火曜版 5 文化と文明の違い  

2014年4月29日

日本文化という風には言いますが日本文明という言い方は耳にしません。日本がりっぱに文明国であるにもかかわらず何かが引っ掛かり、抵抗があります。どうしてでしょう。どうやら二つの間には微妙な違いがあるようです。

ドイツ語では文明は、文明社会のことでZivilisationで文化はKulturです。ちなみにエジプト文明と日本語では言いますが、ドイツ語ではエジプト文化です。

日本語で言う文化と文明の違いは意外とはっきりしていて、文明は道具とか技術、更には法典という人間生活を合理的に整理すもののことです。それ等を発明したことが大事で、それに敬意を表して「何々文明」と呼びます。それに対して文化は心、魂、あるいは伝統という非合理的で説明しにくいものに支えられています。この辺は両方言われる中国文明と中国文化をならべてみると良く解ります。今日的には芸術という言い方のほうが好まれます。

文化と芸術の区別は難しいです。日本文化と日本芸術とは区別が付かないことがあります。文明と文化の間の違いより、文化と芸術の違いを見つける方が困難です。書を文化とするか芸術と見るか、文化と芸術はとても近い中心点を持っている様です。

しかし稲作文化、狩猟文化という生活に密着した、生活の手段についても文明ではなく、文化という言い方をするのはどうしてでしょう。本来なら文明と呼んでいいのでしょうが、稲作は誰かによって発明されたものではなく、自然に生えていたものを生活の手段に変えただけですから、いずれかの文明に起源を発しているものではないので、文明扱いされないのです。狩猟も同じです。

カルチャーというのはもともとの意味は大地を耕すことだと言われています。そこでは自然と対比されていて、人工的にすることという風に解釈もできます。

 

何故日本語では他の言語で文化とみなしているものを文明とくくるのでしょう。

精神的なものを偏重することからの物質的な物への偏見と見てはどうでしょう。日本人の発明になるものはいろいろありますが、たとえばレーダー、キャタピラ、フロッピー、といったものは日本人の発明なのですが、それを日本社会は認めず、認めなかったどころか笑いものにすらしたのです。ですから発明者は外国に持って行き、そこで特許が取られて、その後日本が高く買うという形が見られます。日本社会では日本人が発明してはいけないのでしょうか。(余談になりますが、今も同じ様なことが起こっていますが、この問題についてはいつかゆっくり触れます)。

精神偏重、物質偏見は体質的に見ればアレルギーと同じですから物質界からの攻撃に非常に脆く、日本的精神体質の中の物質偏見は実際の社会生活の中では極端に裏目に出てしまいます。文明社会を蔑んでいるのかも知れません。物質的社会生活の辻褄を合せる政治の世界ではそのアレルギーがとても顕著です。政治はマツリゴトという伝統的な考え方も根強いです。物質偏見症候群と呼んでもいいほどです。外交に関しては言わずもがなです。

実は、精神偏重症候群も皮肉にも良く似た病状を呈してしまうのです。

精神と物質とのバランスというと聞こえはいいですが、実質とてもドロドロしたプロセスです。精神と物質とがお互いに絡み合う中でその両方が新しい次元での出会いを果たす様な努力がこれからの日本が世界との出会いをする中での大切な課題の様な気がします。

 

 

 

 

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