2026年10月4日
普通音痴は歌を歌う時に上手く音が取れないことをいいます。音が取れないこと自体でもあり、その人を指しています。しかし実生活では音痴という言い方は随分幅を利かせていて、音楽に限らず、どんな分野でも、そのことを理解していない人のことは「何々音痴」となります。方向音痴と言えば道に迷いやすい人ということですし、味音痴といえば味のことがよくわかっていない人ですし、数学音痴というと計算ができなかったり、社会音痴と言えばしが生のない人のことという具合にです。このように音痴という言い方は幅広く使われています。色音痴とも言いますが、色盲や色弱のことではなく、色の組み合わせのセンスのない人のことを指して言います。ワイシャツとネクタイの組み合わせがおかしい時、女性だとブラウスとスカートの色がしっくりしていない時などに言います。音痴の痴は白痴のことですから、知能が足りないと言っているのです。音を理解する能力がないことが音痴なのです。
しかし歌が下手で、音程が外れていても聞き様によっては音痴どころかうまく聞こえることもあります。音程ばかり気にして歌ったり、正確な音でヴァイオリンやチェロを弾いたからと言ってそれが必ずしもいい音楽かというそんなことはないのです。そもそも歌というのは音程取りの遊びではなく、心を響かせるのが本領だからです。音程度りに四苦八苦している歌こそがほや等は歌音痴ということなのかもしれません。
昔、ソニー創業者の一人、井深大(いぶかまさる)が「ゼロ歳からでは遅すぎる」を書いてセンセーショナルを起こしました。その本を読んでいたときに、巻末にオマケのような一章があって、記憶が正しければ「思い出に残る歌声」というもので、著名人たちの思い出の歌声の回顧録の様なものが集められていました。その中の一人の方が「おばあちゃんの歌」ということで書いていらっしゃって、今でも幼かった時におばあちゃんの背中で聞いた歌が1番美しいと思っている」というのです。
おばあちゃんが歌う歌というのは、おばあちゃんの背中で聞いた経験のある方はすぐに思いつくのでしょうが、音程ははっきりしていないし、歌詞も曖昧でというもので、実際には何を歌っているのかが判別できないような歌です。大事なのはそこには上手下手というものは存在しておらず、歌のエッセンスが凝縮しているということです。先ほどの音痴という言い方をここに当てはめるわけにはいかないのです。歌の本質は音程取りではないからです。かえってその「背負われて聞いたおばあちゃんの歌」を理解していない人の方が、歌の良さがわからない歌音痴なのです。
2026年10月3日
空気を読む、というのは山本七郎さんが三十年以上も前に言い出したことで、日本人の持つ特性としてしばしば挙げられます。状況を読んでそれによって判断する能力を指しています。
日本語を外国語として学んでいる方がよく言われるのは、日本語は状況と深く結びついているので、状況を読まないと会話が理解できないということです。そういう話を聞くと「確かに」と一度は相槌を打つのですが、実は英語という言葉は違った意味で状況というのか文脈というのかを理解していないととんでもないことになる言葉だということも事実です。英会話だけの勉強だと英語は簡単だと思われがちですが、英語を少し勉強してみるととんでもない深みに迷い込んでしまいます。まさに空気を読まないと本意が理解できないという感じです。その点に関して言えばドイツ語などよりは日本語に似ているし、英語が西洋語の中で1番難しいと言われる所以です。
日本で生まれ五歳まで日本で育ち、十五歳以降はイギリス人として活躍されているノーベル賞作家のカズオ・イシグロさんの小説「日の名残り」は大きな館のご主人様とそこの執事の複雑なやりとりが至るところに登場します。丁寧語・尊敬語・謙譲的な言い回しで会話がなされるのです。それ以外にも英語独特の言い回しが随所に使われていて、イギリス人にも読むのが難しいと言われているほどのものです。知り合いのドイツ人で英語に卓越した方の協力を得て一緒にその本を読んでいる時、よく「ドイツ語では出てこない言い方ですね」と耳にしました。逆に日本語では日常茶飯事だったりしたするのにと首を傾げていたこともあります。
英語のtake、getという言葉は辞書で引くと訳がわからなくなるくらい、多岐に渡った意味が並べられています。一つ一つを詳しく読んでみると、みんな「そうだ、そうだ」と納得できるのですが、文脈がわからなくなった時辞書を引いて調べようとしても迷うばかりです。特に書き言葉を読んでいる時には、ある状況で使われているgetを理解するのに、場の雰囲気を持つ会話の時とは違って、活字だけなので状況というか文脈を正しく理解するのに時間がかかります。二、三十くらいの使い方の違いの中から、今読んでいる文脈にふさわしい意味を見つけなければならないとなると深い迷路を彷徨っているようなものです。
ドイツ語にも英語ほどではないですが多くの意味を持った言葉というのはあって、五十年ドイツで生活して観察して気づいたのは、彼らはその言葉の意味を私のように二十、三十と区分けして覚えているのではないということです。彼らにとっては多岐にわたる複雑な使い分けは、案外単純に一つにまとめられているのです。極論すると一つの意味でしかないのです。わたしたち外国人が辞書で区分けするような理解の仕方ではなく、イメージとして全体を把握しているということです。状況に相応しい意味をイメージとしてイメージのプールのようなところから取り出して理解しているのです。とても流動的な感じです。まさに日本人が空気を読んで状況を判断しているようなものです。
