日本の空へ 曖昧なことの美徳

2011年7月15日

曖昧さというのは、よく言われるように、本当に日本的なものなのだろうか。

大江健三郎さんがノーベル賞を授与された時の挨拶が曖昧な日本の中の私というタイトルの話しでした。

大江さんがどの様に考えているのかは、本になっているので(岩波新書)そちらに当たっていただくとして、私なりに曖昧さに付いて思いを巡らしてみたいと思います。

 

曖昧さというのは、何も日本の専売特許ではないのです。

それに曖昧というのは、それほど曖昧なものではないのです。

そのことを先ず言いたいと思います。

曖昧の反対はなにかといえば、正確とか、厳密ということなのでしょうが、逆にそちらもそれほど正確でも厳密でも無いようです。

更に、意外と深く信じられているようですが、曖昧さが、よくなくて、正確さ、厳密さがが良いというのも、一考の余地ありだと思います。

 

とは言っても見、曖昧さがある程度は日本的で、正確さ、厳密さが度っらかといえば西欧的という風に図式化してみることはできる様な気がします。

確かに西欧には、曖昧さを嫌う傾向があります。

どこからの傾向が来るのか考えてみました。

これは思考的、分析的なものの見方から引き出されるものです。つまり思考的に物事を理解するとという所から生まれるものです。

ですから、それ以外の、たとえば感情的なところで、感情的、情緒的なものには当て嵌らないものです

感情を正確に、厳密に分析したところで、何も言っていないのです。

心は正確に分析できるものなのかどうか、すこし考えてみる必要があるような気がします。

たとえば、結婚する時に、相手の人を徹底的に分析して「これでよし」と決断を下して結婚すれば絶対に成功するかというとそんなものではないはずです。

西欧では、特にドイツでは結婚した半分以上が離婚しています。

その人たちがどこまでお相手さんを分析したかはわかりませんが、とりあえずは西欧的に結婚していることはたしかです。

日本的結婚よりは明確な判断があったと思います。

愛は盲目と言われますが、結婚はある程度盲目状態で始めるのがいいのではないか、そんな気がします。

結婚して目が覚めて、でもそれで相手が解るか言えばそんなことは無く、相生の松になって枯れて行くのかもしれません。

 

料理なども曖昧なものが随分あります。

最近はグルメブームで、料理も随分分析されて、バラエティーに富んで来ています。

創作料理も増えています。

しかし、グルメ的、創作料理がおいしいかというと、そんなことはないような気がしています。

ケーキ作りの名人と與場゜れていたおばさんが、ケーキを作るところを見ていて、秤を一切使わずに材料を混ぜて、しかも随分いい加減にです、そしてオープンに入れてしまったのに驚かされたことがあります。

そこの子どもたちは、お母さんはいつもそうで、しかもいつも同じ味がすると言っていました。

塩少々、と言うのは、塩何グラムのことを言うのか誰も知らないのです。

驚くことに、ドイツ語でも少々という言い方は生きていて、Priese プリーゼ と言いますが、これもドイツの料理の本にみられる立派な料理概念です。

 

最近はオーディオの世界でしんくうかんが 見直されています。

実はこの真空管も曖昧な音を出すものなのです。

音が真空管の仲を流れて行くときに、周波数によって伝わり方にずれが生じ、そこからぬくもりという感触が生まれるのだそうです。

正確な音を求める人たちはそこを、「真空管はウソをついている」と言ったりします。

ウソから、実はぬくもりが生まれていたのです。

 

西欧的というのは、理屈的に説明する所で成り立っている、そしてそこに正確さ、厳密さは役に立っているということなのでしょうが、料理にしても、人生にしてもほとんどが理屈で説明できないものの様な気がします。

だとすれば、この正確さ、厳密さは随分現実離れした、抽象的な事を言っているのです。

理屈的、という言い方を押し通しますが、ものを理解する時に、あるいは相手を理解させようとすると理屈を振り回します。

しかもたいていグラフ的、図式的になってしまいます。

いろいろな講演会に行くと、最近はたいていグラフとか図式が出てきます。

図式化すると、解りやすい事は確かでしょうが、、図式化できないものにも意味がある事を忘れてしまうと、世の中合理的にものが片づくだけで、人生の繊細な、味わい深い所に目が行かなくなってしまいます。

これは分野を問わず同じで、最近の大きな傾向だと思います。

 

最後にライアーの事を言います。

ライアーの弦というのはとても調律しにくいものです。

調弦する機械を使って合わせても、駄目で、最後は自分の耳で聞いて確かめて、自分の気に入った音で弾くのが一番落ち着きます。

それが正しい音かどうかはわかりません。

そして演奏する時に弦を強く引っ張っていますから、当然調律の時の音とは違った音がなっているはずです。

ライアーにはこの曖昧さが、どうしても付きまとっています。

だからでしょうか、ライアーが日本で普及するのは。

 

何だ私たちのまわりというのは実は曖昧だらけ何だという気がしてきました。

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