2026年9月11日
小さく聞こえるのに、力強い音というのがあります。矛盾しているようでそうではないのです。これは物理的現象としての音を超えた音のことで、測定しても小さな音としての結果しか出ません。
小さい音でも遠くまでよく聞こえる音は実は特殊な音で、音楽の世界独特のものなのです。なぜ音楽に使われる音に限ってだけこうしたことが起こるのでしょう。
音楽をするときの音は雑音と区別されるものです。どちらも人間によって作られている音ですが、はっきり区別できるほど違う音なのです。
もちろんいくつかの例外があります。年季の入った大工さんがノコギリを引いている時とか、金槌で釘を打つ音は、普通の雑音ではなく音楽の音に使いものがあります。ど素人が同じことをやった時には耳障りでうるさいものです。何が違うかというと、意識です。ただどちらかといえば無意識の領域の意識です。意識して上手にノコギリを使おうとしてもできるものではなく、金槌にしても同じです。意識しないでノコギリを手にして引いているときの音はさながら音楽の音のようです。植木屋さんの鋏で刈り入れ流おとや美容師さんのチョキチョキというハサミの軽やかな音もです。
逆のことも言えて、音楽で生半可な音を出しているときは煩い音です。一応楽譜通りに弾いてはいても、音楽の音としては十分ではないのです。
ここに人間の意識の働きがどんなものなのかを感じます。もちろんこの意識はほとんど無意識まで深まった意識です。
一つの作品を人前で演奏できるようになるまで、ある程度弾けるようになってから百回は少なくとも弾き込まないとダメだということです。ほとんど考えずに演奏できるようになって初めて人の心に届く演奏ができるものだからです。
ドイツ語で講演をしているときに、日本語との違いをいつも感じていました。確かに意味としては頑張ってドイツ語で話せるようになっているのですが、どうも日本語で講演をしている時の軽みのようなものがなく、これが外国語での限界かと感じながら講演していました。日本語は考えずに公園がて切るのです。そして正しいとは言えない日本語でも相手に伝わってしまうのです。録音された自分講演を聞くと、こんな日本語でお客さんは理解していたのだろうかと滅入ってしまうことがあります。ところから参加者に聞くとよくわかったというのですから、狐につままれたようなのです。
自分が生まれた時から使っている言葉というのは正しく話さなければならないなんて考えないで済むありがたい言葉なのです。
2026年9月10日
本を読むとき単行本で読むのと文庫版で読むのとでは味わい方が違うものです。そこに書かれている文章も、文体も、そこから伝えられている意味内容も全く同じでも、読む時の味わい方は違うといえます。できれば、文庫版ではなく単行本で読みたいといつも思っていました。
かつての友人に活字にこだわっているのがいて、夏目漱石の小説は新潮社の活字ではなく岩波の活字でないとダメだというのです。味わいが違って、新庁舎では面白くないと豪語していました。活字で味わい方が違うのは確かです。そう言われてからきをつけていたらはっきりわかるようになりました。そして活字、文庫だけではなく、単行本の余白からも違う印象を得ていることも事実です。一番の違いは行間の幅と活字の周りの余白の割合です。極論すれば、気づいている人は少ないかもしれませんが、本と言うのは余白が大事と言うことなのです。
電子書籍にはそうしたどうでもいいと言えばどうでもいいことが何一つ感じられません。確かに本を読んだのですが、本当に読んだかというと、言い過ぎかもしれませんが読んでないのです。何が違うのかというと記憶に残りません。あの本の、大体あのページのあそこのあたりに書いてあったなんてことはよくあるものです。読みながらイメージ化しているのかもしれません。それが記憶と結びついて、余韻につながっているのかもしれません。
本を読む人口が減っていると言うことですが、本を読むことは人間を賢くさせると思うので、人類ばだんだん馬鹿になっているということなのでしょうか。目で、印刷された活字を追っていると言うのは、目の筋肉が活字というフォルムをなぞっているので、筋肉運動をしているということになります。もちろんディスプレイに映る活字も同様のことが起こっているのでしょうが、活字を追う筋肉の動きは印刷された活字と比べると脆弱で曖昧な動きです。この筋肉運動はごく僅かの運動とはいえ本物の運動ですから、本で読む読書は体力がいるのです。読むというのは確実に筋肉運動でもあるのです。それが記憶というシステムとも関係しています。
