理系・文系で遊んでみると

2022年12月1日

 

 

 

 

システム化はまるで化物、妖怪のように私たちの生活の中に入り込み、見方によれば蝕んでいます。

社会がシステム化するというのは社会が合理的になり、ついには管理社会になるということに等しい様な気がするのですが、システム化ということで考えを推し進めてゆくと、人間生活は将来的にどこにたどり着くのでしょうか。

誰かが誰かをシステム的に管理する、つまり誰かにとって都合のいいものと言えそうです。これが、システムを誰が考え出したのかの答えの様な気がします。ということはこのシステムには初めっから限界があるということなのでしょうか。

地球上でシステム化などいうことを考えているのはおそらく人間だけでしょう。アリやミツバチの社会もシステム化していると見れば、確かに人間以外にもありそうですが、意識のレベルが少し違う様な気がします。人間のシステムには欲が絡んでいる様です。

社会をシステム化しようとした動機は、社会を資本主義、社会主義と見るのとは別の問題です。というか、どちらにも共通しているものなので、もっと根っこが深いということです。

理系文系で言えばシステムという考え方は理系的産物に違いありません。文系は割り切れないことが大好きですからシステムなんかを好まないからです。

 

 

システム化が進むと社会は支配層と非支配層の間に一層格差のあるものになってゆくのでしょうか。システム化した社会は、みんなが平等とは言えなくなるのでしょうか。この二つは相矛盾するものなのでしょうか。つまり、社会をシステム化し機能的に合理化して誰が得をするのかと言えば、ただ一つ、支配階級だからです。つまり社会を支配しようとしている人たちです。戦争の原因はシステムにあるということでしょうか。

ほとんどの人にとって社会がシステム化するなんてどうでもいいことなのです。それどころか不要の長物です。人間というのはそもそも文系ですから。

コンピュータはシステム化の片棒を担いだ立役者です。社会を計算通りに収める、つまるところがシステム化しようとする歴史を見ればそこにいつかコンピューター(優れた計算機)が誕生するのは目に見えています。

 

日本は世界がどんどんシステム化してゆく中で、マイナンバーのことで擦った揉んだしています。番号化されることで困る人があちらこちらにいるからなのでしょうか。

世界が理系社会になりつつある中で文明の進んだ国の中で日本だけが文系社会を維持しようとしている、維持せざるを得ない特殊な社会に私の目には映るのです。

 

隠れたところにある潜在的な動きをみると、理系は文系に憧れ、文系は理系に憧れているということです。

未来が楽しみです。

 

読むと声が聞こえてきます

2022年11月27日

今日はなんでもない、つまらないことを書き記します。

 

音読なんて時代遅れの様な感じがする人は、今中国で音読が見直されているなんて聞いたらびっくりするでしょう。

シュタイナー学校では毎朝、詩を声に出して読みますが、東京の名高い進学校の先生で、シュタイナー教育とは関係のない流れから、朝に詩を読むことを実践していた先生がおられました。「詩を声に出して読むと、背筋が伸びる様な感じがします。子どもたちも集中力が増している様に思います」と言うことでした。

 

昔から本を読んでいると読んでいる活字が音になって耳の中で響いているのを聞いていました。文章の良し悪しはなかなか決め難いですが、その時に聞こえている声で判断したりしていました。黙読している時にも声帯が動いているという報告もありますから、自分で読んで、自分で喋って、自分で聞いて、と一人三役を読書の時にはやっている様です。

余談ですが私は漫画が読めない人間です。漫画読めない症候群の重症患者です。私にとって本を読むというのは、読んだものからイメージを作る仕事ですから、漫画というのは絵が邪魔で煩くて仕方がなく、今日まで読まないできてしまったのです。自慢じゃないですが、漫画は一冊も読んだことがありません。そもそもビジュアルなものは苦手ですから、部屋に絵が飾ってあるのも煩わしいと思うことがあります。とは言っても全部の絵がそうではなく、気にならない絵もあります。でもできれば何もない方が有難いです。

音楽を聴いていても、映像が出てくることがあり、聴覚で受けたものが内側に入ってゆくと視覚の仕事に代わっている様です。こんなふうに言うと、私がどんな絵を描くのか興味を持たれる方がいるかもしれませんが、絵と呼べる様なものは描けない人間です。上手いとか下手とか言うレベルではないお恥ずかしいものです。

 

人とすれ違った時に音が聞こえ、そこから映像的なものが見えてくることがあります。すれ違ったその人がどんな人か、全く知らない人でもその人のイメージが残ることがあります。

目の不自由な人が戦時中に、スパイを見つけ出す役目をおおせつかったことがありました。大切な軍法会議などの入り口で、入場する参加者一人一人と握手しながら二言三言ことばを交わすだけなのですが、彼はスパイを何度か見つけています。まるで嘘発見器の様なものですが、嘘発見器よりも正確な上、短時間で判断することができます。声の中に何かを見ていた様です。言葉ではいくらでも嘘がつけますが、声は嘘をつけないと言っています。声というのは、なんだか相当正確なもののようです。

日本語で読んでいる時にはよく声を聞いていましたが、文章がこなれているものほど声の聞こえはいいのです。学者先生が書く論文というのはなかなか声が聞こえないものです。いろいろな本の寄せ集めの様なもの、あるいは引用を羅列するものからは声は聞こえませんでした。ある日ドイツ語でも声が聞こえる様になっているの気がつきました。でもそこに至るまではずいぶん時間がかかりました。シュタイナーの講演録を勉強のために必死で読んでゆくうちに、彼の独特な言い回しや、言葉遣いに慣れてきた頃でした。ある程度のスピードで読める様になっていて、ある週末一冊の本をどうしても読みたくて、朝から晩までほとんど食べることもそっちのけで読み耽っていた時のことです。ふと気がつくと日本語のように声と一緒に読んでいたのです。とっても嬉しい思い出です。

