使い捨てライター 50年

2013年6月7日

音楽とは無縁の話しをします。

 

使い捨てのライターが出現して今年は五十年だそうですので、わたしのブログでもお祝いの言葉を添えたいと思います。

使い捨てライターのことを考えながら、その昔、煙草呑みの叔父たちが、「ライターも近い捨ての時代が来た」と話していたのを思いだしました。

それまではライターといえばガスライターかジッポの様なペンジンのライターでした。高級なガスライターを持っていた人はそれを自慢していましたし、ペンジンのライターは火消し石をやすりでこすって出た火花にボッと火がつくのを見せて、子どもだった私は楽しんでいました。ガスがなくなると楽しそうにライター用のガスボンベで注入していました。そういうものとしてしかライターを知らなかった人たちにとって当時出現した「使い捨てライター」は画期的というより、「ついにこんな時代になってしまった」といった蔑視を含んだ嘆きの様なものがあった様です。

叔父たちも何時の日かから使い捨てライターを使い始めていました。今は使い捨てでないライターを見つける方が大変です。

 

長くものを使うということは美徳でした。その考え方は私の中にも叩き込まれています。古い人間でしょうか。

そのためには手入れが大切で、手入れのためのいろいろなものがありました。洋服用のブラシもその一つです。

背広の上着とかオーバーとかは昔はブラシで埃を落としたものでした。そのためのブラシがあって、母は良く父の上着をブッシングしていましたが、今ではそんなことをする人はいなくなってしまいましたから、そのためのブラシを買おうとしても相当探さないと見つからないと思います。

洋服の専門家に聞いても、ブッシングは大事だそうです。それでまた毛が立ってきますと言います。ドライクリーニングに出すよりもその方が生地にも好いという人もいます。

男性のスーツ、昔は背広と言う方が普通でしたが、これもそもそもは仕立て屋さんで寸法を測って、仮縫いがあって出来上がるという時間のかかるものでした。それが使い捨てではないですが、「吊るし」で売られる様にるのですが、きっとその時も嘆きの声が聞かれたのではないかと思います。

嘆きの声は「今の若いものは」というのに似ています。ちなみにこの「今の若いものは」すでにペソポタミアの楔文字にも出て来るほど歴史のある古い言い回しで、人類には切っても切れない縁の深いものの様です。温故知新です。古きに学びながら、人類はこれからもきっと嘆き続けるのでしょう。

嘆くのは好いですが、本当に良いものは何としても後世に残したいものです。

良いものは長く使えます。しかしそのための手入れが必要です。手入れをするといいものとは電車の日本のレール様なものですから、好いものだけを残したいと言うわけにはいきません。

手入れの行き届いた川のカバンを持っている人がいました。そのかばんに時間を感じました。なかなか好いものです。

よく手入れされた靴の方が、新品の高い靴より「グッと」きます。

 

何が好いものかという価値観は時代と共に変わってしまいます。使い捨ての時代にはそれなりの価値観があるは思うのですが・・・

先日錆び止めの入っていない、鉄製の良く切れる包丁をプレゼントしたら、なんと怒られてしまいました。

錆びる様な包丁じゃなくて、錆びないちゃんとした包丁が欲しかった!!!

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