芭蕉とバッハ

2013年6月12日

この二人には共通点が沢山あります。

深入りすると大変なことになってしまうのでさらっと書いておきます。

 

芭蕉の俳句を読んで感じるのは、俳句としての完成度の素晴らしさです。

バッハの音楽にもよく似たものがあって、技巧的に駆使されている知的水準が高い音楽です。

 

芭蕉の俳句は、風景、情景を巧みに俳句にしています。それらは風雅とかわび・さびの中で磨きをかけ完成度の高いものにし上げられたものです。技術的に完璧な俳句があるとしたらそれは芭蕉の俳句の中にでしょう。

 

バッハの音楽も技巧的に完成度の高いものです。受難曲などには人間の苦しみ、心の痛みがドラマチックに音楽となっていますが、そこには個人の感情と言うものは乏しく、聖書を題材に取りながら人類的な規模で心のあり方が表現されています。

バッハのインヴェンションは計算され尽くされています。フーガもです。演奏もバッハが計算した通りの答が出てこないと良い演奏とは言えず、カザルスがチェロの無伴奏組曲をひいた時、スペインの田舎臭さとかいわれ、バッハはその様に弾くものではないと言われたものです。バッハの計算の数式が聞こえてこなかったのです。

 

芭蕉の俳句は勿論ですが、芭蕉の俳句に対する感覚はそれまでの考え方とは違います。正岡子規は芭蕉の俳句を否定したわけではありませんが、あまり評価していません。不純と言う様ないい方をしていたり、不自然と言う言い方をしています。芭蕉の俳句には編集された跡が感じられます。ある景色を見てそれを素直に歌っていると言うより、見た景色が俳句となった時に効果的に読者に伝わるかを計算した跡がです。正岡子規が言う不純さはそういうことでしょう。不自然も同じです。

 

芸術は必要な栄養を補給するところがあります。人間の心です。全ての芸術はそこから栄養をもらって生きています。心からの栄養の補給が無かったら芸術はおしまいです。芸術は人間の心と共に誕生し、心が消えるところで一緒に消えて行くものです。

今の時代芸術は知的な部分から栄養を取っています。知的であることは芸術の質を保証するものです。悪いことではないのですが、整理された冷たい、まるで学問の様なものになってしまいます。

心には祈りもあれば怒りもあり、欲張りであり、禁欲的であり、つつましやかであり雑あり、繊細であり、鈍感であり、感謝があるかと思えば軽蔑することもあり、嬉しくもあり悲しくもあり、とダイナミックなもののはずです。勿論知的でもあります。その全てから栄養を取って芸術は作品をつくってきました。心の中は混沌としています。知的な部分はその混沌に耐えられなくなり、整理整頓を始めたと言えるかもしれません。

 

実は、芸術は作品を作ることで心を磨いてきました。これは大切なことです。心は自分を芸術のために捧げ、心は作品となったものから逆に栄養をもらえたのです。作品は芸術の心への感謝でもありました。芸術と心の間のエコロジーです。

 

バッハはカンタータなどで沢山の歌を作曲しています。しかしその歌は器楽曲的です。言葉離れした歌、計算で作り上げる歌、それがバッハの歌です。言葉が歌うのではなく、言葉にメロディーをつけて行きます。

芭蕉の俳句にもそんなところがあります。心の発露としての言葉であるより、俳句のための言葉を駆使します。そして俳句のための俳句、純粋俳句と言っていい様なものを作り出します。驚くべきことに芭蕉はそれを一人で成し遂げてしまいました。

私たちの時代は芭蕉とバッハの末裔です。技巧と芸術の区別すら付かない末裔です。

 

芸術が生き延びるためには、芸術が再び心の全てから栄養を取ることを始めれば好いだけです。芸術誕生のきっかけは心です。心がカギを握っています。心の復活です。心は学問されて、心理学的に整理されてもいますが、世界は心の病であふれています。心の健康が全てのところで叫ばれている様です。知的なものに捕らわれた心を解放することでしょう。

心への感謝を感じる様な芸術になって行ってほしいものです。

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