雅楽に見る息の長さ

2024年7月24日

昔からよく聞いているYou Tubeにグルックのオペラ「オルフェウス」の中の有名なメロディーという曲のフルートとオルガンの演奏があります。「精霊の踊り」が有名で、それが単独で演奏されるることが多いですが、元々はこの曲と対になっているものですから、知らずのうちに多くの人が案外耳にしていると思います。

私が好んで聞いているのはロシアの女性フルート奏者、Svetlana・Mitryaykina、スヴェトラーナ・ミトリャイキナ?の演奏です。

Gluck-Melody from Orpheus for Flute and Organ Svetlana Mitryaykina

で検索してみてください。

この演奏の特徴は極端なスローテンポです。おそらく現代人のテンポ感覚からすると「遅すぎる」と感じる人のほうが多いかもしれません。紹介した友人の半数以上が「これじゃ音楽じゃない」とまで言う人がいたほどです。

私には逆にこのスローテンポが心地よいのです。あまり言葉にすると真実味が消えてしまうので、控えめに言うと、そこには次元の違う光の様なものが生きているのです。

この女性の演奏を初めて聞いた時、驚きと同時に喜びがありました。このテンポで聴きたかった、と言うのとようやくこのテンポに出会えたと言うものです。

何度も繰り返して聞きました。もう10年来のお付き合いですから、何回聞いたかわかりません。全然飽きないのです。それどころか半ば中毒にかかっている様で、また聞きたくなるのです。

そうしたある日また聞いていると、このテンポどこかで知っていると思ったのです。ゆっくり考える暇もなく「雅楽のテンポだ」と直感的に気づいたのです。現代人の生活のどこにもないテンポです。ですから遅すぎると言われてしまうのです。雅楽の現代における位置の様な感じです。

ドイツで雅楽を音楽付きの友人と聞いた時にも、ゆっくり過ぎることがテーマになりました。昔の日本人はこんなテンポで生きていたんだろうけれど、現代のヨーロッパにこう言うテンポはどこを探しても見当たらないよ、と言われてしまいました。しかしこののんびりしたテンポには全然ストレスを感じないのは、雅楽が頻繁に演奏された当時の人間の生活は今と違ってゆったりした時間の流れの中にあって、のんびりとストレスなど知らずに人々は生きていたのだろう、と言うのです。

確かにそう言う見方もできるとは思うのですが、それは現代中心の、現代からしかものを見ていない反面的なもののように感じるのです。私が日本人で日本的感性を持っているからなのかもしれませんが、ヨーロッパの人たちとは何かが違うのです。

私は雅楽の中に生きているテンポに光を感じます。地上的な光ではなく異次元的な霊的な光です。霊の世界に音楽があるとすると、こんなテンポなのかもしれないと思ったりします。もちろん早いものもあるのでしょうが、基本的にはこんなものではないかと想像します。雅楽と言う音楽はまだ人間が霊の世界のことを知っていた時の音楽なのではないかと言う気がするのです。今流行りのスピリチュアルというものではない、霊的なつながりの様なものです。まだ霊的世界と結ばれていたのかもしれません。そんな中で好まれていたのが雅楽だと思うのです。

先ほどのフルートの音は、とても息の長い演奏で、他で聞くことができないほどに異常な長さです。ロシアという民族の中にはどこか東洋的な、私たち日本人に通じる何かが生きているのではないかと思わせるような息遣いです。このフルートの音を聞いて、そのテンポの取り方に何か雅楽に通じるものがあると思うのは、決してトッピ押しのないことではないと思っています。ロシアには東洋に通じる何かがあるのでしょう。ドイツの音楽家と話をしているときにロシアの音楽のことを「東洋の音」と言うことがあります。初めて聞いた時は流石にハッとしたのですが、よくよく考えると、ドイツから見ればしっかり東洋だと納得できるものがたくさんあることに気がつき、最近はあまり違和感なく受け入れています。

 

最近足を運んだ音楽会はどれも息の短いものばかりで、却って体が疲れてしまいました。音楽の流れの中に自分を預けきれないもどかしさの様なものを感じていました。そんな時はあのフルートの音を聞きながら体に溜まった色々なものをほぐしてもらっています。雅楽を聞いてもいいのですが、ドイツに長いせいか、ロシアのフルート、スヴェトラーナの音から感じる東洋的な息の長さの方がしっくりする様です。

