月曜版 5 着物の二次元的性格とその行方 

2014年4月28日

着物姿を随分見かけなくなりました。それでも若い女性たちの多くは成人式、入学式、卒業式、結婚式には出来れば着物でと思っていらっしゃるようで、かわいらしい晴れ着姿は折々に目にします。ところが普段着として着物を召されている方となるとほとんど見かけなくなってしまいました。晴れ着は、特に着なれていない若い女性たちの晴れ着姿は初々しい晴々したところがあっても、どこか取ってつけた様なところがあるものです。それからすると普段着の着物姿は着手になじんでいて人柄がにじみ出ていて味わいがあります。着物という無個性的な中からにじみ出て来る人柄はとても控えめで魅力的です。

着物は世界に類を見ないものです。着物を特徴づけているのはなにかというと二次元的直線美です。着物の裁断からして二次元的で、直線的です。反物を五つのパーツに裁断します。前のために二枚、後ろのために二枚、そして襟と袖の五つのパーツです。裁断の難しさより仕立ての難しさが際立っています。アジアの服の中でも二次元的直線的要素の服はあまりなく、インドのサリーは二次元的な要素を持っているのでしょうが、直線ではなく曲線の中で着こなされます。洋服となると裁断の時点で既に立体的、三次元的で、裁断が仕立てよりも難しく、テーラーはドイツ語では裁断師となります。仕立ては縫い子と呼ばれ下に見られています。

着物には二次元がかろうじて三次元的になろうとする独特の緊張感があります。この緊張感は服飾的に興味があるだけでなく、日本文化そのものがそこに表現されています。二次元世界の無個性から三次元世界の個性的であろうとする所へ移行する時の緊張感です。着物には節度が服飾的にに表現されます。私はそこにはにかみ、恥じらいといった日本文化の根底にあるものを感じます。

それなのに着物の柄というのはとても大胆なのは興味深いところです。昔の着物の柄は地味だったかと思うとそんなことはなく、却って現代風の着物よりもずと大胆な柄が好まれていました。勿論最近の着物の柄の中にも派手なものがあるのですが、洋服的センス、ドレスのセンスを着物に取り入れている様に感じているのは私くらいでしょうか。

 

二次元と三次元の違いはヨーロッパに生まれた絵画的技法、遠近法にも見られます。ルネッサンス以降絵の中には三次元が誕生します。ヨーロッパの中世の絵と日本画的な無遠近法の絵との間には大きな違いがないのですが、ルネッサンス以降ヨーロッパの絵画は全く違う道を歩み始めます。しかし現代の絵画的傾向は無遠近法に近づこうとしているかの様です。絵画は三次元に飽きたのかもしれません。

絵画の中の三次元の発見は人間が個性を重んじる時代に入るのと並行しています。関係があるのです。しかもとても深い関係がです。

三次元的な洋服は、イヴニングドレスなどは特定の個人のために仕立てます。背広も今は吊るしを手直しする程度ですが、昔はオーダーメイドでした。二次元的着物の世界は同じ着物が母から子へと譲られて行きます。三代にわたることすらあります。

 

絵画が三次元に飽きた様に、人間は個性にも飽きているのかもしれません。あるいは自己主張的個性に飽きていて、自己主張のない個性を目指しているのかもしれません。三次元的なものが新たに二次元的なものを発見するかもしれないのです。着物はそうして見ると未来形でもあるのかもしれません。

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