 

世界遺産の日本食、日本食のセンスとは

2022年11月26日

大好きな日本食について書いてみます。

世界遺産に登録されたことが拍車をかけたのでしょう、世界中至る所で日本食はブームになっています。日本食がいい意味で広がってゆくのは私のように海外に住む者には全く有難く、今後もどんどん広がってほしいものだと思っています。

しかしユネスコが日本食を世界遺産に登録したというのは、世界中にお寿司屋さんやラーメン屋さんを増やしたいためではないはずです。コロナ禍で観光客の足は止まりましたが、それ以前は一年に400万とも、いっ時は2000万ともいわれたほど外国からお客さんが訪れていますから、日本で日本食を召し上がった方が自国に帰られて日本食を食べたいと思う気持ちの中で日本食が海外で人気者になっていったと考えていいと思います。

 

この日本食の世界遺産登録は意外と焦点を合わせるのが難しいものだと考えています。ユネスコ的にというか、ユネスコが考えた日本食をイメージすると、ある特定の料理が指定されているわけではないことに気が付きます。かつて韓国がキムチを世界遺産にしようと韓国が国をあげてユネスコに相当の圧力をかけましたが、ユネスコはその裏に潜む商魂に気づき聞き入れずに跳ね返したのは、個々の食べ物を遺産登録する意図がないことははっきりしています。食文化としての日本食全体が登録される所に意味があるわけです。私はこのスタンスに関してはユネスコに賛同しているのです。ユネスコの考え方は、一応は日本食といいつつも、それを支えている見えない日本文化そのものを世界遺産とするということに通じている様に思えるからです。日本の伝統的な味、味付け、食材が世界遺産になったと考えるより、日本食の個々の料理を支えでいるエッセンスがこれから時間をかけて世界に浸透してほしいと願ったのでしょう。旧来の伝統的な日本食が姿を変えながら世界の食の財産になってゆくのも興味津々です。元々ある民族の料理に新しいインパクドが日本書を通して伝わってゆくというレベルの話はもっと清海が湧きます。世界中で揚げたての天麩羅を箸で食べ、トンカツをキャベツで食べ、ラーメン・うどん・蕎麦を啜るというのも面白いでしょうが、日本食のエッセンスが世界の民族料理にまで浸透し、その土地の食生活をグレードアップするというのも可能性ありです。

このテーマを、私が鹿児島のオンラインの講演会で熱を込めて語りそれ以降何度かこのブログでも取り上げた「センス」の問題として扱ったらわかりやすいのではないかと考えます。日本食におけるセンスということです。

日本食全体のことですから、固有名詞としての個々の料理ではないのですが、だからといって、例えばある天麩羅職人さんがとんでもなく美味しい天ぷらを揚げるという技術は無視する必要のないものです。そしてそういう仕事は集団の経験を寄せ集めたからといって頂点を極めることはないもので、その仕事は必ず個人の才能と努力に負っているものなのですから、これからもいわゆる個々の日本食はますます進化してゆくものだと思います。日本食そのものが新地を開拓し、ますます美味しくなるのは嬉しいことであり望ましいことです。それだけでなく日本食を支えているセンスを磨くことができれば、それによって外国のさまざまな食文化との接点を持つことになるのだと思うのです。ローカルな意味の日本食を超えてゆくこと以外にはこの接点がなかなか見つけられない様な気がします。そうなると形だけの料理の輸出という段階で止まってしまい、食文化としての世界への伝播では無くなってしまいます。

家内のスイスの友人の息子が、関西地方と九州を一ヶ月旅行しました。あちこちをみてまわって、帰って彼の母親に「言葉にはできないけど、お母さんもあの国とあの人たちに一度触れみてほしい」と懇願したそうです。コロナ禍の中まだ実現はしていませんがお母さんは「なんなのでしょう」と、とても楽しみにしているそうです。その知り合いの息子が感じた日本というものと、ユネスコが日本食と名指したものには深いところで共通点がある様に思えてなりません。

日本食の世界遺産登録事件は伝統的な日本食とこれからの日本食をつなぐためにも有意義で、日本食の将来を考えるときにも必要なものです。そこで力を発揮するのは「センス」です。日本人なら日本食がわかるのかというとそんなことはないわけです。外国人には日本食の良さなんてわからないのだというのも驕りです。日本のフレンチの方が本場より美味しいと豪語する日本人は沢山います。そのうちニューギニア人の作る懐石の方が日本で食べるより美味しいなんてことにならないとも限らないのです。

唐突ですが、日本庭園の話をします。今ではまだ島根の足立美術館の整理整頓された煌びやかな日本庭園が、桂離宮の庭園よりもアメリカ人ジャーナリストたちには好まれている様ですが、これから時間をかけると、桂離宮の中の日本的センスをアメリカ人も感じられる様になると想像します。そうなると評価は変わってゆくことでしょう。ただ日本の静寂、わび・さびの世界はあまりに特殊であることも知っておくべきです。

日本食を装った日本食というのは外国に住んでいるとしょっちゅう見かけ、舌を驚かせます。天ぷらもどきやトンカツもどきには飽き飽きしています。ただおおらかに「今は過渡期だ」と考える方が明るい将来が期待できそうです。過渡期はまだまだ続くことでしょう。もしかしたら終わることはないのかもしれません。

日本が日本食で世界の食生活に貢献できるチャンスが来ていると考えたいのです。ここは日本人が得意とする感性が本領を発揮できる格好の場所の様な気がしてなりません。