センスの日本語訳は

2024年7月24日

私はセンスを大切なものだと考えています。人を見るときはセンスがある人かどうかで見ています。もちろん物事を理解する時には知識や経験だけでなくセンスが必要なのです。

この言葉は辞書を捲るとわかるのですが、うまく説明されることのない言葉です。特殊な言葉の様です。したがって人に説明する時には難儀します。そもそも英語からの外来語ですからいっそうです。ちなみにドイツ語にこの英語のセンスにあたる言葉はなく、日本人以上に苦しんでいます。

若い時にこの言葉を知り、その意味をあのてこのてを使って調べたのですが、私が納得できるものには出会いませんでした。知り合いや先輩に聞いても的を得た答えには出会えませんでした。

センスを理解するにはセンスが必要なんだと自分で納得させてこの年まで生きています。

 

センスは生まれ持ったものだと思います。と言うことは先天的な才能、能力ということなのでしょうが、先天性というだけの説明では物足りないものです。窮屈でしっくり来ません。もっと余裕のある、膨らみを持ったのがセンスの様な気がしています。人生を包み込むような大きなスケールを感じています。

最近気がついたのですが、一芸は道に通じる、とか一芸は万芸に通じるという言い方がありますが、これは私が感じているセンスを理解する時に大いに役立つ様な気がしますので、この辺からセンスに迫ってみたいと思います。

一つの芸を極めると百の芸に通じると言うことです。私は直感的にわかった様な気がしてしまうのですが、少しほぐしてみたいと思います。

一つのことにこだわっていると、専門バカのような言い方をされがちですが、中途半端でなく極めると話は別の様です。別の次元というか別の地平線が見えてくるものです。高みに立ったものにしか知られない景色があるのでしょう。

そこに到達すると自分の芸のことばかりではなく他人の芸についても共感できるものがあるとわかるのです。自分を極めると他人が見えてくると言うことの様です。少しセンスに近づいた様な気がします。

 

センスがあるかないかの違いを一番感じるのは、芸事、芸術、物作りと言った分野ですが、知的に物事を理解すると言うのもセンスがものを言います。自然科学の世界で、数学や物理や天文学を極めた人は異次元の存在に見えます。独特のセンスでその道を極めたからなのでしょう。

センスがあるに越したことはないと思うのですが、今の時代「知的能力」が過大評価されていますから、センスは片隅に置かれています。実は頭がいいと言うこと以上のことが「センス」に恵まれているので大変残念です。頭がいい人は神経質になりがちですが、センスは繊細であっても神経質になる要素はありません。センスは磨いても知性のようにとんがってくるものではなく、一層しなやかになってゆくのです。

 

日本語ではセンスのない人のことをひとまとめにして「音痴」と言います。そもそもは歌うときに音程が取れない人のことを音痴というのですが、方向音痴、味音痴、色音痴、言葉音痴等々なんでも音痴という言い方で済ませています。もしかすると人生音痴というのもあるのかもしれません。

センスの話をするときに一番困ってしまうのは、このセンスはどの様にしたら磨けるのかと言うことです。私の声を例にとると、私の声は近くの人にも少し離れた人にも同じ様に聞こえると言う特徴と、録音が結構難しいと言う特徴が挙げらりれます。静かな柔らかい声ですからいつまでもいていられます。一見眠気が襲ってきそうですが、そんなことはなく決して眠めなんてことにはならないのです。この声も練習のしようがないのです。ちなみに私のライアーもよくにいています。却って練習が仇になります。練習は固めてしまうからです。と言うことは数多の発声法からは得られない特殊なものだと言うことです。たくさんの人から教えてほしいと言うことで声のワークなるものをしてきましたが、それだけでは足りないようで、個人的に教えて欲しいと言われるのですが、教えるものなんかないのです。ですから「声のセンス」を感じてそれを磨いて欲しいですと言っています。

 

久し振りに音楽に出会えました

2024年7月19日

一昨日YouTubeに見知らぬピアニストの名前を見かけ開いて聞いてみました。

ロシアのピアニストでIgor Kotlyarevsky、イゴール・コトリャフスキーという、聞いたことのない名前でしたが、ロシアのピアニストは概ねハズレがないので実際の演奏が楽しみでした。

