リズムのこと

2011年4月12日

石川淳の文章からは深いものを学びます。泉鏡花の文章を読む醍醐味とはすこし違いますが、やはり大好きな文章です。

大好きという形容では大切なことが言われていないかもしれません。

彼の文章には近寄りがたいものもあります。威厳もあります。とにかく切れ味がすごいんです。

文林通言を久しぶりに読んで感動しました。

彼の着眼点の鋭さもさることながら、文章の凝縮度にほれぼれしてしまいました。

まるで詩の様なんです。

その凝縮した中にリズムが生きているのです。

 

 

言葉のリズムには随分関心があって、その観点で文章というのを読むことがあります。

昔っから言葉のリズムはどこから生まれるのかについて、随分考えました。今も考えることが多いものです。

泉鏡花の文章もリズムが独特で、読んでいて楽しくなってくるので好きです。

さて、文章のリズム、つまり言葉のリズムですが、一体どこから来るのでしょうか。

もしかしたらこれは音楽のリズムにも通じるものかもしれないと、どこかで考えています。

音楽どころか全ての芸術につながっているかもしれないと思っています。

 

 

私はリズムは心とか魂から来るものだと思っています。

心や魂だけでの仕事ではないかもしれません。

言葉と、心、魂の間を結んでいるのがリズムかもしれない、とも考えるのです。

詩的な言葉は心や魂に一番近いからリズムが明確なんだと思っています。

肉体が呼吸するように、心も魂も呼吸をしていて、それがリズムとして出てくるのだという訳です。

詩の言葉は、只リズムだけで読んでもいいとも考えます。

現代人が案外苦手なところです。

リズムの方が命で、意味というのは二義的かもしれない、そうも考えます。

一般的に言えば、学者の文章、学問的な文章というのは心とか魂から遠く離れて意味だけで綴られるのでしょう、リズムのない言葉です。

逆に優秀な学者さんたちは素晴らしい、活き活きした文章で、論文という頭の産物を感性のあるリズムで書いていらっしゃいます。それは尊敬に値するものです。

 

 

先日ベルリンに行っていて、二つの体験か゛ありました。

一つは当時のスターリン建築というものを目の当たりにし、全くリズムがない、まっ四角な建物が立ち並んでいるの中を歩いていた時です。

とても無表情な、今日の文脈で言えばリズムがないものを感じたのです。

共産主義の理屈にはあっているのでしょうが、町並みにリズムがない、建築空間にリズムがないということでした。

もうひとはクラリネットの現代音楽の夕べに行って、そこで聞きながら気が付いたことです。やはりリズム欠乏症の様なものでした。

感性の源の心とか魂から音楽が来るのではなく、作曲法の様な技巧から音楽が作られているのかもしれない、そんな印象でした。

リズムは流動感であり、律動感です。心や魂の感動が産む呼吸なんです。

言葉が心や魂に近ければ、と いうことですが、勿論心と魂の躍動感が前提です。

そこで躍動する心と魂に近い言葉になればなるほど、言葉にリズムが生きて来るのです。

昔は言葉より魂のリズムが勝っていたのでしょう、文章というのは全て詩文でした。

インドの数学も、古代数学は詩で表せなければ学問として認められなかったと、その道の友人から聞いたことを思い出します。

 

 

今は大変に重く暗い時期です。重く押しつぶされそうな心と魂をほぐすには、そもそもはそこから生まれたリズムが有効です。

言葉、音楽色、形と全てにリズムが生きています。

心と魂にリズムを送ってあげることで、心も魂も解放されるかもしれません。

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