不純物

2022年9月29日

唐突な話ですが、シュトゥットガルトの飲み水はボーデン湖、ドイツとスイスにまたがる大きな湖、から200キロほどをパイプで送られれています。スイスとイタリアが隣接する所で湧き出した水は、ライン川となってボーデン湖に流れ込み、そこで水は厳しい水質検査を経て飲み水の基準を満たしシュトゥットガルトに送られます。ボーデン湖の水がシュトゥットガルトに送られるようになってからは水質が以前と比べものにならないほど良くなったということです。現在では水面から50センチ下はすでに飲んでも大丈夫と言われるほどです。河川が汚され、ボーデン湖の水も匂いがするほどだった昔を知る人にとっては信じられないような話しです。当時は、自然保護の人たちが躍起になって河川汚染と戦っても達成することができなかったことが、シュトゥットガルトに水を供給するということだけで、まるで魔法にかけたように汚れた水が飲み水にまで浄化されてしまったのです。

この話には信じ難い側面があったのです。

さて水が綺麗になって、その清らかな水の中をスイスイとお魚たちが泳ぐと思いきやそんなことは起こりませんでした。却って魚は大きなダメージを受けたのでした。水が綺麗になったということは水の中の不純物(プランクトンを含め)が少なくなってしまいました。喜ばしい水質の向上の一方で悲鳴を上げたのはボーデン湖の漁師たちでした。昔は3・40センチくらいになった魚が今は10センチ15センチの大きさにしかならないとぼやいているのです。15年前、ボーデン湖のコンスタンツでゲルトナーライアー80周年の記念式典の際に100年前の蒸気船で湖を回りながらライアーを聞くという催しが企画されました。生憎天候が不純でライアー演奏はありませんでしたが。その時隣り合わせた方がボーデン湖で漁師をされているということで、珍しい出会いにおしゃべり好きな私は根掘り葉掘りと失礼を承知で訪ねました。その中で聞いた話が、ボーデン湖の漁師の人たちの悲鳴でした。「飲み水もいいが、魚のことも考えてもらわないと、10センチの魚なんて食べても上手くないからな、売り物にはならないのだよ」。まさに水清くして不魚住ずのボーデン湖版だとこの話を聞いていました。同時に何が自然保護なのかも考えてしまいました。

不純物が大活躍していることを初めて知ったのはファラディーの「ろうそくの話」を読んだときでした。「蝋燭が明るく燃えるのは煤(すす)があるから」と言う下りでした。実際に人差し指でろうそくの炎を通すと瞬時に指に煤がまとわりついてきます。ガスバーナーで実験すると、炎は温度が高くなるにつれて不純物がなくなり透明に近くなって見えなくなってしまいます。それでは周囲を明るくすることはできません。煤、万歳、でした。

 

私はまだ不純物にすらなれていないようです。

 

河鍋暁斎の展覧会

2022年9月21日

江戸から明治にかけて活躍した河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)の版画を見てきました。ドイツから招聘されたベルツ博士が彼の主治医で、しかも二人は非常に親しい間柄であったので沢山の暁斎の版画がベルツ博士によって海を渡ったのでした。

彼の作品に接したのは今回が二度目です。展覧会では大小混ぜると七十枚は越す量の版画を見ることができました。明治の初めはスター的存在だった暁斎ですが、今日では葛飾北斎や喜多川歌麿や伊藤若冲ほどポピュラーではありませんから知る人ぞ知る画家です。江戸から明治にかけて活躍したという版画の世界では珍しい時代環境を背景に持っています。珍しいことにイギリスから建築家として招聘され、たくさんの建築物を残したジョサイア・コンドルが彼に弟子入りしています。

とても充実した見応えのある展覧会でした。

今回の版画を通して気づいたのは暁斎の日常への愛でした。日常を多彩に観察する眼力です。ここは葛飾北斎にもあります。北斎漫画はそのいい例です。暁斎の豊かな表情付けと的確な描写は見ていてほくそ笑んでしまいます。もちろん至る所に美が輝いています。特に得意な魔性との対話を描き上げる暁斎の悪戯心は圧巻です。題材は奇想天外なものが多いのですが、それなのに表現に誇張がないため素直に楽しめます。絵の主人公たちがすぐそばにいるような感じさせるのは彼の絵画的力量とセンスのなせる技だと思っています。そして何よりも彼は絵が大好きなのです。それがどの絵からも伝わってくるのも今回の収穫でした。

 

ドイツの小さな町ビーティヒハイム、シュトゥットガルトから北に向かって車で30分ほど走ったところの町に暁斎の主治医ベルツ博士は生まれました。エルヴィン・フォン・ベルツという明治の初頭に日本に招聘されたドイツの医者がこの小さな町の出身だという縁から、暁斎の展覧会が開かれることになったのです。

ベルツ博士のことはドイツよりも日本で有名です。「ベルツの日記」が岩波文庫で出ていて、私も若い頃に読んだ記憶があります。29年の長きに渡って大学で教鞭を取り、日本女性と結婚していたことで、日本文化に深く触れることになり、河鍋暁斎と個人的な出会いあって主治医となり、さらに友人として意気投合して彼の版画を集めたのでした。花夫人と二人の子どもと一緒にドイツに帰る際、博士は全ての絵を持って帰りましが、死後売られ人手に渡ってしまいました。ところがその買主の好意で、生まれ故郷で展覧会が定期的に開催されるのです。いつも入場は無料です。

展示されていた作品の数はもしかすると百を超えていたかもしれません。

河鍋暁斎の腕は大変なものです。当時すでに有名人だった彼の作風は奇想天外なものまで、全てが遊び心から生まれ他ものです。明治に入って西洋精神に触れたことは大きいに違いありません。こういう画家は彼以前には見られませんでした。