この動画はモスクワのテレビ局が放映したものをYouTubeにアップしたもので、演奏会はモスクワ音楽大学の小ホールで今年の5月に行われています。

演奏が始まってすぐに今まで聴いたことのないピアノの音に引き込まれてしまいました。聞く耳を疑ってしまうほどピュアな純粋な演奏だったのです。

演奏会のプログラムは、スカルラッティー、モーツァルト、シューマン、リスト、アンコールにスクルリャービン、ショパン、シューマンが連ねていました。

最初はスカルラッティーでした。よく演奏されるK466をこんなふうに聞いたことが今までなかったので、馴染みのあるメロディーだと思いつつ、本当にスカルラッティーかどうかを疑ってしまうほどです。

コトリャフスキー氏は体を微動だにせず、表情もほとんど変えずに演奏しています。指と鍵盤との出会いに全力で集中しているようです。俗な言い方をすれば丁寧な弾き方です。

何が私を引き付け、私を引き込んでゆくのかというと、彼の存在、生き様と音とが見事に出会っているところです。全く見事なのです。音を紡ぐようにピアノを弾いています。音楽の流れは静寂そのものです。こんなに静まり返った演奏は本当に久し振りだったので、初めの驚きはすぐに喜びに変わっていました。

久し振りにピアノを満喫している自分がいました。満たされて聞いているのです。こんな風に聞きたかったんだと独り言を言っていたかもしれません。それほど彼が紡ぎ出す音は私の心をとらえたのです。乾いた喉が潤わされるような感じでした。

一人の人間と音楽となった音が出会っている。驚くべき静けさの中でです。とても神聖なものを感じました。音楽を聞き貪っていた自分に知らず知らずについてしまっていた垢のようなものが、この演奏で清められてゆくのです。

音楽は現代ではビジネスとして欠かせないものです。数多の音楽会、若い音楽家の登竜門としてのコンテスト、盛大になっている音楽祭、音楽フェスティバル、音楽は産業的にみて巨大なお金を動かすものとして使われています。音楽は娯楽として書くつ訳していて素人バンドを組んだりして楽しんでいますし、医療としても、メディテーションとしても使われています。

そうした道具として使われている音楽から音楽が聞こえなくなることがあります。日本から帰ってきて、飛行機の中で体調を崩してその後しばらく遺症のようなものの中にいて、音楽のそうした道具として使われている姿に辟易していたのです。二月の京田辺の講演会の時に弾いたのを最後に、ドイツに帰ってからは一度もライアーに触れていませんでした。音楽が聞こえてこなかったのです。音楽がわからなくなっていのだです。

そんな中でのコトリャフスキーの演奏との出会いでした。乾いた砂に水が吸い込まれるように彼の演奏は私を潤します。真剣に聞き入ってしまいました。そしてなんと、またライやーを弾きたくなっていた自分がいたのです。久しぶりの感触に我ながら嬉しくなりました。とは言ってもまだ実際に弾いてはいません。ピアノとライアーの音質の違いもあるからです。

彼は音楽をフレーズとして弾くというのではなく、一音一音と対話しているようでした。どの演奏家も同じ楽譜を用いて弾いているのですが、みんな違う演奏になります。これが音楽が音楽である所以だと思っていますし、醍醐味でもあります。それでいいのですが、質の違いはどうしてもあります。質の違いを作っているのは、演奏がどこまで自分の思い込みから解放されているかだと思っています。音楽をも超え純粋に音に出会うためにはどんな能力が必要なのかと自問していました。演奏のための技術的な訓練から得られるものではないはずです。残念ながら天性であるのでしょうが、人間としての人格を作ることから生まれるものでもあるような気がします。一音一音を蔑ろにしない精神性です。全てのことに真摯に向かい合う姿勢です。

モーツァルトの演奏も初めて聞くモーツァルトでした。一番驚いたのはリストのピアノソナタです。今までも二度ほどコンサートで聞いたことがあって、その時の印象からすると、「なんともやかましい音楽」だったのに、彼の演奏は自己主張を抑えた静寂さに満ちているのです。静かなのに豊かな緊張感が演奏にはみなぎっているのです。決して情緒に流されることはないのです。私も演奏家の端くれとしていうと、この二つを両立させるのはとても難しいことです。

ということで、多くの人に彼の演奏を聴いていただきたいと思います。きっと人生観が変わるほどの体験になると思います。