美味しいですかよりも家庭料理

2022年7月25日

お食事をした後「美味しかったですか」って聞かれると答えに窮してしまいます。

理屈っぽいので、「美味しかった」と「美味しく食べられた」とは違うと思っています。その辺をちゃんと聞いてもらえたらうまく答えられるかもしれません。

とりあえずはなんでも食べるので、特別美味しいというものの方をかえって怪しんでしまいます。

 

食事は美味しいと楽しいとがあると思います。味覚的にも同じでしょう。ワクワクするような味付けに出会うこともあります。それを美味しいというのはあまりに平凡すぎるような料理です。

私にとって美味しいというのは横にはとても幅の広いものですが、縦幅はあまりはっきりしないようです。

 

魚や野菜の煮物は日本料理の中でも特別の料理で、舌鼓を打つようなものが時々あります。現代人は傾向としては煮物が苦手です。従って、年配の、それも相当年配の世代の人の煮物は時々食べたいと思うことがあります。それは美味しいを通り越しています。

 

ドイツではレストランで食事をした時、ウェイトレスさんやボーイさんが下げに来る時に必ず「美味しかったですか」と聞いてきます。型通りのやり取りですから「はい」と通り一遍に答えます。食べられましたかという感じがしないでもないです。日本だったら「お口にあいましたでしょうか」と聞くところでしょう。

ドイツの味覚と私の味覚は180度とは言わないまでも、だいぶ違う方向を向いているので、レストランで食べるものには期待していません。大抵は味付けが塩っ辛くて閉口してしまいます。それ以外にも、ここでもう一工夫したらレベルアップするだろうになどと感じてしまうことがほとんどです(ひと手間をかれるかどうかは日本とフランスの料理の特徴なのです)。ですからウェイトレスさんやボーイさんには嘘をついていることになるのでしょうが、社交的な礼儀と割り切っていつも「はい」と答えています。美味しくなかったら次に食べに来なければいいだけのことです。

 

日本料理の懐石は、偉そうに語れるほど食べてはいないですが、最近創作が盛んで、かえって凝りすぎているのではないかと思うことがあります。一時期ラーメンのスープも凝りすぎて、食べていて疲れるようなものがありました。料理を作るときに、あまり思い込みを入れすぎると、料理が重くなってしまいます。重くというのは味付けではなく、料理そのものがです。そういう料理は食べた後どっと疲れが出ます。

料理は自分で無理なくできることをさりげなく作るのが一番ではないかと思っています。そういう意味でも家庭料理は魔法の料理です。美味しい、美味しくないという俗な評価を超えた魔法の料理、神聖な料理です。

 

この文章、書き始めたら意外と難しく、まとまりのないざっくばらんなものになってしまいました。でも没にしないで公開します。ブログのいいところです。

挨拶しない人

2022年7月23日

挨拶をしない人がいるって信じられますか。したくないのか、できないのかはわかりませんが、挨拶をしない人に何度か出会っています。

挨拶のことを言い出すと話が広がりすぎて収集がつかなくなりそうなので、できるだけ話を絞るつもりです。挨拶というのは人間が精神と共のに生きていることの証でもあるからです。精神とは霊でもあり、もしかすると神でもあるからです。

 

挨拶の多彩さはいうまでもありませんし、思わず目を逸らしてしまうような濃厚な(特に日本人には)挨拶が世界に目を向けるとあるのです。

日本の挨拶はそうした世界水準に照らし合わせると風変わりなものに見えるようです。体が接触することなく、少し離れておじきするだけだと言ってしまえばそれまでのことなのですが、その何もないかのような空間に「礼節」というものが生きていることは日本人以外の人にはなかなか説明できないことです。

岡倉天心が彼の「茶の本」の中でものとものとの間にある「間(ま)」として取り上げ、茶空間で珍重されていることを指摘しています。

しかし礼節は日本だけのものというのは言い過ぎです。私は日本以外で生きてみて、どの挨拶にも礼節が備わっていると感じています。それどころか挨拶そのものが礼節だと言いたくなるほどです。挨拶は礼節から生まれたものなのです。

 

