2023年4月2日
ドイツの舞台俳優がオーストラリうを旅行した時の話です。
ドイツでは見られない雄大な景色に圧倒されたという程度の話ならここに書く必要などないのですが、彼の話を聞いて、さもありなんと納得したので書くことにしました。レンタカーを借りて所狭しとオーストラリアを走り回っているときに、草原の中で野生のカンガルーを見つけます。その時の話です。
野生のカンガルーは人間には近づこうとしませんから、車の方にもやって来ません。遠くから彼らの様子を伺っているだけだったのですが、実に美しいのです。その時突然何匹かのカンガルーが飛び跳ねるのです。嬉々として飛び跳ねて遊んでいるのだと、観光案内の人が説明してくれたので、しばらく看取っていたそうです。カンガルーも飛び跳ねるのだと初めて認識したのです。
その帰り道、ガソリンを給油するためにガソリンスダンドに立ち寄りガソリンを入れていると、一匹の、案外大きなカンガルーが近づいてきます。さっき見たカンガルーのことを思い出して、きっと人間の方には来ないだろうと思ってガソリンを入れていると、寄ってくるのです。そして足を舐めたり体を擦り付けてきたりとするので、旅行案内の人に聞くと、ガソリンスタンドのカンガルーは野生ではなく、街に出てきてもう何年も街だけで生活しているカンガルーということでした。もう大自然には帰れないということでした。彼らは都会のスーパーマーケットの余りを餌として生活しているということだったのです。
同じカンガルーでもなんという違いかと驚くほどだったそうです。野生の、大自然の中を生きているカンガルーと都会でスーハーの余りを食べて生活しているカンガルーはもう同じカンガルーではなかったのです。
この俳優さんは大自然の中で自力で餌を探して生きているカンガルーの動きの美しさが目から離れません。それに比べて街の餌は食べ放題あるカンガルーからはカンガルーの美しさが見て取れないのです。
その時頭をよぎったのたのはインスタグラムで情報を得ている自分の姿でした。
自分で世の中に出てそこから生きているてごたえを得ないと、スーパーの残飯で生きているカンガルーと同じになってしまうということでした。簡単に餌に辿り着いてしまうと、人間といえどもつまらない表情で生きるようになってしまうとゾッとしたのだそうです。
彼はその日から、今まではほとんど中毒のように何時間も覗き込んでいたインスタグラムの画面からおさらばしたのでした。
2023年4月2日
大阪万博(1972年)のシンボル、太陽の塔は今でも千里に立っています。その製作者、岡本太郎の作品を集めた展覧会が名古屋で催されていたので行ってきました。
会場には絵画と彫刻(?)の作品が展示されていて、何をみても間違いなく岡本太郎のもので、真正面から岡本太郎に出会えます。心強い説得力に支えられながら会場を見て回りました。中に、パリのゴミ捨て場で見つかったもの三点があって、そこに岡本太郎と著名があるものの、未だに本物かコピーかの検証がなされているのですが、岡本太郎の作品というのはどんなにうまくコピーしてもどこかでボロが出てしまうようなものですから、素人目には間違いなく岡本太郎のもののように見えました。
今回の展示会では絵画も相当出品されていましたが、岡本太郎が三次元空間に置くことを目指した作品の方に惹かれながら会場を回りました。絵画の合間に登場する岡本太郎独自の立体は絵画と比べるとシンプルに見るものに語りかけてきます。奇抜な発想から作られたものでも落ち着きがあり、見るものを安心されるのです。私にはキャンバスに描かれた二次元の絵画よりも親しみやすく、新しい岡本太郎との出会いでした。
岡本太郎はよくピカソと比べられるのですが、いつも不思議でなりませんでした。確かに共通しているものを探し出せば見つかります。だからと言って同じに並べる必要は今回の展示館からは見つけることができませんでした。それよりも岡本太郎の躍動感の方が気になります。どこからあれを持ってきたのかと作品の前で何度も問いかけていました。
縄文もその一つです。しかしもっと深いところからのものを感じます。結局岡本太郎にしか戻らない何かです。岡本太郎は岡本太郎でしかないようです。
2023年4月1日
今日はテーマが難しいのでまとまらない話になりそうです。
コミュニケーションが大きく変化する中いくつかの点が気になっています。初めに結論をいうと、コミュニケーションが条件反射のようになりつつあるのではないかということです。人間は感情を持っているのに、条件反射になって仕舞えば感情は必要なくなってしまいます。感情のない人間はなんなのでしょうか。もしかしたら機械に限りなく近いものかもしれません。
コミュニケーションは社会生活の基本で、人間同士の情報交換のことを指すものです。ですから時代時代でコミュニケーションの道具が違っていたので異なっているものです。
今日のコミュニケーションの手段を見てみるとかつてのコミュニケーションとは全く違います。違うと言う言葉では言い尽くせないほどの変化がそこには見られます。手紙、それも飛脚が運んだ手紙と今日のメールでは違いを説明するという行為が意味をなさないような気がします。
手紙とメールでは気持ちの発信の仕方よりも、返事を待つという行為に決定的な違いがあります。手紙の返事は首を長くして待つのに比べ、メールの返事は首が伸びる暇もないほどで早ければ二、三秒後にはもう届いているという具合です。私はこの待ち時間が二、三秒というのが、条件反射に似ていると思わずにはいられないのです。
これは決して安穏としてはいられない深刻な問題ではないかと思うのですが・・・
私は最も進んだコミュニケーションは以心伝心かテレパシーによるものだと思っています。これはメールどころの速さではありません。発信したと同時に返事が来てしまうのですから、条件反射とは決定的に違います。条件反射は物質空間、物質時間の中でのことですから、霊的なテレパシーとは次元が違います。
今の時点では多くの人が言語に頼っていますが将来は言葉はなくなるでしょうから、テレパシーの時代が来ます。しかしテレパシーは将来のものかと思いきや、かつて存在していたものでもあります。それが言語によるコミュニケーションという時代を経て再び将来に現れると言うもののようで、不思議な伝達手段です。
オーストラリアの原住民、アポリジニと生活を共にしその時の様子をアメリカの女性が報告しているものを読んだのですが、それによると彼らはほとんど喋らないようで、そのことを彼らに問うと、言葉にしなくても分かるからなのだそうです。ではなぜ声があるのかと聞くと、祈るためと、歌うためという答えが返ってきたそうです。
言葉の役割は説明ですが、テレパシーは説明ではなく直感です。魂の中の想いが膨らんで来そうです。私も早く言葉を卒業してテレパシーの世界で生きたいものです。