月曜版 4 日本の心 

2014年4月21日

心が私たちを支えています。そこをもっと知るべきです。心が弱ってしまえば生きていることを支えられませんから、心が病むことは勿論ですが体も病気になってしまいます。

今、心の大切さに気が付かないと、私たちに将来がないかもしれないのです。

 

心をどう見るか、その見方は千差万別です。かつて心理学の集まりに出た時のことです。いろいろな人が、みんな専門家の人たちでした。心について自信満々に語るのですが、一向に心が何なのか、どういうものなのかが見えてこないのです。いくら話しを聞いていても解らず、しびれを切らした私は「心はまだ解っていないもの」という結論を自分に出してしまいました。

しかし心が「何かを表現しようとしている」ことだけは確かです。心を理解したいというのは私たちの切なる要求です。

この「何か」はこれからの長い時間をかけて探さなければならないものなのです。

 

日本的な心のあり方を思う時、目の前の相手、目の前のものに対してある態度がみられます。これは外国で生活するようになって一層はっきりと私の中に見えてきたものです。日本を思う時、敬い、感謝する姿が浮かんでくるのです。日本的に心を語る時には、敬う、感謝するが中心になる様です。

この敬う、感謝する姿勢が儒教の礼、孝からくるとも考えられるのですが、儒教思想の影響が強かったアジアの隣国を見てみるとそうではありません。ということは敬う、感謝するという心のあり方、儒教からは表面的に年が上だと敬う、尊敬するということはあっても、一人の人間の心の問題、心の支えとして敬う、尊敬するには影響力がないのです。敬う、感謝するは儒教思想の中で作られるものではないということです。

 

ヨーロッパは違います。十八世紀のカント哲学以降の心は知・情・意に分ける様になります。これは心の機能に就いていっているものです。二十世紀の心理学の世界もその延長にあります。部分的にはシュタイナーの人智学の見方もそれを受け継いでいます。ここで人智学に少し余白を持たせたのは、シュタイナーが心を物質と霊の仲介者と、ヨーロッパの伝統からはみ出した見方を提唱しているからです。

カントによってキリスト教的な原罪の縛りから心を解放された時に、人間の心の働きを知・情・意という形で整理しました。キリスト教的原罪からの解放が主眼です。カントもキリスト教的には異端児です。原罪は楽園から追い出された時から人間が持つ様になったもので、その原罪の解放はキリスト教社会で大きな課題なのです。その解放のために努力しているのがカント哲学です。カントは宗教裁判にかけられませんでしたが、掛けられてもおかしくない状況にあったのです。

日本の場合は原罪思想はなく、心は神の世界とつながっています。考えるという言葉が「カミカエル」、「神様のもとに帰る」となるので、デカルトがいう様に「我思う故に我あり」のように思考というこころの働きが独立するという考え方とは違うものです。日本的には思考は神様のもとにあるものなのです。

思考ThinkがThankに近いのは偶然ではなく、もともと同じものだったといいたいかの様です。日本的見るとそこのつながりが一目瞭然です。日本の心を開放しているのは思考Thinkではなく敬う、感謝するThankです。日本的にいうと全ては敬う、感謝する、捧げるから始まるといっていいと思います。ところがこれは政治的に利用された時、大変な悲劇を呼びます。何事も信じてしまい、信じることからしか出発しない日本的な心は、政治の中で面白い様に、まるで子どもの手をひねる様に簡単に翻弄されてしまい、政治の道具として上手く使われ、想像を絶した悲劇に巻き込まれることになります。 政治という権力が横行する今の社会では日本的な心は翻弄されています。

政治的に辻褄を合せることに心を売ってしまうと、個人としての心は消えて政治の道具としての心にすり替えられてしまいます。ウソは心が辻褄を合せる様になった所で生まれるものです。

心は機能として分類されるだけでも救われません。心は神的な力で解放してあげなければならないのです。西洋の愛はそこに生まれます。心と政治をはっきり分ける見方を身に付けないと、心は何時まで経っても政治の道具にすぎない腐ったみじめなものになり下がってしまうのです。

心の回復が急務だということです。日本的な敬うと感謝すると西洋的な愛が心の中で広がって欲しいものです。

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