ところが空気を読むのが得意な日本人が英語やドイツ語のそうした多岐にわたる意味を状況でうまく判断できるのかというと、そうでもないのです。我ながら不思議に思っています。言葉を通して空気を読むというのは、状況という生活の場で空気を読むのとは違うのかもしれません。
想像するに日本人は状況の空気を読むときに右脳を使っているのではないかということです。それに対し、西洋の言葉の空気を読むのは左脳を使っているという気がします。日本語は右脳的な言葉です。ところが西洋の言葉は左脳的ということでもあるのかもしれません。その中でも英語という言葉は西洋語の中で。どちらかというと右脳がかったところがあるのかもしれないと睨んでいます。
空気を読むというのは、よく言えば語感を超えた六感的なところがあります。しかし根拠がないものです。普通は主観的になってそれぞれがバラバラな意味に理解するのでしょうが、日本的空気の読み方は特殊です。日本人同士の第六感は結びつきが深いようです。それが絵文字文化を花開かせた力なのかもしれないと思っています。今や絵文字は世界共通の言語?E m o j i なのです。日本人の絵文字読解力は、詳しい人の話では突出しているようなのです。
2026年10月2日
自動詞と他動詞について考えてみたいと思います。
日本の文法を勉強しても自動詞と他動詞の理解などはできません。ところが英語を勉強すると他動詞を徹底的に学ばなければならないのです。他動詞の文例が頻繁に出てきて、「目的語 1」と「目的語 2」といった文型を学ぶのです。例えば、借りた鉛筆を君に返すというときは、「借りた鉛筆」が目的語 1で「君に」が目的語 2となります。
では自動詞はどういう扱いを受けているのでしょうか。私の個人的な経験で言うと、他動詞より自動詞の方が難しいようです。何故かは後で説明します。西洋の言葉では自動しという独立した呼び名はありません。どう呼んでいるのかというと「他動詞ではない動詞」と言うのが自動詞のことなのです。ずいぶん失礼な言い方だと思います。なぜ彼らは自動詞と真正面から向き合わないのでしょうか。しかも他動詞でない、という言い方で、実は他動詞だけが本当の動詞で、自動詞は本当のどうしてはないといって以下のようです。わたしたちが日本語で自動詞と名付けているものは不完全な動詞という扱いなのです。
簡単な自動詞の例を見てみようと思います。
みなさんが目の手術をしたとします。手術後は包帯が巻かれて保護されていました。数日後包帯が解かれる日に主治医がきて看護婦さんが包帯を解きます。お医者さんが患者さんに「見えまかすか」と聞きます。患者さんが「見えます」と言えば手術は成功です。さらに目の前に人差し指を示して、何が見えますかと聞かれると「先生の人差し指です」と答えます。
最初の「見えます」が自動詞の世界です。次の「先生の人差し指」といったときは他動詞なのです。
見えますといった時には、ただ目の見る能力が戻ってきたことをいっています。実はこれが自動詞の実態なのです。
他動詞は英語で a transitive verbと言います。運ぶとか結ぶという意味です。私とお医者さんの人差し指を結んだということです。それを目的と理解して目的語という文法用語に収めます。自動詞は an intrasitive verbで、他動詞でない動詞ということです。ですから結び付けるものがなくぼんやりしているのです。
お店に入ったとき、Can I help youと聞かれて、ぼんやりお店を見て歩きたいだけなので、No thank you, I’m just lookingと答えます。lookは自動詞ですから目的語を取らないのです。lookというのは周りをぼんやりみるということなのです。lookと同じような意味でseeがありますが、seeは他動詞ですから目的語が必要になります。何かを見ているのです。あるいは何かを理解したのです。
夏目漱石が訳したI love youの役はいつか紹介しました。月が綺麗ですね、というものでした。これは言語学的には間違いでしょう。テストでこのように訳したらXです。しかしここには他動詞的文化の愛の告白と、自動詞的文化の愛の告白の違いがあります。ですから日本語という自動詞的な言語に置き換えて訳すとなると、夏目漱石の訳が正しくて「私はあなたを愛します」は日本語になっていないので、Xということになります。ちなみに、私も愛してますという漱石的な訳は「あなたと見る月は美しいです」という感じだったと思います。
日本文化は自動詞的だと言いましたが、言語学の世界がそれを認めているかどうかは知りません。ただ私がドイツで半世紀に渡り生活してみて、そう感じているだけです。よく耳にする、日本人は何を考えているのかよく分からないと言われるのは、日本語が自動詞で非揚言しているからで、西洋人が他動詞で、目的をはっきりさせながら話すのとは、同じテーブルの上で語っても通じないものなのです。
シュタイナーの高学年の生徒のため朝の言葉があります。Ich schaue in die Weltと始まります。このschauenは自動詞なので、訳が難しいです。世界を見ると訳すのは他動詞の訳なので間違いです。何かを見ているのではなくぼんやりみているというより感じているのです。あるいは見ているということも保証されていません。とにかくぼんやり見ている自動詞なのですが日本語にない感覚です。訳す時に思い切って受身的に訳すのもありだと思います。見ているのですが見ていないので、このニュアンスが微妙なのです。
日本語の特徴は自動詞的世界から生まれた言葉だということです。