習慣の力

2011年4月27日

言葉を勉強していて習慣に出会いました。

人間は、生きているということは習慣に支えられているということでした。

去年から英語の勉強を何十年かぶりに再開しました。何度も書いていますからご存じだと思います。

 

外国語は習うより慣れろといいます。

確かです。子どもはこうして言葉を習得します。

しかし大人の場合は習いながら慣れるという方法をとらないと、にっちもさっちも行かなくなってしまいます。

さて慣れるためにはどうしたらいいのか。

繰り返ししかないです。

何度も簡単な文章を音読して、体になじませるようにします。

耳に訴えます。発音の時の口の動き、舌の動き、呼吸のタイミングを体に送りこみます。

でもそこで読んでいる内容が理解されていないと、何度読んでも無駄ですから、辞書を何度もめくり、文法の本を読みます。

書くこともしました。手の動きそして字面が目から入ってきます。

感覚的な作業をフル回転です。

こうしてもうじき一年がたちます。

随分慣れてきました。

 

英語を学ぶということは、英語の持つ習慣の海に飛び込むことでした。

そこで日本語の時の泳ぎ方、ドイツ語でものにした泳ぎ方は通用しません。

英語の泳ぎ方を学ばなければならないのです。

浮輪が使えません。

自分が今まで使っていた言葉で作った習慣を全て放棄することが唯一の道です。

そして赤ちゃんに帰ったつもりになって、今自分がいる海の水の質を認め受け入れなければなりません。

「日本語の海ではこう泳ぐのです」、なんて言っていたら沈んでしまういます。

 

言葉の素質のある人は、

習慣に対して適応性がある人だと思います。

習慣という生まれてこの方、知らずに付けてしまった癖にとらわれがない人なのかもしれません。

でも私は何カ国語もペラペラに喋る人を知っていますが、その人たちには別の苦労があります。

自分が絶対安心していられる習慣を持っていないのです。

私たちは習慣があるから安心があるのだとその時に教えられました。

 

習慣と個人としての自分、個性がどういう関係にあるのか、それはとても興味深いものです。

この方程式を解いてみたいものです。

個人という力は、個人だけでは支えきれないということを置き去りにすると、間違った個人主義の様なものに陥ってしまうでしょう。

習慣が思いの他大きな力となって個人を支えています。

 

若い学生さんはあまり外国に行きたがらない、留学して勉強して来ようとは思わないと聞きました。

習慣に負けているのだと思います。自分の枠から出たがらないのではないか、そんな気がします。

もしかすると、自分の習慣がしっかりできていないということかもしれません。

子どもの頃にしっかりとした習慣が身についていないということでしょうか。

知的なもの、能力が優先してしまう社会の陥りやすい所です。

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