言葉と音楽

2023年11月23日

このテーマでネット検索すると、数限りなく色々なアプローチがみられます。へそ曲がりな私は、他では書かれていないようなものを書きます。

言葉というのは音楽以上に自由な法則の中を生きているということです。

言葉には意味があり、文法があるのですが、日常の会話ではこの両方とも無視されていることがほとんどです。ご婦人方の得意な井戸端会議で話されている言葉は、文法も辞書もいらないほどおおらかなものだと想像します。

そればかりでなく、私の講演などもおんじれべるで、「出鱈目だ」と感動されたことがあるほど、めちゃくちゃなんです。このメチャクチャには、講演会で話を聞いている時には全く気づかないのだそうです。しかしある人が講演のテープ起こしをしている時に、「こりゃなんだ。こんな出鱈目だらけなのになぜ講演会では気づかなかったのだ」と度肝を抜かれたのだそうです。そして気を取り直して、「なぜ講演会では気づかなかったのか」を改めて考えたのだそうです。そして自分で納得ゆく結論が出たところで私にその人の体験を話してくれたのです。

音楽にアドリブとか即興とかいうのがありますが、それいはいわば無礼講のようなものと理解して良いのではないかと思います。それがメインになってしまっては何を聞いているのか聴衆の方が苦しくなってしまうと思います。ある時ジャズにも昔の名演奏、名即興が繰り返し演奏されると聞いて、いささか驚きました。もっと自由奔放に音遊びをしているものだと思っていたからです。

コンサートホールなどで聞くクラシックのオーケストラの音楽は一糸乱れぬもので、間違いなく正確な演奏が期待されているのです。オーケストラなどは何度も合わせて演奏会に臨みますが、ピアノの独奏などは一人ですから他の人に気を使わずにいられるのでしょうが、正確に演奏することが義務付けられているようで間違えなく弾くことを旨としていますから間違えるとすぐわかります。それはミスタッチなのです。間違ったのです。音楽はいつも正しく演奏されることが望まれているのです。

もし私が講演会で音楽のように正確に話したらどうなるでしょうか。前もって原稿を書き、本番ではそれを音楽が楽譜を正確に演奏するように、正確に話すわけですが、聴衆は間違いなく寝てしまうに違いありません。正確は誰も望んでいないのです。こんな退屈なものはないわけです。でもなぜなのでしょうか。

何事につけても正確なのは良いことのはずです。大学の先生の中には二十年も同じノートを読み上げている人もいるらしいのですが(困ったものだと思っています)、その先生の講義はきっとつまらなく、退屈で、学生には人気がないと思います。

しかし音楽は違って、繰り返し聴きたくなるところがあります。ヒットした歌などは一日に何度も電波に乗ることもあります。嫌というほど聞かされることがありますが、不思議と飽きないものです。今のような再生技術がなかった時には、歌手は毎晩同じ歌を場所を変えながら歌い続けなければならなかったのでしょうから大変な重労働です。

言葉には正確から少しずれるところに面白さと醍醐味があるのです。俳句や和歌の世界は語数が決められていますが、「字余り」という裏技があり、上手くなればなるほどこの裏技の楽しみ方がわかってくるようで、使いたくなるのだそうです。読んでいても、字余りの句などには、的を外されたような違和感と、そこから生まれる不調和な新鮮さがたまらなく楽しいものです。

もちろん音楽では字余りは「絶対に」やってはいけないことのはずです。

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