挨拶をしない人ですが、「しないのか」「できないのか」「したくないのか」はわかりませんが、人と会っても挨拶をしないのてすから、びっくりしてしまいます。ずっとその人を観察していたわけではないのですが、しばらく私がその人のそばにいて観察できた間だけですが、出会った人と一度も挨拶をしませんでした。私がその時肌で感じたのは「この人は人を無視しているか、さもなければ見下している」ということでした。そうした心の持ちようからは挨拶は生まれるはずがありません。挨拶をしない一人というのは実は家内の妹パートナーの女性です。義妹は同性結婚をしています。3条年ほど家族付き合い干しているので少しはその女性のことを知っているつもりです。彼女には他人とうまくやっていけないところがあります。いぜは性格的なものと判断していましたが、大方の人間関係がうまく作れないところを見ると、性格では片付けられないものを感じようになりました。そんな生き方ですから挨拶の必要性を感じていないのです。

実はもう一人挨拶のない人が身近にいたのです。姉の別れた旦那さんは、私と会っても挨拶をしませんでした。挨拶らしきものはあったかも知れませんが、誤魔化したような挨拶で、丁寧な挨拶はありませんでした。姉に言わせると私だけでなく、「誰とも挨拶をしないのよ。私の友達がみんな嫌がってるのよ」ということでした。色々と話を聞くと、子どもの頃から挨拶をする習慣はなかったようで、そもそも生まれつき挨拶のない人間だったようです。昔の義兄は生まれてすぐ、生みの親からお寺さんの入り口に捨てられていたのを、住職に拾われたという運命を持った人です。里親が見つかって引き取られそこでしっかりと育てられましたのですが、捨てられてひもじい思いをしていた時、昔の義兄が何を体験したのかはわかりませんが、人生、社会に対して屈折したものを感じていたに違いありません。「こいつのひねくれた根性は大人になってもかわらねぇんだから困ったもんだ」と里親になったお父さんはよく言っていました。

こうなると「挨拶をしない。その心は」と聞きたくなります。

 

私は挨拶をしない人と全く反対で、すれ違った人みんなに挨拶したくなります。よく一緒に歩いている人から「ご存知の方でしたか」と聞かれたものです。なんだかみんな知っている人に思えるのです。素直に、すれ違っただけでも出会えたことが嬉しいのです。

ということは挨拶のない人を「みんな知らない人だから挨拶をしない」というふうにも整理できそうです。見下すことも寂しいことですが、それ以上にみんな知らない人という感情はもっと寂しいことです。みんな知らない人なんて寂しすぎます。反対に「みんな知っている人」と思うのはおかしいのでしょうか。

シューベルトの「冬の旅」は一人の青年が旅の途中、五月のある日、ある村を通りかかったところから始まります。そこで色々なことがあって最後は冬の雪の降る中、その村を去ってゆくのですが、テーマは「赤の他人」です。

歌の出だしは、「赤の他人としてこの町に辿り着き、再び赤の他人としてこの街を去ってゆく」です。青年はその村人たちに受け入れてもらえなかったのです。いっときは親しそうに接してもらっても所詮「赤の他人」だったのです。

「みんな生まれた時は一人だ」という方もいます。「だからみんな孤独で」「死ぬ時も一人だ」というのです。確かにその通りで真実と言っていいのでしょうが、そこには何か大切な真実が欠けているように思えて仕方がないのです。人間は一人だけでは生きてゆけないものです。これも真実です

私はその真実が挨拶の中にあるように感じています。

 

またまたムラについて

2022年7月21日

ムラというのは「力まないこと」、「向きにならないこと」に通します。

ですからまだまだお話しすることがあると思います。

 

和紙を作る際に「真っ白」のかみというのは極めて特別な紙で、和紙の素材である楮(こうぞ)に付着している汚れををとことんまで洗い落とし綺麗にすることで作られるからです。今日のパルプ紙はそうではなく「漂白」するだけで、白い紙はできるので一番安い紙ということになります。