一般には奇想天外という言葉が当てはめられますが、ただ奇想天外と呼んでいたのでは、暁斎の本意に到達しないと思います。また世の中を風刺したと捉えられるものもありますが、社会風刺などという陳腐なレベルを脱していて、人間存在を楽しんでいるのです。ユーモアという普通では手に負えない領域からの遊び心が絵になったのです。

暁斎が描くような独特の余裕は、絵画という世界が得意です。音楽ではなかなか表現できないものですが、彼の絵の前に立って見ているときには、グスタフ・マーラーの音楽が私の耳の中で聞こえてきました。

二人に何か共通するものがあるのでしょうか。

 

お隣さんヴェラーさんの死。人付き合いは80パーセントがきれいだ。

2022年9月14日

一昨日道を隔て真向かいの、今年六十八歳になる女性、ヴェラーさんが亡くなりました。

一年半ほどがんの治療をしてるのではないかとうち内で察していましたが、本人からはもちろんご家族の方からも何も聞かれされていなかったので、ただ早く良くなってほしいと願うばかりでしたが、ついにその時が来てしまいました。

五月にお嬢さんにお子さんが産まれ、道で会ったときに、初孫の誕生を本当に嬉しそうにお話しされていました。亡くなる二日前に息子さんからも、博士になったという知らせを受け取っていましたから、お子さんたちの将来をも見届けて天国に行かれたのでした。

ヴェラーさんは女医さんで、つい二ヶ月前にお仕事に向かうときにお目にかかったのが、今思うと直接話ができた最後でした。いつお目にかかっても、気さくに挨拶を交わすことのできる方で、通行する車に気をつけながら、彼女の姿を見ると必ず彼女の方に駆け寄り握手をして、二言三言でしたが話をしたものです。彼女を目にすると、自然と近づきたくなる気持ちが起こるのです。

 

ヴェラーさんが亡くなられて、自分がこんなに深い悲しみに陥るとは考えても見ませんでした。

私より若いし、いつも向かいの玄関から笑顔で出てくるのが当たり前でしたから、ヴェーラーさんがいなくなるなんて想像もしなかったことです。

それにヴェラーさんとのお付き合いは、ご近所さんでもべったりの付き合いにならず、会えば必ず挨拶をするだけの一番自然なものでした。彼女の個人的な悩みなど知る由もなく、時々目にする親戚付き合いの他は、たくさんのお知り合いの方は目にして、特に親しくしている友人がいるとは思えませんでした。

ヴェラーさんはどこかに孤独を漂わせている方でもありましたが、それがヴェラーさんに影を落としている様子は見受けられませんでした。逆にそこから凛とした気品が生まれていたと思っています。とても働き者で、「私は不器用だから」と言いながらも何でもする方で、そうしている姿が一番彼女らしい姿でした。亡くなる二ヶ月前にまだ女医さんとしてお仕事をされていました。さすがそのときににお話をしたときには声に力がなく、それが私の心配の種でしたが、病気はすでに相当進行していたようで、本人は医者ですから、自分の命のことは誰よりも知っていたのでしょう、最後の力を振り絞ってお仕事を続けてたのでした。

私の住んでいる向こう両隣10世帯は毎年一回ご近所会と称し飲み食い会をしています。小さな子どももいますからせいぜいグリルパーティー程度のものです。妻が二ヶ月前にヴェーラさんに会った時の第一声が「今度のご近所会は誰の担当」と心配そうに聞いていたそうで、「私がやってもいいわよ」といつもの調子で、何でも引き受けてしまいそうな勢いだったそうです。

八月に息子が結婚したときにも、きれいな真っ白な花束を届けるように息子さんに言いつけ、「母からです」と息子さんがうちの息子夫婦に届けてくれました。

 

彼女が亡くなったことを知ったお隣さんが、夜遅く訪ねてきて、涙ながらに「ヴェラーがいってしまった」と泣き崩れました。彼女がご近所の中では隣り合わせということもあって一番長く親しく付き合いがあったので、悲しみは本当に大きかったのだと思います。その彼女ですから一ヶ月前までは、入院しているヴェラーは胃の手術をしたらしいという程度の情報しか持っていなかったのです。

ヴェラーさんの病気のことを知っていたとしても何もできないわけです。私たちも何をしてあげたらいいのかわからず、玄関先に花を届ける程度しかしませんでした。

 

息子さんは雪の研究をしていて、六年前に東大で半年研究室にいたことがあり、我が家の菩提寺が谷中(上野・日暮里・根津)だったので一緒にお墓参りをしたり、母が住んでいた逗子にも遊びに来たりとしたことが縁で、ヴェーラーさんとはそれ以降、以前よりも一層親しくなった気がします。

 

ヴェラーさんに会うときに感じるのは、いつもとても気持ちのいい距離感でした。清潔な距離感と言いたくなるものです。親しくても深入りせず、自分は自分、他人は他人。それでもいつも笑顔で人には接する。今思うとヴェラーさんはそれをしっかりと実践していたのだと思います。それなのに、いやそれだからこそ、彼女が亡くなった後の悲しみが大きいのだと思います。気持ちのいいお付き合いとはこんなに貴重なものなのだと感じでいます。

今年の二月に母を亡くした時の悲しみとは違うものですが、彼女と人生の一コマを共有できたことが今は本当に嬉しく、その嬉しさの裏返の悲しみが大きく、こうして文章にしてしまいました。

 

読んでいただいてありがとうございました。

合掌