2024年9月9日
先日書いた乾いた声、潤いのある湿った声について、その後いくつか質問されていましたので、補足を兼ねて、もう一度取り上げたいと思います。
その時の文章では、なぜ今の時代に潤いのある声がなくなってしまったのかと言う問いを出して締めくくっておきました。それに答えるのは実はとても難しいことだと思っています。私の個人的で主観的な立場で言うと、「声を体全部の力で作っていない」そのことに関係していると言うことです。
ある発生法は頭蓋骨をよく響かせろなどといいます。骨に響かせると言う技法なのだと思うのです。私も部分的にはそれを認めています。確かにそうすることで声の響きが大きくなる事は確かのようです。声を作るときに一番してはいけないのが、筋肉で緊張を作ってしまうことです。筋肉を固めてしまえば固まった声しか出なく、それでは非常に貧しい響きの声になってしまいます。
前回も述べましたが、体の中にある水分、つまり粘液とかリンパ腺とか言うものが声を作るときに一緒に響くことが大事なのではないかと言うことです。つまり水気を含んだ声ということですが、音と言うのはシュタイナーによると、水の力で運ばれていると言うことですから、そのことを知ってからは水分と声は近いものになりました。水分を含まない声遠くまでは届かないし、伝達しないので、空気中の水そのものということではなく、水の力と言ったら良いのかもしれないもので、声は運ばれているのです。音を運んでくれる水の力と、私たちの体内にある水分を含んだ声と言う二つの要素が出会っているのが私の声なのです。
と言うことで、小さな声でも遠くまで運んでもらもらえるということに注目したいのです。
まず筋肉をこわばらせて緊張させてしまった声は遠くになると聞こえなくなってしまいます。その声は非常に力のない声と言うことになります。力んで大きな声を出しても力んだ分、逆に声は遠くまで届かなくなってしまうのです。頑張って声を出しているのに全く成果の見られない声なのです。もう一つの体の骨に響かせる声というのがありますが、これは確かに響きは大きくなると言うものですが、そしてその結果遠くまで聞こえるようになるのですが、迷惑なのは近くにいる人で、大きく響かせるため近くの人にはとても耳障りな五月蝿い声になります。思わず耳を塞いでしまうほどうるさい声です。ところが体全体の水分と同調した声、水分をも響きに変えてしまった声の場合は、消して大きな声にならないのですが、先ほど言いましたように、空気中にある水の要素が音を運んでくれるため、その力と一緒になって遠くまで運ばれるのだと思います。
さて、ここから難しい問題に触れてみたいと思います。それはエーテルの問題です。
エーテルの存在は、私たちの物質的な力ではその存在を証明することはできません。声に関してエーテルと言う問題を取り出すのは、以前にお話しした、私の再生不良性貧血との闘病の中でこのエーテルとの出会いがあって、それによって自分の中にもう一度新しい生命力を見つけたことによります。この生命力こそが、実はエーテルと言う力で、声と言うのは、一番簡単な言い方をすれば、人間の中にある生命力が響気になっているものなのです。生命力は、人間の体の中、細胞の全てに行き届いていていますから、声と言うものを考えたときには、この体の中に広がっている生命力を全て響に変えればいいわけです。
体全部の力なのですが、物質的な筋肉とか骨ではなく、そこに浸透しているエーテルと言う力です。声がここにたどりつかないと、小さな声でよく通る声と言うのは作られないのです。物理的に考えた響き、音響と言うのは、大きな音が遠くに届くということですから、これはエーテルの力とは関係なく物質的な力だけを見て声に当てはめただけの問題です。しかし、声と言うのは機械音とは違って、つまり物質的な音ではなく、物質以上のものによって支えられている力だと言うことです。
あるところで、このことに気がついたのですが、ところが他の人の声を聞いていると、やはりある部分は今お話ししたエーテルと言う力が関与していると思われるものがあります。体がよく響いている声です。例えばお能のシテが舞台で謳うとき、体がよく響いていて、それが床に伝わり、床の下に置いてある反響の働きをする甕によって能楽堂全部に響き渡るのです。ある時私の講演会に難聴の方がいらっしゃいました。ほとんど聞こえないということで、日常の会話では全く声が聞こえないので、その方は講演会に手話のお手伝いをしてくださる方を連れていらして、私の話は手話を通して聞かれていたと思うのですが、講演の後にその方とお話ししたとき、「仲さんの声は聞こえてました」とおっしゃっていました。彼の別の経験から「お能の人の声も聞こえるのです」と言うことでした。きっと彼は物理的に響いてるだけの声だと聞こえないのでしょうが、私やお能の役者さんのように、エーテルと関係を持った声は聞こえていたのだと思います。この経験は私にとってとても嬉しい経験でした。