同じ白い紙といってもそこには雲泥の差のあります。

和紙に色染めすることもありますが、そこでは斑(まだら)にならないように気をつけます。ムラは漢字で書けば斑ですから、斑、ムラは失敗作の代名詞です。

しかしこのムラは味方を変えれば躍動感を生み出すものなので、ムラについて考える価値があると思うのです。

前回のムラについての文章の最後で、人間は善と悪の斑、ムラという言い方をしました。もし人間が全一元的存在だとしたら、退屈極まりないものでしょう。もちろん悪一元も同じです。この混ざりが人間というものなのだと考えての発言でした。般若心経で「色(しき)」と読んでいるものです。

 

ドイツの詩人、ノヴァーリスの言葉に、世の中が悲惨に混乱している時にこそ喜劇が望まれているのです、という言い方をします。いつも不思議でならない言葉です。ここでいう喜劇は面白おかしいということとは違うと思います。ましてやドタバダ喜劇でもないでしょう。深い意味のある喜劇なのでしょうが、複雑で込み入った喜劇は喜劇で無くなってしまうので、どこに焦点を合わせたら良いのか悩むところです。

喜劇は人間の馬鹿に通じると思っています。世の中に混乱を起こすのは大抵は「利口な人たち」です。彼らによって巧妙に仕組まれた複雑な問題は、利口な人たちのごもっともな方法では解決がつかないということなのでしょうか。かえって問題を拗らせてしまうかも知れないのです。

昨今の世界情勢を見ているとまさに喜劇の登場が待ち望まれているようです。天下の大馬鹿がそろそろ出てくるのだろうか。いや、出てきて欲しいものだと思っています。

ただ、こんな時に「喜劇を上演しよう」などと言い出したら、不謹慎だと真っ向から反対され、四方八方から攻撃の矢が向けられるでしょう。難しい顔をして真剣に、(真剣なふりをしてでも)問題に取り組まなければならないのです。その姿を見るだけでお腹が痛くなってくる私が「今こそ喜劇を」なんて音頭を取ったら、「不謹慎だ」、「不真面目だ」、「茶化すな」「死んでしまえ」と身も心も粉々にされてしまいます。ですからとりあえず「ノヴァーリスが言った」という盾を用意し、身を守りました。でも心の底では「お利口さんの作った考えに偏ったら、世の中と正面に向かい合うことはできなくなってしまうものです」と考えていますから、今の世の中に蔓延したお利口さんが作り出した一面的な見方だけでも笑い飛ばしてみたいくらいのことは考えています。

今の世の中お利口さんの巧妙な手口で凝り固まってしまったのです。人間の体で言えば肩がバリバリに凝ってしまって頭が全然機能しない時のようなものです。それが社会的な規模で起こっていると言って良いと思います。因果はめぐると私も考えています。たとえ社会的規模であっても原因はどこかに潜んでいるはずです。ただ社会問題の原因というのはすぐには見えてこないのが普通です。問題を起こす人たちが賢いお利口さんたちだからです。所謂ホワイトカラーの犯罪で知能犯だからです。

それでも原因はどこかにあるはずです。相当の知能犯ですから、のこのこと正体を表すことはありません。社会的常識からは見えないところにあるものです。ジャーナリズムのプロパガンダによって見え亡くされたものを暴き出すのには、信じられないかも知れませんが喜劇的センス、心の余裕、つまりユーモアが必要なのです。

 

ムラに戻りましょう。ムラには躍動感が潜んでいます。日本文化が一見「ムラ」と縁遠いように見えるのは日本文化の基調が「静」だと考えられているからです。しかしただ静かというのとは違い、静の中にも「動」が潜んでいることは日本人なら知っています。日本文化は「黒」を派手と感じるようなところです。この感性から黒はケバケバした「派手」ではない静かな「派手な」ものなのです。

今までここでムラと言ってきたムラは西洋的、特にイタリア的なものかも知れません。表に出ている見えるような躍動感です。しかし私は秘めた躍動感というのもあるはずだと考えています。秘めた「ムラ」です

日本的「ムラ」について考えてゆきたいのです。私たちの課題は日本的「ムラ」、表面的に見えないところの「ムラ」の発見だと思います。「静」の中の「動」です。

知性で凝り固まった社会をほぐせるのはこの手の「ムラ」かも知れないと考えるのです。

推しむらくは、私たち日本人がその可能性にあまり気づいていないようなので、まずはその辺りから掘り起こしてゆく必要がありそうです。