アンサンブルの妙味

2013年1月12日

昨日はピアノ三重奏を聞いてきました。随分久しぶりの音楽会でした。吸引力のあるコンサートが無かったからです。

昨日のプログラムはシューベルトとショスタコービッチ、それを演奏したのは今話題のソル・ガベッタ(チェロ)、パトリシア・コバチンスカヤ(ヴァイオリン)、その二人に若干25歳のイゴール・レヴィ(ピアノ)。

久しぶりにアンサンブルを堪能しました。その報告です。

 

アンサンブルにはスリル感があります。特に少人数のアンサンブルからはそれがとてもじかに感じられます。演奏している人たちの音楽性が、時には優しく、時には激しく寄り添って音楽が進んで行くからです。演奏者たちのつくりだす音楽的呼吸がぴったり合っている時には、音楽が生きものの様に進みます。ソロの演奏会の持つ神聖な神秘感とは違って、人間的、あるいはいい意味で俗性の神秘感の様なものです。

アンサンブルのメンバーの演奏技術が同じレベルになければならないのは勿論ですが、それ以上に大切なのは、音楽性に共通のものがあるかどうかということです。メンバーの音楽が別の方を向いている時ほど詰まらないアンサンブルはありません。イライラすることも稀ではありません。それはどこにも生きているものを感じない、物足りないアンサンブルです。メトロノーム的な正確さだけでやっているアンサンブルもあります。

音楽性と言ってしまいましたが、その一番大切な部分を言葉にするのは無理かもしれないと思いながら話しを進めています。とても微妙なもので、言葉尻では同じことを考えている様な気がしても、実際に一緒に演奏してみると微妙に違うものがあったりするのです。

私が今までずっとソロで演奏会をして来たのはそうことも理由の一つです。気の合った音楽をすると言うのは難しいものです。

アンサンブルはこの音楽性の部分で共通するものが無いと、まるで自動車の四つのタイヤにそれぞれ別の銘柄のタイヤを付けて走る様なもので、走るには走るけれどがぎくしゃくして、乗り心地は最悪です。

 

久しぶりに命の通ったアンサンブルを聞きました。

武満徹も言っていた様に、西洋音楽には音楽が鳥籠の中に収まってしまった様なところがあります。そのためといっては大雑把過ぎると指摘されるかもしれませんが、演奏会では最近はそつが無く正確さが優先していて綺麗にまとまってしまう傾向は否めません。ゾクゾクするような音楽会にはなかなか出会ないのが現状です。あまり個性的すぎると音楽大学を卒業できないという話も聞きます。

この日の演奏は鳥籠から飛び出してしまった三羽の鳥がアンサンブルをしていました。

シューベルトの三重奏は二つあって、この日の演目は二番目のものでした。第二番とは言っても二つの三重奏曲は続けざまに作曲されましたから、シューベルトはもしかすると一気にピアノ三重奏というジャンルの表と裏を作曲したのかもしれない、そんな風に私は捉えています。時期的には歌曲「冬の旅」と同じ晩年のもので、晩年のシューベルトを知るには欠かせない作品のひとつです。

特にこの二番の三重奏は音楽そのものが、それまでの西洋音楽を抜け出してしまった様な所のある音楽で、シューベルトの新境地というよりも、西洋音楽にとっての新境地を開拓している節があるため、時には激しい風が吹いたり、極上のピアニッシモの聞かせどころがあったりと、とても野性味に帯びている曲です。しかしその野性味の中に気品と洗練されたものが同居しています。

その日のアンサンブルがこの曲を選んだのはもしかするとそんなところもあったのかもしれない(絶対にそうだと私は思っています)。

演奏が始まるや、度肝を抜く様な演奏スタイルにしばらく目を白黒させていました。今まで聞いたことのない様な迫り方です。でも曲が進むにつれ、次第に彼らの音作りに納得して演奏に付き合える様になって行きました。すこし余裕が出てきたころに、何故彼らをしてこの曲を選ばせたのか、その理由が読みとれる様な気がして、私の予想は大きくは外れていなかった様です。