大急ぎで整理しましたが、この関係を整理させるためには何をしたらいいのかと言うことをよく聞かれるのですが、普通の発声練習のような練習を積んでもできるようにならないと言う問題があります。実際説明がとても難しいので、そのためのセミナーとか講習会をしたとは思うのですが、どうしたものかといつも考えてしまいます。
私の中にあるエーテルの力を見つけ出す作業は、私にとっても課題です。自分では予感的にそれがあること、それが結びついていることはわかるのですが、とにかくエーテルの力は手に取ることができないので、これがエーテルですと人の前に提示することができず、困ってしまうのです。感じてくださいと言っても、それだけでは何か無責任ないような気がするのです。
今日のところは、体の中にある水分、つまり粘液とかリンパ腺とか言った水の要素を声の中に取り込んで響きに変えると言うことと、人間の中にある生命力となっているエーテルと何らかの関係があると言うところまではお話しできるのですが、その先の具体的なところとなると、私自身にもまだよくわかっていない部分なのです。
2024年9月8日
詩の言葉と言うのは、意味を汲み取るだけでなく、そこに込められた感情、さらに意志のようなものを汲み取らなければならないため、母国語で読んだ詩も難しいのです。それを外国語でやろうとすると、母国語の時とは比べ物にならないほど難しく、普通の散文を読めるようになっても、詩はなかなか読めないものです。
なぜ詩の言葉がそれほどハードルが高いのかという事ですが、詩の言葉にはいくつかの意味が重複しています。二重の意味に気がつかないと詩の本意がつかめないと言うこともあると思います。あるいは象徴的に表現するので、具体性が乏しいと言う言い方にもなるのかもしれませんが、私たちが日常使っているようなすぐわかる言葉遣いとは違うものになってしまうのです。また暗示と言う手法もあって、色だとか形だとかといったものを引き合いに出して、言いたいことを直接ではなく暗示的に言い表すのです。それは想像力と言われたりもしています。
これができるのは詩の言葉が散文の時に使う言葉よりも凝縮しているからなのです。言い方を変えると、詩の言葉は散文の時の言葉よりも、もし測ることができるとすれば「重い」のです。だからといって、散文の言葉と全くかけ離れているかと言うと、そうではなく、散文の言葉を煮詰めたようなところがあるので、外国人からすると、その言葉の本意を掴むのが難しくなってくるわけです。
あることを表現しようとして、普通の文章で書くときと、詩で書くときと比べると、詩で表そうとすると、集中力が違ってきます。そしてできるだけ無駄なことを省いて、要点だけに焦点を合わせると言うことになります。私が大変お世話になった、名古屋のやまさと保育園の故後藤淳子先生は「園の連絡帳を和歌で書きなさい」と職員の方たちに言っていました。現実には難しいことです。けれども、それをやろうとした先生たちの感想は、「和歌で書こうとすると、子どもの良いところがたくさん見えてくる」でした。しかし表現する力は素人ではなかなか難しく、実現はしなかったようです。
この話は詩の本質をよく伝えていると思います。詩と言うのは回り道をせずに、本質にたどり着こうとするものです。普通の文章では、主観的になってしまうものが詩の力を借りると主観を超えた違う次元の世界からものを見るようになります。普通の文章を書くときの意識とは違うところに意識が行くので、言葉選びが難しくなります。紀元前にインドでは既に数学と天文学が高いレベルに達していて、そこで研究の発表をしようとすると、当時のしきたりでは、普通の文章で書くのではなく、詩で綴らなければ論文としては認められなかったということです。詩で表現することで理解が深まっていると言う事実を見せなければならなかったわけです
最後に詩の大きな特徴を言うと、詩は歌われることを望んでいると言うことです。ただ読むのではなく、できれば声に出して読み、さらにそれが歌にまでなると、詩と言うのは完結するのではないのでしょうか。詩の言葉が高い次元から来ると言いました。その高い次元に行くためには、日常の言葉を一度「殺さなければならない」のです。文学的に殺すのです。まさに死して生まれよと言う言葉が言っていることそのままです。詩の言葉は一度死んで蘇ったものなのです。それだからこそ難しい訳ですが、新しい命を得て、深い輝きを持っていることも事実です。
