金曜版 2 音は消える、それが直観を磨く

2014年4月4日

音楽は、音を組み立てて作る芸術です。

画家さんは色で形を駆使し、彫刻家の人たちは木とか石を彫ります。それ等は絵として、彫刻として後世に残ります。他の芸術作品も形として残ります。ところが音は消えてしまいますから音楽は無形芸術です。

音は淡雪と同じくらいの儚い命です。

もし音が形のあるものとして残ったら大変なことになってしまいます。コンサートホールは音で埋まって、しまいには外にあふれ、雪国に積る雪の様に生活に支障をもたらします。世の中見渡す限り音だらけになってしまいますから、雪の山ならぬ音の山が至る所に出現するでしょう。焼却したらいいのかもしれませんが、焼却炉の中で音は破裂し雑音が発生し、量が多い時には騒音になって、騒音による環境破壊ですから住民の騒音廃止運動が起こります。

世の中音に溢れていますが、音が消えていってくれることが、どれほどありがいたことか私たちは気が付いていません。また、そのありがたさに甘えて必要以上の音を垂れ流しているともいえます。

 

音は消える、このことは音の本質ですから、他いにもいろいろな見方を許してくれます。

芸術性の高い音楽の音とはいえども鳴った後は消えてしまって帰って来ません。傑出した音楽家たちの音を記録しておきたいという願いは、録音によって叶えられたといえるのでしょう。生で聞くことができない、かつての歌い手の声を録音によって偲ぶことができるのですから、有難いものです。(録音がいいことなのかどうかについては別の機会にお話しししたいと思います。)

録音が生まれる以前、音が残るのは心の中と決まっていました。録音を知っている私たちは、昔はみんな忘れてしまったのかと思いがちですが、違います。一回しか聞いていないものが鮮明に心の中で生き続けていることは、多くの方が経験されているのではないかと思います。それは録音で聴く音よりも却って鮮明だったりします。よく見るとそれはもう音ではなく、心象という別の次元のものに変わって生き続けています。音は淡雪のように溶けて消えてしまうのですが、音は記憶の中でイメージ化されて生き続けるのです。雪は水になりついには蒸発してしまいますが、音はどの様に消えて行くのでしょう。

 

音との出会いは一期一会、一瞬の出来事ですから、直観だけが頼りです。人との出会いも同じです。肩書きに頼らず直観に頼ってほしいものです。

音楽は直観で聞いています。音楽を聞くことで、直観を養うことができます。精神修行に音楽はとても適しています。

音楽を聞く時、予備知識があることは悪いものではないのですが、その知識が直観を助ける限りという条件つきです。知識に頼っていては音楽とは出会えません。外国語を話すのとよく似ています。辞書を片手に外人と喋っても会話にならないのです。音楽を音楽事典を片手に聞くことはできないのです。コンサートのプログラムは立派なものである必要は全くないのです。音楽が直観から離れて学問知識の対象になってしまったことかと憂うばかりです。

 

演奏家も同じです。楽器にしろ、声にしろ人の心を動かす域になるためには努力が必要です。並大抵の努力ではありません。勿論才能も、時には天才も必要です。ゲーテは、天才とは努力できる才能と言いました。努力は持続の才能ですから、演奏家というのは、他の職人さんたちと同じで単純な持続を喜びと感じられる才能が必要です。三日坊主の怠けものは演奏家には向いていません。

直観は持続の中からしか生まれないものです。逆もまた真なりで、直観を磨くには繰り返すことが欠かせません。直観を磨くことを怠ると、癖にはまってしまい、周囲に反応するだけのエモーショナルな次元に引き戻されてしまいます。それでは聞き手の心を動かすことはできないのです。

 

 

 

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