三人の鳥たちはすでにもうとっくに鳥籠から飛び立ってしまいっていました。始めっから鳥籠には入れないタイプの鳥たちかもしれません。空を舞う鳥たちが、時には強いシューベルトの風に翻弄されながらも、一糸乱れぬアンサンブルを聞かせてくれます。恐るべき集中度です。曲が進むに散れて、彼らの奔放さと、勇気と、真剣さと、そして個性的な音楽センスと、技術的な力量にすっかり聞き惚れていました。

一番感動したのはメンバーの三人が、まるで相手の心の中まで覗きこむようにお互いの音楽を聞いていることでした。お互いに思いやっている様子を何度も目にしたり、耳にしたりしました。ほほえましいという以上に、そうしなければ彼らはバラバラになってしまうことを知っていたのだと思います。

本当はここを抜きにアンサンブルは成立しないのですが、ここがアンサンブルの一番難しいところでもあり、初心者たちはお互いを聞きあう余裕が無いため、メトロノーム的に、共通のテンポで音楽を進めて行くしかないのです。

今目の前にしているアンサンブルは三人がそれぞれに自信たっぷりに自分の音楽を、実に個性的な音楽づくりを楽しんでいます。それぞれが技術的にも最高級の人たちです。自分の演奏をしながらも、相手の音楽を深く聞き取りながら、それを自分の音楽の中に取り入れながら演奏している。とても感動的な姿でした。

もう一つ私の注意を引いたのは、即興性です。シューベルトの三重奏曲を演奏しているわけです。楽譜に忠実に演奏しなければならない作品を演奏しているにも関わらず、不思議と即興的な要素がふんだんに感じられるのです。これ以上言葉にするのは難しいので止めますが、とても新鮮でした。私は彼らの持っている音楽的直観を心の中でたたえていました。即興性を踏まえながらも、シューベルトの精神を外れることはない演奏です。舞台の上に一つの透明な音楽の柱が立ち、それが天に向って響き始めた様な気がしました。

三人のアンサンブルを聞きながら、昔、シューベルト弦楽四重奏15番ト長調をアルバンベルク弦楽四重奏団で聞いた時のことを思いだしていました。あの時の演奏も、綺麗事では収まらないこの難曲を四人が命懸けで弾いていました。この弦楽四重奏団は一級の楽団です。第一ヴァイオリンのピヒラーは演奏中、半分以上椅子から半立ちになって弾いていました。体の小さい彼は、曲が高揚し演奏に力が入ると立ちあがってしまうのです。他の三人もほぼ同じ様な形相でこの曲の持っている大きなうねりを作っていたのです。

シューベルトの音楽の最大の特徴は、音楽の中に生まれる調和です。あたかも大掛かりなしめ縄の様です。この調和がうねりとして、音楽として響かないと実に退屈な色あせた音楽で終ってしまいます。あの時のアルベンベルク弦楽四重奏団も、この日のアンサンブルも、言わば総立ちで、シューベルトの極めて難しいこの調和、知的でない別の次元の調和に真剣に挑んでいた、私にはそうしか思えませんでした。

シューベルトの作り出そうとしていたこの調和、西洋音楽の伝統とは相反するところがあります。シューベルトは長いこと西洋音楽の中では正しい評価を得ていなかった作曲家でした。私個人としては、シューベルトのもつ、今までの西洋的なものとは違う東洋的な調和が原因ではないかと睨んでいます。シューベルトの音楽は、これから音楽が西洋と東洋を統合する前触れに聞こえるのです。

その人の三人によるアンサンブルは西洋音楽の枠を超えシューベルトのこの曲の持つ未来性を、彼らの音楽感性で見事に私に示してくれました。

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