中国のこと、日本のこと、そして守・破・離のこと

2011年11月8日

一週間ほど中国に行ってきました。

広州会議で講演とワークショップと、パネルディスカッションとライアーコンサートをしてきました。

 

今はまだ感動の渦の中にいて、主観的な印象が優っています。

したがってまだ会議の報告は避けておきます。

ただ確かなことは、中国に行く前と今では違う人間のような気がしています。

薬の宣伝に使われる、使用前と使用後のような感じです。

 

中国の人たちの大雑把さとおおらかさに感動しています。

今までは否定的に、あるいは斜に、大陸的な人たちと構えて見ていましたが、実際によい形で接すると、そこに大きな可能性があります。

そうした中国の人たちの姿から、日本人である自分が浮き彫りになるようなことが何度かありました。

日本人であることをドイツにいるときとは全く違う感覚で感じたのです。

同じアジアの人間というスタンスが大きな力になっています。

それを大きな収穫だと感じでいます。

 

空海が中国にいるときに書いた書と日本に帰ってきてからの書の違いを指摘されてたくだりを司馬遼太郎で読んだことを思い出しました。

中国にいるときのおおらかさと、日本に帰ってきてからの繊細さとの違いを空海は言っていました。

今はその気持ちが理解できるような気がします。

 

工芸などに見られる繊細な日本人の特性は全世界の大きな財産です。

そのことはいつも感じています。

今回の中国体験をした後でもその気持ちには全く変わりはありません。

でも繊細さには時には神経質なところがあります。

神経質にならなければできない仕事ですが、型にこだわりすぎる悪いところもあります。

そして型にとらわれることによって、型を守ることが先行してしまいます。

守ることの大切さはあるにしても、それを打ち破る勇気も必要だと、今回中国の人たちを見ながらつくづく感じてしまいました。

 

守・破・離という考え方をここに当てはめれば、破ることは発展と成長にとって必然的なもののはずです。

守の文化を卒業して、破の文化をこれから作って行きたいと今は思っています。

破の文化を提唱することで村八分にされてもいいと思っています。

破の文化が次の日本の発展には必要です。

守から破へは、ちょうどまだよく泳げない子どもが今まで頼りにしていた浮袋を外されたようなものです。

溺れるかも知れません。

捨てる神あれば拾う神ありです。

親しくさせていただいている僧侶の方が、「人間というのは後ろ指を指されて初めて一人前です」とおっしゃっていました。

その言葉の持つ意味が今はよくわかります。

 

さてどこから破を始めたらいいのか、これからゆっくり考え行きます。

そうですね、あまり考えすぎずに、大雑把に考えようと思っています。

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