理解とコメント

2011年4月10日

私は母語である日本語以外のドイツ語という言葉で生活をしています。ドイツ語はどんなにできるようになっても所詮外国語です。

ドイツに来て三十五年ですから随分慣れてきていますが、ドイツ語は今でも立派な外国語です。

威張って言うわけではありませんが、外国語というのは何処かで間違うものです。発音にしても文法にしても完璧ということは望めないものなのです。

しかしこの不完全な外国語で生きることで却ってよく見えてくるものがあります。

今日はそのことを書いてみます。

この問題は秋の中国でのセミナーのテーマにも通じているので丁度いい練習にもなるのでお付き合いください。

 

 

外国語ですから間違って良いのです。私はそう思っています。

しかし言葉というのは正しくつかわれないと、気になるものです。日本に住む外人が日本語を微妙に間違って使っていたりすると気になります。

たとえばある外人が、「わたしが学校が行った時に急にお腹に痛くなってすぐに病院と行った」と言ったとします。

おかしいですね。

正しく言えば「わたしが学校に行った時急にお腹が痛くなってすぐに病院に行った」となります。

テヲニハは外人には難しいのでこの程度のことは日常茶飯事です。

日本人である私たちはどうするかと言うと、私の経験では二通りあるようです。

間違ったテヲニハを直す人と、そのまま聞きながしてその外人が言いたいことをくみ取る人です。

 

 

私のドイツ語からの経験で言います。

間違って使われた言い回しが解らない人がいます。

本当に解らないのです。いつも聞いている通りでないと理解できないのです。

何度も聞きなおしたりして、ようやく間違いに気が付くと、これ見よがしに訂正してきます。この人たちは言葉のセンスのない人だといえそうです。

そういう人と話をしていると疲れるだけでなく話すことそのものがいやになってしまいます。

もう一つは、間違って行った時にすぐに直す人です。

発音にしろ文法にしろ間違った所をすぐに正しく言いなおさせたりします。

すぐでなくとも、後で、「本当はこう言うのですよ」と必ず訂正が入ります。

このコメントはありがたいようなありがたくないような複雑なものです。

正直に言えば、いつもコメントする人とはあまり話したくなくなってしまいます。

間違いを直してくれるのでそれでドイツ語がよくなるかと言うと決してそんなことはなく、却ってドイツ語が嫌いになってしまう感じです。

それはその人のもつ反感を感じるからです。コメントをする、訂正をするという癖の出所は、何を隠そう、その人の反感です。

私の言いたいことを受け入れるよりも、間違いの方がずっと気になるのです。

反感というのは盾の様なものですから私の言葉はその人の前ではね返されてしまうものです。

私には自分が言った言葉はその人の中に入って行かないのです。そうではなくてその人の持っている反感の盾に弾き飛ばされてしまうのです。

その人たちは理解する力が少ない人、あるいはない人たちだと思います。

私に限らず、ドイツ人の場合でも同じで、全て他人の言っていることをその盾で受け止めて、コメントをして弾き飛ばしてしまうのです。

コメントは一見理解のように見えますが、それは理解とは程遠いい、反感の副産物なのです。

私が間違って言った時に、間違いを指摘することのない、何も言わない人がいます。

私が何を言い間違たのか言えないからではなく、間違っても構わないというスタンスで私の間違いをそのまま受け入れている人です。

いい加減なのではなく、たいていはコメント族よりも言葉の良くできる人たちなんです。

私の言いたいことをくみ取ろうとする姿勢の方が強い人ですから、その人にとっては文法が間違っていようが、発音が正確でないことなどは、二次的なのです。

とにかく私を理解しようと努めてくれているのです。ここに理解の本当の姿を見ます。深い共感です。

私の言いたい内容については、それがその人の考えと違っている時には、反論してきますが、それは反感からではなく、深い共感からです。

この人たちは私の言葉を直すことはないのですが、この人たちと話しているとドイツ語がどんどん上達します。

間違ってもいいんだと、話す勇気が付くからです。とてもありがたいことです。

言葉は不思議で、たとえ外国語でも、こちらに学んでゆく心の準備があれば、何度も聞いて行く内に矯正されてゆくものです。

慣れの中で覚えられるものが随分あります。

間違ってもそのまま聞いてくれる人が、私のドイツ語の先生だったというのは言い過ぎでしょうか。

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