外国語から見えてくるもの

2023年11月24日

その昔、「外国語とはどこまで学べるものなのか」と何人かの友人と話していたら、その中の一人が「義父は完璧に英語をマスターしていた」というので驚いて聞き直してみたのですが、その時得た印象からいうと「相当できるらしい」ということでした。完璧に英語が出来るという発想は、試験で百点をとるような感覚なのではないかと勘繰ってしまいました。

先日のブログにも書きましたが、言葉自体が正確という概念を持ちつつも、どこかでそれを逸したものなのですから、母国語ですら完璧などということはあり得ません。いわんや外国での完璧さをや、です。母国語の完璧さは間違っていても相手に伝えられるということかもしれません。

私がドイツでドイツ語で講演をしているときに、色々と言い回しを工夫したことがあり、私なりに楽しんでいたのですが、あるとき講演を聞かれていたドイツ人に「ドイツ語ではそういう言い方はしません」と大真面目な顔で言われたことがあります。外国人がドイツ語で話す時に許されているのは「文法的に正しく話すこと。語彙を正確に把握いていること」だけですから、外国人が勝手に母国語に手を加え工夫することはご法度なので、それ以降はやらないことにしました。どんなにうまく工夫しても、所詮は間違っているとしか受け止められていないわけですから。

 

私がドイツに渡った時はまだ言葉にたっぷり不自由していました。補助車を着けて自転車に乗っていたのようなものでした。その頃は三歳四歳の小さな子どもがペラペラ補助車なしで喋るのを羨ましく眺めていたものです。

その時のことを先日振り返っていて気づいたのは、その頃の方がドイツの人がよく見えていたようなのです。言葉がわからない時の方が、よく見えるものがあるということの様です。よく見えたのは嘘です。少しドイツ語ができるようになっても、ドイツ人同士が喋り始めると、ドイツ語以外の人は所詮「蚊帳の外」に追いやられます。見事なまでにチンプンカンプンなのです。どうしてこれほどまでにわからなくなるのかがとても快感でした。いちいち「それはどういうことか」と聞いている、ドイツ人同士の話を邪魔してしまうことになり失礼だと思い、聞き耳を立てはながらもボートとしていると、意味としてはわからないのですが、その言葉をつかつている人が、言葉がわからない分よく見えているのです。

今にして思えば、言葉とは人を騙す道具でもあると割り切ってしまえるのでしょうが、当時はその印象がとても新鮮でした。子どもはだんだんと大人がしゃべっていることが理解できるようになってゆきます。人間は民族を問わず小さな子どもである時は、大人同士の話を意味を介さずに聞いているわけですから、その成長段階の子どもには、おそらく大人の嘘のつきあいのようなものがひしひしと感じられているのではないかと想像します。

嘘がつかれているときは話の流れに濁りが生じるようです。国会の質疑応答のようなものです(彼らはプロですから流暢に嘘を着きますが・・)。もちろん外国語の時や小さい子どもの時は意味がわからないので、なんでそうなっているかは探れないのですが、話している人の間で何かがずれていることだけはわかるのです。

 

予備知識が大切なこともあれば、それがかえって邪魔をすることがあります。私は、いわゆる芸術鑑賞と言われているものの時は、なんの準備もしないで出向いてゆきます。素手で直に感じるものの方が、知識で色々と膨ませるより手応えが濃いからです。知っているというのはオブラートをかけるのに似ていて、時としてそのものを包んでしまい、本当の醍醐味をわからなくさせてしまうことがあります。

わからないがゆえに見えるものもあるということでした。

 

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