俳句の秘密、それは季語すなわち季節

2014年7月20日

友人が俳句を始めたと言って10句程送ってきてくれたのを読んで、素晴らしい出来栄えに感動してしまいました。

久しぶりに俳句の醍醐味に心が動いたので、俳句のことを書いてみます。

 

俳句は宇宙を呼吸しているのです。

川柳と違って季語があって初めて俳句です。何をそんなに季語にこだわるのか、季語さえあれば俳句なのかと悪口を言う人もいるようですが、季語によって句を詠んでいる人の生きている時間が読者に伝わるので、単なる飾りとしての季語なんかではないのです。これは西洋哲学の存在論とは違った形の存在への問いかけです。

季語によって、作者のまわりを流れている時間と作者が感じている時間とが重なりあうので、とても粗末にできるものではないのです。

 

自分の周りの時間を気にするところが日本的だと思います。世間体だと思ってくださってもいいです。でもただ気にしているのではなく気配りなのです。

自分が何を感じたかだけを17文字の中で言う川柳はそれなりの面白さがありますし、今、世界で流行っている俳句はどちらかというと川柳で、世界で一番短い詩の形としてもてはやされて大流行しているのですが、やはり季語を介して、自分のまわりの季節感と自分の心の中の思いとが出会うところに到達してほしいものだと思います。そこに俳句の醍醐味があるので、季語が作品の中で的を得た様に伸び伸びと生きていると、手に汗を握る思いで俳句に没頭してしまいます。

そもそも西洋人にとって大切なのは自分が何を思ったのか、感じたのかということですから、季節感とかその人の周りの時間とかは二次的なもので、haikuは、作者の考えを手短に表現できる手段ということで充分なのでしょう。

こちらで俳句に凝っている出版社の社長さんがいて、その人と話しをした時のことなのですが、自分の中をよぎる思いを一瞬のうちに凝縮できるところが俳句の魅力だと言うのです。それだけなら、ただ死の形式の問題に過ぎない様な気がしたのですが、そのことは彼には言いませんでした。

 

季語の大切さを教えてくれたのは寺田寅彦でした。俳句について、彼が書いた幾つかの文章の中からです。寺田寅彦の考え方は、今まで読んだ俳句について書かれた本の中で、飛びぬけて(今風に言うとダントツにです)面白く、俳句のもつ世界観的裏付けが手に取る様に見えてきます。俳句に興味のある方には一読をお勧めします。

季語があるのは不自由に感じられるとも聞きます。この不自由が醍醐味に通じるので、季語がうまく処理されていない俳句は気の抜けたビールの様なものと言えるかもしれません。

もしかしたら、今は季節感のない都会生活が、ほとんどの人の生活様式になっていますから、感性を研ぎ澄ませて季節感を都会生活の中に見出すのも一興かもしれません。

 

しかし俳句に限らず日本の文化は季節感の上に見事に成り立っています。それは日本に四季があるからと言うだけでは、説明のつかないものです。ドイツにも四季はあります。しかし四季を取り立てて賞賛することはありません。四季を詠った詩がないわけではありませんが、それよりも作者の個人としての心情が優先します。

日本の四季はただの四季ではないということです。人間存在に深くかかわっているものです。西洋の存在論が空間的に捉えられているとしたら、日本は時間的なのかもしれません。

茶道の世界を見ても季節感を抜きには語れません。掛け軸の絵、特に書には夏向きの書風というのがあり、直線的な動きを表に出しています。お茶碗も夏向き冬向きと使い分けられますから、ただお茶を飲むのではなく季節を飲んでいるのだとも言える程です。

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