまさに琴線です。

自由であることが篠田さんを支えている思想的バックボーンだとインタビューから受け取りました。

書道、前衛書道から墨による抽象画へとスタイルを変えて今に至るのですが作品を作り続けている今も自由であることを追い求めているわけで日々新たな発見の中だとおっしゃいます。

自由であることのほかに謙虚であることを心がけていらっしゃいます。

謙虚は東洋の自我の現れの姿ですから西洋的の自己主張の自我とは正反対の位置にありますが宇宙と人間とを結び付ける篠田さんの謙虚なる自我は宇宙を呼吸し迷いを吹っ切りながら作品に結集します。

「墨は五彩」をとても力強く語っておられました。

東洋の数え方の中で五というのは五行からくるもので宇宙の全てということですから単に五色のことを言っているのではなく篠田さんご自身でも百彩、千彩にも成ると言っておられるように無限のニュワンスが黒の中に見える人には見えるものなのです。

 

篠田さんのお姿を拝見していて感じる一番は何かを貫かれた生き様でそこには強がりや力みのようなものがなく淡々と心と対話しながらそれを作品にし続けた人生が輝いていることです。

好きなことを一身にされ続けた篠田さんですがそもそもそれが天命だったというべきなのかそれとも作り続けたことで天命になったのかと考えながら一つのことを続けることの偉大さ、続けられることの幸せを篠田さんの生き様に感じています。

 

 

 

 

 

頭ではわからないのが時間

2019年1月18日

時間がどこに存在しているのか私は知りません。

場所ではないような気がします。

 

私たちは時間を測るすべは持っていますが、時間がどこから来て、どこにあるのかはまだ発見していません。

 

石炭や石油のような資源はいつか使い切るでしょうが、時間はどうもそういうものとは違って、使い切ることはなさそうで使い放題です。

しかし時間を使うと言う感覚はありません。しかもいくら使って、電気や水道と違ってお金のかからないのも気抜けです。

 

 

もう少し具体的にみてみましょう。

私たちは一生分の時間をもって、あるいは預かって生まれて来たと言ってみてはどうでしょう。ただ短命だったり、長命だったりと一生の長さというのは人によって違うものなので、人それそれの時間の持ち分ということで平等などという考えの及ばないところです。

 

その人の一生の間にきっかり使い切ってしまうので、子孫に財産のように残すことはできません。

 

時間を節約するという考えはどうでしょう。私たちはそのために多大の努力をしてきました。色々な道具を発明しました。洗濯機などは良い例です。時間が節約できるものだという考えは、根拠が曖昧な割には、私たちを虜にし、しっかり定着しています。そしてそのために日夜時間を惜しまず努力しているのです。でも節約して何か得することがあるのでしょうか。タイムイズマネーなのでしょうか。

この考えの延長にミヒャエル・エンデが小説モモに登場させた時間泥棒がいるようです。

 

 

 

時間というのは本当によくわからないものです。どうわかっていないのかがわからないので、私たちの先人は時間のことをあれこれと言ってきました。思想家と言われる、しっかり考えられる人たちが考えた末発言してきたのです。が、未だわからずじまいです。いつの日かわかるようになるとも思えません。

 

もしかしたら時間は科学とか、哲学とかの頭のいい人たちの知的な作業からでは見つけられないのかもしれません。知的というのは意外と制約があってその一つは証明です。頭のいい人たちは証明を必要とするのです。なぜでしょう。きっとお互いに信じていないからです。知的とか頭がいいというのはイコール不審家なので、人の言うことを信じようとはしないのです。証明なんかしないで、存在していることを認められるようにならないと、時間のことの理解はダメなのかもしれません。

 

証明せずにあると認めるようになるのは、私たちが知的レベルを超えてからのことなのです。知的レベルを放棄してはそこに到達しません。早とちりの無いように。

遠いい未来にはそんな時代が来るような予感がします。

 

時間は私たちがそんなレベルに達したら、今目の前に木がある時、「ここに木がある」と言えるように、「ほら時間があるでしょ」と言えるのかもしれません。時間はかなりハイレベルです。