2024年9月7日
日本だけでなく、最近ではドイツも高等学校になると、芸術科目、あるいは体育などの時間が削られて、その分いわゆる日本で言う受験と言う流れの中に授業全体が組み込まれていきます。ドイツではアピトゥアー、という一斉テストがあり、日本での全国共通テストのようなものですが、それが実際に受験にあたり、そこでの成績によって大学進学が決まります。
その受験科目に昔は運動とか芸術というものが含まれていたのですが、最近ではそれはなくなってしまいました。それと同時に、高等学部での芸術科目、体育科目はなくなったてしまったということです。
その傾向を見ると、結局勉強と言うのは受験と言うもののために存在していると言うふうに言えるわけで、日本やドイツに限らずおそらく世界中でこの傾向は顕著になっていると思います。なぜ受験科目から芸術とか体育がなくなったのかは分かりませんが、もしかしたらそんな科目は必要ないというのが先で、その科目を削ってしまって、その結果、それを試験する必要がなくなったと見たほうがいいのかもしれません。
いずれにしよう芸術や体育などと言うのは、無用の長物と言う位置づけになってしまったわけです。確かに現実からすれば実用性は無いわけで、俳人、松尾芭蕉が言うように、「俳句は夏のこたつのようなもの」と言うのはを額面通り受け取ってしまえば、確かに役に立たない無用の長物と言うことになりますが、芭蕉はそういう意味で言ったのではなく、確かに実生活に役立つものではないが、実はそれが故に大切なものだと言う含みがあるのだと思います。そして当時そのことは多くの人に支持されていたのです。
ある試験に出てくるような問題をドリルして、練習して、何回も繰り返してできるようになると言うのも成長期の子ども達にとって一つの訓練なのでしょうが、芸術、音楽とか美術とか、それ以し外のいろいろな芸術的なものと付き合うことで、磨かれる独特の感性というものが無視されているのです。確かに測れないものですから無視されやすいですが、ないのかといえばやはり何かはあるはずです。それは直接に役立つかどうかと言う観点からすれば、役に立たないものと言うことになりますが、実は役に立たないが故に大切なのだと言う人生の不思議を宿しています。
私が高校に入った時は芸術科目があって、音楽を選ぶか美術を選ぶかと言う選択でした。芸術科目があると言うのは何の疑いもなく前提でした。音楽ができて何になる?なんて問いを出す人はいなかったのです。絵が描けてどうする?なんて言うことは聞く人がいなかったくらい、当然のものでした。人間にはそう言うものが必要だと、社会レベルで確信していたのです。今から見るとのんびりした時代だったと言えそうです。
今はそれが欠如してしまったのです。アメリカ的プラグマティズム、実用主義が中心になってしまい、それこそ役に立つか立たないかが最終的で決定的なものになってしまったのでず。こうなってしまっては、人間は社会のために機能する道具になるかならないかと言う選択しかなくなってしまいます。私が見るにどうやら人間は道具になってしまったようです。
芸術が大切なのかどうかよりも、本当は人間は道具なのかどうかと言う問いが大事なのだと思います。社会と言うのはいろいろな意味を持っています。人間が共存していくための様々な要素が混じりあったものが社会だと思います。ただ今日のように社会といった時に経済を中心に考えた社会構造がいの一番に優先され、社会的努力はほとんどがそちらの方に向かってしまいます。これでは社会はいつか破綻してしまうはずです。人間は機械ではないからです。機械にはなりきれないのだと思います。実は機械というのが人間を真似したものでとは言え、人間のすべてを写せたわけではなく、人間が効率的に良いと理解した部分だけを機械のほうに落としていったと見るのが正しいのではないでしょうか。もし人間の全てを機械に移したならば、機械も芸術を楽しむ余白というか、余韻を備えつけてもらえたはずです。
ここまで来てしまった社会の動きはもう後戻りすることができないでしょう。しかし、新しい観点から芸術と言うものの必要性をもう一度理解し、それを何とか実生活の中に、教育の世界に落とし、人間の成長の一端にする事は将来を考えたときに大切なことだと思います。芸術と言いましたが、基本的にはある意味で「無駄なこと全般」なのかもしれません。無駄を削ることが大切なのか、無駄と言うものを含みながら人生を理解するのかということだと思います。