ページのレアウトとは大事です。ページの中の活字と余白の比率はどうでもいいことではないのです。余白が大きいとたっぷり読めます。もしかすると余白に見えない活字を書き込んでいるのかもしれません。たっぷり読むなんて普通は言わないですが、それ以外には言いようがないほど大切なことです。みなさん余白に感謝してください。余白がなかったら読んでいて窒息してしまっています。特にバランスです。本を開いた瞬間に余白と活字のバランスは目に入ってきます。それほど本能的に反応している物なのです。
人間に余白を例えると余裕ということでしようか。その人の性格とか能力ではない物です。でも本の時に余白に感じるのとよく似た感触が余裕にはあります。余裕のある人の話は聞いていてよくは入ってきます。学者タイプのギスギスした話し方で窮屈な印象を持ってしまうと、それだけでもう話が入ってきません。余裕はしかし意識して作れるものではないのです。笑顔と同じです。作り笑いはもうすでに病気です。自律神経を損傷します。余裕がないというのは自分でも感じられることで、本人はそのことにちゃんと気づいている物なのですが、どうしようもないのです。
余裕と余白ですが本当に必要かと言われたら、なんと答えたらいいのかわからない物ですが、それともやっぱり必要だと言いたいです。
2026年9月6日
娘がドイツ語の本を読んでいて、何を読んでいるのかと聞くと、ドイツ語で
「青山美智子っていう日本の女性の書いた本。ドイツのタイトルはコマチさんのおすすめの一冊っていうの、知ってる」
という返事。
「それ小説、それとも本の紹介」
「小説」
本を見せてもらったら、日本のタイトルは全然違っていた。
「お探し物は図書室まで」
だった。
そこで気になったのは、タイトルの長いことだった。昔は小説といえば、金閣寺とか雪国とか、青年とか、心とかでこれ以上短くならないようなものばかりだったのに、最近の特に女性の作家の本のタイトルはずいぶん変わっていて、傾向は長いタイトルがつく。
娘は南ドイツの放送局の音楽部門で、クラシック音楽のマネージメントをやっていて、オーケストラをまとめている。
「最近のクラシック音楽の分野の現代音楽の作品のタイトルも、詩からの引用かと思うくらい長いものが多くてやりにくくて」
という。
クラシックの音楽作品に名前がついているのもあるが、そのほとんどが作曲者本人がつけたものではなく、後世の人がニックネームのようにつけたものばかりである。運命、田園、英雄、ジュピターといったもの。
「現代の作曲家の長々しいタイトルは、クラシックの音楽世界で不自然に長すぎて、プログラムを作る時なんか、うまくまとめるのが大変」
ということらしい。
なぜ最近の小説や音楽のタイトルは長くなったのだろう。
なんの根拠もなく言うと、女性的感性の影響というのか、女性感性が活躍し始めていているのかもしれない。
昔の小説の多くは男性の作家のもの。もちろん樋口一葉といった女性もいるにはいたが、タイトルは短い。社会的に当時はダラダラ長いタイトルなどは本のタイトルに相応しくなかったこともある。男性好みかもしれない。今は時代が変わって男性作家でもタイトルの長い人がいる。
男性的女性的などとは昨今簡単に口にする事が許されていない、まだ禁句とまではいかないがそれに近いものを感じている。男性的女性的というのを別の言い方をすると円における、中心と円周の関係のようなもの。男性的なのは中心で、女性的なのは円周となる。中心はエッセンスで、円周は日常的現象ということで、身近な日常生活からの小説の書き方からすると、長いタイトルの方が小説の内容に相応しい。イデオロギー、美意識、哲学的な内容になるとエッセンスで短い言葉の方が凝縮している。本質的とは言い過ぎだが、円の中心点はそんなところがある。円周は三百六十度日常生活に対応している。どこもそこには日常生活の重みがある。
これが実は女性の強みであってどんな状況にも対応できる。円の中心はどんな角度から見ても同じで普遍的と言えるが、動きがない。
これからは円周と円の中心がバランス良く社会を作ってゆくのだろうか。