続 家庭料理を哲学すると

2013年6月15日

続き

家庭料理とは、家庭で食べ続ける料理のことです。味の良し悪しは、特別おいしいものではありません。

こう言うと料理に自信のある方には「わたしの作る料理はおいしいです、世界一です」とお叱りを受けると思うのですが、家庭料理の大きな意味はおいしいというところにあるのではなく、毎日食べている料理というところにあるのです。

毎日食べられるのです。その秘密が家庭料理の中にはあるのです。

家庭料理にお客さんを呼ぶことはほとんどないものです。別に恥ずかしいものではないのですが、他の人に見て欲しいものではない様です。お客さんを呼ぶ時には、いつも食べている家庭料理ではない特別家庭料理、御御馳走が食卓に並びます。

外で接待でグルメ料理を口にすることが多いご主人には、味的には物足りないところがあるものですが、慣れた味いつも食べている味は、味覚だけではかたずけられないものです。

グルメ料理を毎日食べていたら、

飽きてしまいます。それが世界一の料理人の手にかかった料理でも外の食事は

外で食べるからおいしいのでと、時々食べるからおいしいので、食べ続ければ飽が来るものです。

ところが特別おいしいわけでもない家庭料理は毎日食べられるのです。

 火加減を間違えて焦げてしまった失敗料理でも家庭料理として食卓に出て来ることがあります。レストランでは食べられない料理の一つです。焦げた魚、肉などは外では料理としての商品価値はないものですが、家庭では案外行ける珍味として人気者だったりします。

 

家庭料理とグルメ料理の違いは飽きが来るかどうかです。

何故家庭料理が飽ないで、上等グルメ料理には飽が来るのか、これはただ味が違うと言う様なレベルの話しではなく、この二つの料理は基本的に次元が違うものと見なければいけない様な気がします。

おいしい料理、深い味を出すために料理人たちは何年も修行をします。チーフになってからも修行です。芸術品と言える様な料理もあります。それから比べると家庭料理は貧弱です。勿論材料がそろいません。そのための道具もありまません。包丁もスーパーで買える様なものと職人の包丁とは雲泥の差があります。厨房と台所では火力が違います、等々。そこの次元で比べていては毎日食べられるという家庭料理の持っている秘密を解き明かすことはできません。

お母さんが毎日作るものを食べて小さな子どもたちは、その味の中から味覚を作ります。ここは大事な点ですからいつか詳しく述べるつもりです。

小さな子どもたちはお母さんの作ったものをおいしいとか不味いとか感じて食べているのではなく、それは絶対に食べるものとして食べているのです。試しにお子さんに「おいしい?」と聞いてみてください。三通りの返事がきます。素直に「(お母さんが作ったから)おいしい!」が一つ、「・・・」答が無いのも答えです。「まずーい!!」と言いますがおいしいのです。キーポイントはお母さんが作ったと 言うことです。味ではないのです。お母さんがおいしいと言うことです。

何が何でも食べるというその絶対性の中で、子どもの中に何かが目覚めるのです。感覚能力です。ここでは味覚です。この味覚で子どもたちは成長し、家庭以外のところで食べるものに対しておいしいとか、不味いとか言える様になるのです。子どもは味覚の中に家庭料理から物差しを作ります。この物差しは世の中に出て何処に行っても通用するものです。この物差しは毎日食べるものの中からしか作られないのです。しかもこの物差しがあるというのは、子どもにとって、ただ味覚の世界だけでなく、生きる大きな自信につながります。

 

こんな話しがあります。

町工場を経営している家庭のお子さんの話しです。お母さんも子どもを残して仕事に出かけるので、家のことはお手伝いさんが来てやっていました。掃除、片付け、洗濯、買いもの。勿論食事もです。ごく小さい時からその子は毎日お手伝いさんが作るものを食べて大きくなりました。それしかなかったのです。その子が、女の子です、小学校に入るころになってある日、「わたしはまだお母さんの作ったものを食べたことが無い」と泣きながら走り寄って、「あしたから私はお母さんが作ったものしか食べない」とお母さんに向かって断言します。お母さんは娘が何を言っているのか初めは解らずに「御食事おいしくないの」と聞くのですが、娘は首を振ります。「だったら好いじゃないの」と母親が言うと「そうじゃないの、お母さんの味が食べたいの」とだけ言って娘さんは泣き崩れてしまったと言うのです。

それから料理を始めたお母さんは、毎日失敗の連続だったそうですが、娘さんは「おいしい」と言って食べてくれたそうです。

 

一流レストラン、料亭のグルメ料理はでき具合から見れば別格です。でき具合という次元から目を話して、この二つの料理の世界は、そもそも全く違う次元で起こっていることだと見たいのです。

毎日、毎日続く、毎日繰り返される、これはあまりにも日常的過ぎて、日常茶飯事で、当たり前で、大して意味のないものに見えるのですが、毎日続くところでしか育てられないものが人間の中にはあります。

芸事は毎日の練習から上達します。気が向いた時、親に言われたから練習すると言うのは上達の道ではありません。毎日練習して、毎日上達が見えるかと言うとそんなことはなく、昨日の方がうまく出来たかもしれません。上達するという点からは毎日する意味はないものです。しかし毎日の中で育つものがある、ここをしっかり見つめて欲しいのです。感覚能力というのは毎日の繰り返し、積み重ねで鍛えられるものです。それはフットワークと言っていいのかもしれません。

ある骨董屋さんが、毎日最高の壺を見ていたら、一年である程度の壺を見分けられる様になりますよ、言っていました。

毎日の積み重ねで磨かれるもの、それは感覚器官です。感覚能力です。先ほどの味覚もそうです。最高においしいものを子どもが毎日食べることで子どもの味覚が育ちます。最高のものはグルメの一流料理ではなく、お母さんの作った料理です。

現代社会は、この点から見て、いろいろな問題を抱えています。

毎日が何を意味するのか、子どもにとって最高がどう言うものなのかは、どんな状況からも考えてみるものだと思います。

感覚は磨かれるのです。毎日繰り返すと言う何でもない魔法の中で磨かれるのです。

                                                        おわり

 

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