遊びの本質 その四

2013年1月13日

何か人に伝えようとしている自分を想像してみてください。

伝えようとしているものは「何を」と「どの様に」とが組み合わさっています。両方が大事です。何をというところにこだわっただけでは物事は上手く伝わらないもので、やはりどの様にという工夫がないと駄目です。料理の様なもので材料のいいものを買って来ても、料理の工夫が無ければ、せっかくの材料が生きて来ません。それどころか台無しになってしまうこともあります。

 

何をというのは言いたいこと、伝えたいことの内容ですから、これはしっかりと押さえておかないと、いい加減なことを言うことになってしまいます。そんなことを言っても人は信じてくれません。学問は特にこの「何を」というところをしっかり押さえないと、学問としては成立しないので、研究者たちはできるだけ正確なことを報告する様に努力するわけです。

勿論学問的な研究報告にしてもどの様にそれを組み立てて、他の人が理解しやすいようにという努力しないと、せっかくのいい内容が伝わらないままで終わってしまうことにもなりかねません。

 

どの様に、つまり工夫は見えない部分にあるとも言え、それが上手になるには随分時間がかかるもので、数をこなしていくうちに腕が上がって行くものです。どの様にには繰り返しが大事な要因です。

 

勉強ができる様なタイプの人は「何を」の方が優先します。一体あんたは何が言いたいのか、というところです。

勉強ができる人と言うのは、合理的なことが好きな人です。曖昧なことは許されないし、いつも答は出るものと思っています。

しかし人生はそれだけではないのです。非合理的、答が無い、と言うことの方が本当は多いのです。芸術の世界はどちらもないと言っていいと思います。

たとえば噺家さんなどは、古典落語などは特に多くの人が知っているもので、いまさら内容がどうのこうのと説明する必要がありませんから、自ずと「どの様」に話すかというところに力が入ります。何を話すかは、話しの筋は勝手に変えることは許されませんが、どの様にはその人の自由です。ここに芸が潜んでいます。自由だからといってどうでもいいのかと言うと、そんなことはなく、自由だからこそその人の力量があからさまに見えてしまいますから努力しなければなりません。

どの様にと言うのは、工夫というのは経験から生まれた力量とも言えますし、その人の人柄とも言っていいと思います。芸の中には人格が潜んでいます。いや人格が芸を磨くのでしょう。

どの様な間(ま)をおいて次に話しを進めるのか、そんなことは何をのところを気にしている人には大した問題ではないのですが、どの様にということをいつも突きつけられている芸人さんにとっては死活問題です。ここが狂うと話しとして全く詰まらないものになってしまいます。

「飛んでいる鳥が何か落としたぞ。ふーん」

これは内容としては、たった一つのことしか言っていないのに、いい方としてはそれを話す人の数だけあるものです。

 

子どものときに一杯遊ぶと何がいいのか。工夫をしなければ次に進まないというところで、工夫をします。その工夫は自己肯定のことで、そうした工夫をしないで人の言ったことばかりやっている子どもには自己肯定はいつも他人依存になってしまいます。

私が子どもの頃はや京都言えば草野球でした。組織化されたリトルリーグや少年野球協会の様なものはあっても知る人ぞ知るでした。毎日何の意味もない草野球を泥んこになって日が暮れるまでやっているのです。

しかしやっている方としては、一日として同じことは起こりません。親からすれば「毎日下手な野球ばかりして」となるのでしょうが、やっている本人には毎日違う野球をしている様な壮大なものでした。随分いろいろな工夫をしながら、我らが草野球も進展したものです。

 

子どもが木登りをしています。そこで何が子どもにとって大切なのかと言うと、次の枝に自分の足がかかってもその枝が折れないかどうか、その枝まで自分の足が届くかどうかということを知ることです。物差しを以って来て計るわけにも行きませんし、枝の耐久力などは実際にそこに足をかけてみないと解らないものです。木登りはいつも本番です。

足をかけて、どうも危なさそうだということになった時に、「一やめた」と木から下りて行くような子どもは、社会に出たときに上手くやって行けない人になってしまうでしょう。そこで工夫をします。全ての知恵と経験が総結集します。人それぞれの工夫があります。他の枝から攻めて行くこともできます。あるいはその枝の付け根のところなら僅かの時間くらいは自分の体重程度はかけられそうだと判断したら、その枝の次の枝を見定めて、なるたけ早くそちらの方に移行する様に姿勢を変えて挑戦したりします。

そうして自分の工夫で達成した時に、自分を肯定するのです。自信がつきます。

 

こんなことはどうでもいいのことの様に見えます。

勉強した子どもだって、成績がよくなれば自信がつくものだとも言えますが、やはり他人依存と言う本質は変わらないと思います。

「君は子どもの頃に何本木に登ったことがあるかね」の様な質問は無用です。「家の庭には木が一本しかありませんでしたから一本です」とある子どもが答えたとします。同じ木に何回も登れるのですから、一本の木しか登ったことがなくても、その子は幾通りもの昇り方をして、木を知りつくしています。そちらの方がずっと子どもの遊び心を育てているのです。そしてそこで豊かな自信がつくのです。

 

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