ウソの実態 その二

2013年1月30日

子どもがウソをつく様になったら、子どもの中に今までとは違うものが生まれています。親としては心配ですが、子どもの中に「自分」が育ち始めているということです。

子どもたちは「自分主張」をするようになりますから、そこでもその成長の様子はうかがえますが、ウソをつくことでも自分の誕生は解ります。

 

始めてウソをつく人はお母さんです。その後兄弟でしょうか。基本線というか、ウソをつく流れは身近な人からです。その子のことを一番よく知っていて、よく理解してくれている人にウソをさきます。始めのウソは子ども自身自信が無いからかもしれません。

不思議と知らない人にウソはつかないものです。ウソをついても、そのウソがウソとしては機能していないからです。ウソをつく意味が無いのです。

 

「もう宿題やったの」

と聞かれて、やっていないのに

「やった」

と答えればウソです。

やりたくないからやっていないのです。

その場を濁すにはウソが一番です。

そんなことが続くと学校の先生から家に電話がかかって来て

「おたくのお子さんは、ここ三回ほど宿題をやってこないのですが」

それを聞いたお母さんはどうしたらいいのでしょうか。

 

わが子がウソをつく、それは悲しいことですが、犯罪者に見立てられては子どもの立つ瀬がありません。すぐに子どもを呼びだして、叱りつけるのも上策ではありません。子どもはウソをついたことで自分を傷つけていて、その傷の上に親から潮を塗りこまれる様なものです。

子どもがウソをついているのを発見したお母さんは先ず様子を見て

「何故あの子はウソをついているのだろうか」

と子どもの立場を考えなければ駄目です。

 

子どもにはウソをつく理由があるのです。ウソにはいつも理由があります。

「なぜなら」というのが子どもにはあるのです。この「なぜなら」で子どもは自分という領域を育てているのですから、しっかりと「なぜなら」と言わせてあげる場を作らないと、ウソをつくことが子ども育ちにつながりません。宿題をしない理由があるのです。

 

子どものウソだけでなくウソにはいつも理由があるのです。

ウソをついている人はそれが相手を誤魔化そうとしてウソをつくのです。ある状況を誤魔化そうとすることもあります。どちらも自分保護から生まれています。

その人が持っている自分に対してのイメージを壊したくないからウソをつくのです。

 

ウソとよく似ているのにほらふきがあります。小さな法螺は退屈で面白くないのに、派手に法螺を吹く人の話しは愛嬌があって面白いものです。その法螺に楽しく付き合うことだってできます。

ウソは逆で、小さなウソは可愛いですが、大ウソは腹が立ち、苛立たしいしものです。付き合うのは難しいです。

ウソと法螺の違いはなにかと言うと、法螺には僅かの本当があるということではないか、そんな気がします。その僅かの本当が膨らんでしまうのです。本当から生まれたものが法螺です。さらに法螺は人をだまそうという下心は少ない様です。

 

ウソが腹立たしいのは人をだましているからです。これさえなければウソも愛嬌なのでしょうが、それは不可能です。だますからウソなのです。

人をだましたらサギと言うことになります。そうするとウソは犯罪です。

法螺は自分を大きく見せたい、いわゆる誇大妄想で、だまそうとする下心からではないですから詐欺、犯罪とはいえないと思います。そもそもは愛嬌です。

話しを膨らませ過ぎてウソになることがよくありますが、どこからがウソか、その境界線は状況によって随分違います。

 

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